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観よ、盤面の歪みを

第3話 第3話

第3話

第3話

東の空が藍を脱ぎ、薄い紅を引きはじめた頃、本陣の太鼓が一つ、低く鳴った。

第十一中隊への前進命令である。グラウン渓谷会戦まで、あと四日。

ライナスは命令書を懐に押し込み、川岸の幕舎へと走った。革帯の留め金が一拍ごとに胸骨を打ち、汗ばんだ襦袢の布地が脇下を擦る。整理されるべき者たちの「下準備」を四日かけて済ませる——参謀ベルトランの黒曜石の指環が銀盆を叩いた固い音が、まだ耳の奥に残っていた。

第十一中隊長フェレンは、辺境の小領主の次男であった。年は三十の手前、髭をきれいに剃り上げ、革鎧の縁には妻が縫ったらしい白い糸で小さな十字が刺されている。ライナスが命令書を差し出すと、男は封蝋を爪で割り、文面に目を走らせた。眉間が、ほんの僅かに寄った——それだけだった。

「北の小丘の中腹まで進出し、敵の出方を見よ、か」

「は」

「敵弓兵の射程は」

「およそ二百歩にござる。風向きは、本朝より北東に変わってござりまする」

フェレンは命令書を畳み、革帯に挿んだ。文字を読む間も、頬の筋一つ動かさなかった。だが薬指の付け根に巻かれた古い革紐が、卓の縁を爪で叩く速さだけは、読む前と読んだ後で確かに違っていた。

「三男の小僧、家書を一通、後方へ届けてくれぬか」

ライナスは目を上げた。

「中隊長殿——」

「持って行け、と申しておる」フェレンは胸元から畳んだ封筒を取り出し、ライナスの掌に押しつけた。「妻の名と、村の名が裏に記してある。届かぬのなら、井戸に沈めて忘れよ」

封筒は、葡萄酒の染みのような色をしていた。指先に、まだ男の体温が残っていた。

中隊が動き出した時、ライナスは本陣の篝火台の脇に立たされていた。参謀ベルトランの傍で復命を待つ役である。彼の位置からは、北の小丘へ向かう斜面が、朝靄の底に灰色の帯となって見えた。

第十一中隊百二十名、二列縦隊で進む。槍の穂先が薄日を反射し、川面のように揺れた。中央近くに、見覚えのある背の低い影が混じっている。井戸端の鍛冶屋見習いだった。新しい胸当ては彼の肩には大きすぎ、左の留め紐が結びそこねたまま腰の上で揺れていた。

第一射は、丘の七合目から落ちてきた。

矢羽根が空を裂く乾いた音が、川の対岸にまで届く。先頭の二十騎ほどが膝を折り、踏み出した足のまま、前のめりに地へ伏した。フェレンの号令——「散れ、左右!」——は、第二射の風切音に半ば呑まれた。ライナスは篝火台の柱を握りしめた。爪が薪の節に食い込み、皮膚の下で小さな血の珠が滲む。

「下がれと申せばよいものを」副将ハルテンベルクが、低く呟いた。

「下がる中隊は、整理にならぬ」ベルトランの薄笑いが返した。「五合目までは押し込ませよ。さすれば、谷底の偽撃も筋が通る」

——五合目まで押し込ませよ。

ライナスは唇の内側を噛んだ。鉄の味が舌の奥に滲む。フェレンが革帯に挿んだ命令書には、確かに「中腹まで進出」と書かれていた。だが、本陣の腹のうちでは、初めから「五合目までの磨耗」が定められていた。命令書の文字は、書いた者の意思ではなく、書かせた者の都合で読まれるものだった。

第三射、第四射——丘の上で敵の弓兵が場所を変えた。射点が東へ二十歩ずれ、斜面を駆け上がる第十一中隊の側面に、矢の網が斜めに掛けられる。フェレンは前列で旗を振り、後列を呼び戻そうとしたが、その腕が一拍だけ宙に止まった。胸甲の右肩から、鏃の白い羽根が突き出していた。

兵たちが叫んでいる。だが、川向こうの本陣には、声の塊しか届かない。

ライナスは目を逸らさなかった。鍛冶屋見習いの影が、二列目の右端から一度だけ立ち上がり、また伏した。立ち上がったのは、隣の老兵を肩に抱き起こすためであった。老兵の額には、既に黒い泉が広がりはじめていた。少年は、それでも肩を貸し続けた。彼の視線の先には、まだ斜面の頂があった。

「斥候の報告が、外れたな」ベルトランが煙草の葉を巻きながら呟いた。「敵弓兵は北面のみ、と申しておったが」

「斥候隊長は、副将殿の妹婿でござりましたか」ハルテンベルクの声が、僅かに乾いた。

「縁戚の話は、戦が終わってからにせい」

太鼓が二度、撤収を打った。だがその音は、丘の中腹までは届かなかった。届いたのは、第十一中隊が四十名足らずに減ってからであった。

陽が中天を過ぎた頃、ライナスは死体回収係に組み込まれた。

参謀ベルトランは、復命待ちの伝令を「人手が足りぬ」の一言で回し、彼の手に粗布の担架の柄を握らせた。担架の柄には、前日まで仮設病舎で使われていた血の染みが、何度も洗われた跡として残っていた。

回収場は、北の小丘の麓、刈株の畑であった。

味方の戦死者を運び出すのは、敵の矢が止んでからの仕事である。ライナスは老兵の伍長グレッグと組まされた。片眼のグレッグは、桶を提げる代わりに、今日は革袋の口を開けて持っていた。戦死者の認識牌を回収する役が、彼に割り当てられている。

「小僧、見るな、と申しても、見るじゃろうな」

「は」

「ならば、覚えるな、と申しても、覚えるじゃろうな」

「……は」

老兵は首を振り、最初の遺体に屈み込んだ。

一人目は、フェレンであった。胸甲の鏃を抜き、革帯に挟んだ命令書を引き出し、グレッグが袋に放り込む。命令書は、まだ封蝋の紅が乾ききっていなかった。ライナスは妻宛の家書のことを口にしかけて、結局、自分の懐に深く押し込み直した。井戸に沈めるには、まだ早い。

二人目は、額に黒い泉を広げていた老兵。三人目は、左手の小指に銅の指環を嵌めた斥候。四人目、五人目、七人目。グレッグは認識牌を一つずつ袋に落とし、ライナスは遺体の足首を担架へ移すたび、その顔を一瞥した。覚えるな、と老兵は言ったが、彼の脳裏は数えることをやめなかった。

十二人目で、彼の手が止まった。

鍛冶屋見習いであった。

少年は、肩を貸そうとしていたあの老兵の上に折り重なるように伏していた。胸当ての左の留め紐は、結びそこねたまま腰の上で泥に汚れていた。指の節には鍛冶場で付いた火傷の白い点が、いまも残っていた。槍の柄を握ったままの右手は、すでに固く、開かなかった。

「弟が三人、おりました」

ライナスは、口の中で呟いた。

「……聞いておったか」

「井戸端で。母が病で、末の弟は乳離れもまだ、と」

グレッグは、片眼で少年の顔を見下ろした。それから、認識牌を袋に落とす手を、一度だけ止めた。

「儂は、覚えぬぞ。袋に名を入れて、終いじゃ」老兵の声が、ふっと低くなった。「お前が覚えるのなら、勝手にせい。だが、覚えた数だけ、お前の腹は重うなる。重うなった腹で、走れぬ夜が来る」

「……走れぬ夜は、いずれ来まする」

「ほう」

「来ぬのなら、覚える甲斐も、ござりませぬ」

グレッグは答えなかった。だが、次の認識牌を袋に落とす前に、その牌を一度、自分の掌に握りしめた。鬚の白い男の手が、僅かに震えた。

担架は、その日、二十七往復した。

ライナスは、二十七往復の間に八十三人の顔を覚えた。フェレンの妻宛の家書は、彼の懐の奥で、汗と血の匂いを吸って色を深めていった。誰のための戦か——その問いは、十日前まで彼の頭蓋の内側で抽象の輪郭を持っていただけであった。今は、八十三の顔の重みとして、両肩の上に確かに乗っていた。

陽が沈み、回収場に篝火が灯った頃、グレッグは担架の柄を地に置き、革袋を肩に担ぎ直した。袋の口からは、認識牌の銅の縁が幾つか覗いていた。

「小僧」

「は」

「お前、十年前の演習地の小僧の話、覚えておるか」

「掌に何ぞ描いておった、と」

「あれの名は、ハーシェルじゃった。エイドリック・ハーシェル」

ライナスの足が、刈株の上で止まった。

老兵は片眼でこちらを見もせず、本陣の方角へ歩き出した。その背は、思ったよりも小さかった。鬚の白い男の足取りには、十年分の何かが、緩く絡みついていた。

ライナスは懐に手を入れた。フェレンの家書の角が、指先に触れる。その隣で、母の銀の鎖が抜けた鎖骨の窪みが、夜気を吸って冷たく沈んでいた。

東の地平に、グラウン渓谷の影が、藍の幕として伸びはじめていた。

会戦まで、あと三日。

彼は担架の柄を握り直し、本陣ではなく、第七中隊の幕舎の方角へ、一歩を踏み出した。

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