第2話
第2話
ヴェルナーは、幕布を払う手を、しばらく止めなかった。
蝋燭の光が、男の頬の古傷をひと撫でしてから消える。眼の奥で、灰となっていた炭火が、僅かに動いた気配があった。視線は、ライナスの右掌——炭で黒く汚れた線——に一度だけ落ち、また顔へ戻った。
「命令書は」
「……ござりませぬ」
「将軍直々の伝令にして、命令書を持たぬか」
「は」
「珍しき将軍命令でござるな」中隊長は鼻から息を漏らした。「で、何と仰せられた。河岸の枯れ草に火を付けよ、とでも申されたか」
ライナスは、息を呑んだ。胸の鼓動が、肋骨の内側で重く鳴る。
「……中隊長殿は、ご存じで」
「儂が二十年、この戦野で何を喰ろうて参ったと思うておる」ヴェルナーは低く笑った。「お前の頭の中にある盤面ぐらい、外から眺めれば誰にでも見える。儂が見えぬのは、お前が独りで何を背負うておるか、それだけだ」
蝋燭の芯がぱちりと爆ぜ、河岸の幕布が風に膨らんだ。風は確かに北から吹いていた。だが、ヴェルナーは外を見もしなかった。
「下がれ、小僧」
「は——」
「下がれと言った」中隊長の声が、ふっと低くなった。「今宵見たもの、聞いたもの、考えたもの、その何もかもをお前の腹に仕舞え。陣に戻り、明朝、何事もなかったように水を汲め。それが、お前の生き延びる唯一の道だ」
ライナスは深く頭を下げた。下げた首の根に、北風が冷たく触れた。幕舎を離れる足音を、ヴェルナーが幕布の内から最後まで聴いていることを、彼は背中で確かに感じていた。
その夜、敵騎兵は南の窪地より進発したが、本陣前面まで押し寄せて引き返した。陽動であった。北の小丘も、東の補給線の腹も、その朝までは静かであった。ライナスの「予感」は、半ば当たり、半ば外れた——というより、誰の眼にも映らぬまま、夜が明けた。
それから七日、第三軍団本陣に、大きな衝突はなかった。
ライナスは伝令役として、日に二十里近く陣営内を歩き回った。本陣から第七中隊へ、第七中隊から弓兵幕舎へ、弓兵幕舎から兵糧庫へ。命令書を運び、復命を持ち帰り、合間に水を汲み、馬の鞍を磨き、参謀の靴を揃えた。誰も彼の顔を覚えなかった。覚えられぬことが、彼の身分の唯一の利点であった。
歩きながら、彼は数えた。
兵糧庫から第七中隊へ運ばれる麦袋の数。第七中隊から仮設病舎へ戻る空の担架の数。本陣の天幕に出入りする副将以下七名の参謀の、靴底に付く泥の色と乾き方。河岸に積まれた薪束の高さと、その日の減り方。彼の頭蓋の内側で、日々の数値が積み重なり、緩やかな波形を描いてゆく。
数えて、気づいたことが、いくつかあった。
第七中隊への麦袋は、定数の七割しか届いていない。残りの三割は、本陣の西側に建てられた小さな離れ天幕——参謀ベルトラン直属の輜重小隊が管理する天幕——へ消えていた。その天幕からは、夜半に荷馬車が一台、二台と西の街道へ出てゆく。荷台に掛けられた麻布の隙間から、麦の匂いと、塩漬け肉の重い匂いが立ち昇っていた。御者台には、商人の縁者と思しき男たちが、武装もせずに座っていた。
突撃命令の宛先にも、偏りがあった。
この十日で前進命令が下された中隊は、第七、第十一、第十四——いずれも辺境貴族か平民出身の中隊長が率いる隊であった。王都の有力家門に連なる中隊長の隊には、一度として無謀な突撃は命じられていない。彼らは陣の後方で、馬の手入れと斥候任務にのみ従事していた。
——磨り潰す側と、磨り潰される側が、最初から決められている。
ライナスは、伝令の合間、誰も見ていない刈株の陰に座って炭の欠片を取り出した。掌に、第三軍団の編成図を線で描く。麦袋の流れを矢印で重ね、突撃命令の宛先を点で打つ。点と矢印は、奇妙な対称を描いた。磨り潰される中隊ほど、補給を薄くされている。死ねば、報告書の上で「定数」の補給は、生きた者の懐へと滑り込む。
「何しちょる、小僧」
声が頭上から降り、ライナスは慌てて掌を握り込んだ。
老兵の伍長が、桶を提げて立っていた。鬚に白いものが混じり、左の眼窩は縫い跡で塞がれている。第七中隊で「片眼のグレッグ」と呼ばれる男であった。
「は、何も」
「掌が、ひどう汚れちょる」グレッグは桶をライナスの足元に置いた。「井戸の水じゃ。冷えちょるが、墨ぐらいは落ちる」
「……忝う、ござります」
「儂は、十年前にも、よう似た顔の小僧を見たぞ」老兵は片眼でライナスを見下ろした。「掌に何ぞ描いて、しきりに考え事をしちょった奴じゃ。賢い顔をしちょったが、半年もせぬうちに、北の演習地で落馬死んだそうな」
ライナスの心臓が、一度、止まった。
「……その者の名は」
「忘れたわい」老兵は背を向けて歩き出した。「掌は、井戸で洗え。ここでは、洗わぬほうがよい」
桶の水は、底に薄氷が張っていた。ライナスは膝をつき、両掌を浸した。炭の線が黒い渦となり、水底へ沈んでゆく。水面に映った自分の眼が、十日前よりも、わずかに深く沈んでいた。
第三軍団本陣に、王都から早馬が着いたのは、その七日目の夕刻であった。
伝令兵は埃まみれの外套を払いもせず、将軍の天幕へと駆け込んだ。封蝋の色は深紅——王宮直下の用件である。ライナスは入口付近で革具の手入れを命じられていたため、自然と、天幕内の声を聞く位置にいた。葡萄酒を運ぶ役は、参謀ベルトランが彼に直々に申しつけた。「下士の小僧で構わぬ。耳のないやつを寄こせ」と。
——耳がないのは、確かに便利だ。
ライナスは銀の盆に杯を四つ並べ、静かに天幕の幕布をくぐった。
卓を囲んでいたのは、ドルモンド将軍、副将ハルテンベルク、参謀ベルトラン、そして王都からの使者と思しき若い貴族の四名であった。使者は紫紺の外套を肩に掛け、首には金鎖を垂らしていた。ライナスは盆を卓の隅に置き、深く頭を下げて壁際に退いた。誰も彼の顔を見なかった。
「グラウン渓谷だ」使者の声は、若いわりに低かった。「次の会戦はそこと、宰相閣下が決められた。第七次会戦——これが、王国の、北方戦線への布石となる」
「布石、と仰せられても」ハルテンベルクが眉根を寄せた。「我が方の損耗は、既に三割に近うござる」
「だからこそ、だ」使者は薄く笑った。「閣下は、辺境出身の中隊を、ここでひとつ整理されたい御意向にござる。整理が済めば、次の徴募で王都派の中隊長を新たに据える。三年がかりの軍政改編が、この一戦で前進する」
——整理。
ライナスは、革紐を結う指先が、ひと拍止まったのを自分で意識した。鼓動が、肋骨の内側で痛むほど大きく鳴る。盆の縁を握る指が、自分のものとは思えぬほど冷たい。
「グラウン渓谷の地形は、御使者殿、ご存じでいらっしゃるか」ベルトランが葡萄酒を傾けながら問うた。
「知らぬ。だが、勝てる地形を選ばれたと聞いた」
「いいえ、勝てる地形ではござりませぬ」副将は俯いた。「あれは、磨り潰す地形にござる。北の小丘より敵の弓兵が射掛ければ、谷底の歩兵は、麦の穂のごとく刈り取られましょう」
「結構ではないか」使者は杯を傾けた。「磨り潰されるべき者が、磨り潰される。それが軍政というものだ」
天幕の中に、束の間の沈黙が降りた。蝋燭の炎が四つ、同じ向きに揺れた。ドルモンド将軍が、初めて口を開いた。
「磨り潰せばよい。残った骨は、こちらで拾うてやる。骨の数は、儂の懐で麦袋に化ける」
低い笑いが、四人の喉から、それぞれ別の音色で漏れた。
ライナスは、頭を下げたまま、後ずさりに天幕を出た。幕布の継ぎ目をくぐる瞬間、ベルトランの黒曜石の指環が銀の盆の縁に当たる固い音だけが、耳の奥に残った。
夜気の中に立つと、星のない空が頭上に広がっていた。第七中隊の幕舎の灯が、川向こうに小さく揺れている。あの灯の下に、井戸端の鍛冶屋見習いがいる。弟が三人いる、母が病で、末の弟は乳離れもまだだと言った少年が。整理される側に、すでに名を書き加えられていた。
掌の炭は、井戸の水で洗い落としたはずであった。だが、ライナスは右掌を強く握り、爪を皮膚に食い込ませた。
その夜、ライナスは寝具に潜らなかった。
陣営の隅、弓兵幕舎の裏手、誰も来ぬ刈株の上に腰を下ろし、懐から新しい炭の欠片を取り出す。月のない夜であった。星もなかった。だが、彼の頭蓋の内側には、グラウン渓谷の輪郭が、十日分の数値と矢印を従え、青白く浮かんでいた。
北の小丘、東の柏林、川の蛇行、風の通り道——十日前、第七中隊長ヴェルナーの幕舎で「下がれ」と命じられた時、彼の盤面はまだ朧げな影に過ぎなかった。今は、輪郭が確かにある。
——磨り潰される側が、磨り潰す側を逆しまにする策は、まだ無い。
だが、「無い」ということが、初めて、ライナスにとって、課題の形を取った。
東の空の端に、一筋の薄い藍色が、また滲み始めていた。第七次グラウン渓谷会戦まで、あと四日——王都へ折り返す早馬の蹄の音が、本陣のほうから低く響いてきた。