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観よ、盤面の歪みを

第1話 第1話

第1話

第1話

陣幕に染みついた獣脂の匂いが、ライナスの鼻の奥を錆びた釘のように刺した。

ヴァルディア王国西方戦線、第三軍団本陣。十九歳の彼は、将軍ドルモンドの天幕の入口で半刻、姿勢を崩さずに立っていた。革鎧の縁が腋下を擦り、汗が一筋、背骨をなぞって落ちる。卓上では将校たちが葡萄酒の杯を傾け、銀の皿には鴨の腿肉が湯気を立てている。半里向こうの仮設病舎では、昨日の突撃で腹を裂かれた歩兵が今朝も三人死んだと聞いた。同じ陣営の中で、二つの匂いがすれ違っている——焼いた肉と、消毒の硫黄。

「伝令、ハーシェル」

参謀のひとりが、卓を見もせず指を振った。羊皮紙の巻物を投げて寄こす。ライナスは膝を折って受け取り、結び紐の蝋印を確かめた。第七中隊への前進命令。だが、彼の指先が紙の質感を撫でた瞬間、脳の片隅で小さな歯車が一つ噛み合う。昨夕も、同じ印で同じ中隊へ前進命令が出た。撤退命令は、この三日、一度も出ていない。

「速やかに」

参謀は、もう彼の方を見ていない。男の小指には、辺境では決して見ない大粒の黒曜石の指環が嵌まっていた。指環は卓の縁に当たるたび、固い音を立てて杯の縁と共鳴した。

ライナスは無言で踵を返した。陣幕を出る間際、卓の隅に放置された地図の一点——グラウン渓谷北端の補給線が、誰かの指で擦られ、薄く滲んで消えかけているのを目の隅に焼き付ける。

——消したのは、誰だ。

問いを口にせず、彼は走り出した。

ハーシェル家は、辺境の没落貴族である。

祖父の代までは小さな塩湖を領し、二十騎ほどの私兵を養えた。父の代に塩の道が王領に編入され、屋敷は売り、領民は散った。長兄エイドリックが王都の士官学校に進んだのが家門再興の最後の希望であったが、十年前、北の演習地で「落馬による事故死」と通達されて棺だけが帰ってきた。棺の蓋を開けることは、王令で許されなかった。次兄は司祭を志して街の聖堂へ入り、残ったのが三男のライナスだった。

家督も領地もない三男に、王国は徴募の鉄札を寄こした。

兵卒では恥になると父が嘆いたので、辺境伯の伝手で「参謀付き伝令」の身分が買われた。階級章だけは下士官、給金は徴募兵と同額。要するに、戦死しても誰も口を開かぬ駒である。母が餞別に持たせた銀の鎖は、最初の月の俸給と引き換えに兵糧へと替えた。鎖の冷たさだけが、いまも左の鎖骨の窪みに残っている。

走る靴底に、踏みしだかれた麦の茎が乾いた音を立てる。

第七中隊の幕舎は本陣から五百歩、川岸の窪みに張られていた。中隊長ヴェルナーは、二十年の野戦経験を持つ叩き上げの男で、頬の古傷の上を蝿が這うのにも目をくれない。命令書を一読して、彼は短く息を吐いた。鼻から漏れた息は、夜明け前の冷気にうっすらと白く滲み、すぐに消えた。

「またか」

「は」

「三日で四度目だ。北の小丘へ突っ込めば、我らの腹が東から串刺しになる。あの丘は、見晴らしが利きすぎる」

ヴェルナーは命令書を卓に放り、指の腹で蝋印をひと撫でした。爪の根に泥が黒く溜まっている。脇に立てかけられた長剣の柄頭には、油布で磨いた跡と、磨ききれぬ血錆の縞が交互に残っていた。卓の上には未だ封を切らぬ家書が一通、皺の寄った麻紐で結ばれたまま積まれている。差出人の名は読めぬほど雨に滲んでいた。

ライナスは目を伏せたまま、革帯の留め金に視線を落とす。中隊長の言葉に頷くことも、抗うことも、伝令の身分には許されていない。だが、彼の脳裏では既に絵が描かれていた。北の小丘、東の柏林、敵弓兵の射程、味方の退路。盤面の駒が、一つ一つ自分の意思を持って動き出す。風向き、月齢、敵の補給日数、味方が抱える担架の数——数えきれぬ要素が、頭蓋の内側で静かに整列していく。

「中隊長殿」

「言うな、小僧」ヴェルナーは小さく笑った。「お前の口から出る忠告は、お前の首を絞める縄になる。覚えておけ」

笑った頬の古傷が、蝋燭の光に引きつれて歪んだ。それは嘲りでも、慰めでもなく、二十年の戦野で同じ光景を何度も見てきた者の、乾いた諦めだった。男の眼の奥には、灰になった炭火のような色がひっそりと沈んでいる。かつてそこに焔があったのだろうと、ライナスは初めて気づいた。

「……は」

「下がれ」

幕舎を出ると、整列した兵が見えた。

革の胸当ては継ぎ当てだらけで、槍の穂先は半数が欠けている。最前列の若い兵が、ライナスと目が合って、ぎこちなく口角を上げた。一昨日、井戸で水を分けてやった鍛冶屋見習いだった。十六か、十七か。弟が三人いる、と言っていた。母親が病で、末の弟は乳離れもまだだ、とも。少年の指の節には、鍛冶場でついたであろう小さな火傷の痕が点々と残り、それがいまは槍の柄を握る皮膚の上で白く目立っていた。

ライナスは目を逸らさず、頷いた。それしか、できなかった。喉の奥で、声にならない言葉が幾つか押し潰される。「逃げろ」とも「死ぬな」とも、伝令の口は言ってはならない。

陣に戻る道で、彼は革袋から小さな炭の欠片を取り出し、掌の内側に渓谷の地形を素早く描いた。北の小丘、東の柏林、川の蛇行、風の通り道——指先が、消えかけた補給線の滲みをなぞる。炭の粉が汗に溶け、掌の生命線の上に黒い川を刻む。

「補給を、誰かが意図して薄くしている」

呟きは、麦の風に攫われて消えた。

その夜、本陣に伝令の早馬が雪崩れ込んだ。

「敵騎兵、南の窪地より進発の兆し!」

伝令兵の声が天幕を裂く。ドルモンド将軍は葡萄酒の杯を半分残して立ち上がり、副将と参謀たちが地図卓に集まった。ライナスは入口の柱の影に身を寄せ、卓上の駒を見つめた。蝋燭の炎が将軍の頬を黄に染め、地図の上には男たちの吐息と酒の湯気が低く漂う。誰の指先も、北の小丘には伸びない。誰の目も、東の補給線の滲みには止まらない。

南の窪地。三日前に偵察隊が「異常なし」と報告した地点だ。だが、その偵察隊長は将軍の縁戚で、報告書の文末に乾ききらぬ酒の輪染みがあったのを、ライナスは見ている。

「南面に第二中隊を回せ」副将が叫ぶ。「本陣前面は第七中隊で固める!」

——違う。

ライナスは唇の内側を強く噛んだ。鉄の味が舌に滲む。

南の窪地は囮だ。地形を読めば、敵の本命は北の小丘を迂回して、本陣の東——補給線の細った腹を割る。三日かけて偵察隊を黙らせ、補給を意図して薄くした者がいる。それは敵の手ではない。味方の中にいる。

そう思い当たった瞬間、ライナスの背筋を細い氷が滑り落ちた。卓を囲む将校たちの誰の顔も、もはや味方には見えない。蝋燭の炎の揺らぎが、それぞれの頬の輪郭をひと拍ごとに別の貌に塗り替えていく。

「ハーシェル!」

参謀が振り向いた。「東の柵へ行け。第三中隊長に、現位置を死守せよと伝えろ。動くなと、二度繰り返せ」

「は」

走り出す。

天幕の幕布をくぐった瞬間、ライナスの足が一拍だけ止まった。月のない夜空の下、夜営の篝火が点々と並んでいる。その光の配列が、彼の脳裏の盤面と重なる。第三中隊が現位置を死守すれば、東の腹は守られる。だが、北の小丘を奪わぬ限り、明朝には味方の弓兵射程が無効化される。

——参謀の命令は、半分しか正しくない。

第三中隊長への伝達は、規定通りに済ませる。だが、その帰り道に、第七中隊長ヴェルナーの幕舎へ寄れる。一刻、いや、半刻あれば、河岸の枯れ草に火を放つ手筈の話だけはできる。風は今宵、北から南へ吹いている。煙は敵の北翼を巻き、視界を奪い、弓兵の標的を曇らせる。火は許可を要する。だが、煙の話だけならば——口にした者の責にしか、ならぬはずだ。

独断の伝令は、軍令違反である。露見すれば鞭打ち、運が悪ければ縛り首だ。

ライナスは走りながら、左の鎖骨の窪みに指を当てた。母の銀の鎖がもう無い、その冷たさだけがある場所を。冷たさは、母の声にも、兄の棺の蓋にも、井戸端で笑った鍛冶屋見習いの目にも、形を変えて繋がっていた。鎖の輪郭を失った皮膚の凹みに、夜気が小さな渦を巻いて触れていく。十年前、棺の前で母が啜り泣いたあの夜と、同じ温度の風だった。

走る速度を、彼は緩めなかった。

東の空の端に、薄い藍色が滲み始めていた。

第三中隊への伝達を終え、ライナスは闇の中を北西へ折れた。第七中隊の幕舎の灯が、川面に揺れて見える。靴底が泥を噛む音、遠い馬の嘶き、自分の呼吸——五感の全てが研ぎ澄まされ、盤面の輪郭が脳裏で青く光る。

幕舎の前で、彼は息を整えた。

中隊長ヴェルナーが、布を払って外を覗いた。蝋燭の光が頬の古傷を浮かび上がらせる。

「……何のつもりだ、小僧」

ライナスは、命令書を持たぬ右手を、胸の前で静かに開いた。掌に刻まれた炭の黒い川が、蝋燭の光を受けて、消えかけた補給線の滲みと同じ色に揺れた。

「将軍命令を、お持ちしました」

ヴェルナーの目が、細く絞られた。

風が、北から吹いた。

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