第1話
第1話
天延七年師走、北辺・燕墻砦。
凍りついた土はもはや石であった。鍬の刃が三度跳ね返り、四度目で乾いた音を立てて欠けた。凍傑(リャオ・ジエ)は柄を握り直し、白い息を吐く。その息は目の前にある屍の頬で、見ているうちに霜となった。
「隊長、もうよしましょう。指が落ちまする」
副官の耿(ゲン)が鉄兜の縁に積もった雪を払い、低く言った。死人を埋めるのに半日。残った灰狼の隊士たちの指は、もはや弓を引くこともままならぬ。
「あと一人だ」
凍傑は答え、痩せた肩を強く張って鍬を振り下ろした。火薬の焦げ跡が走る砦の城壁の下に、三十二の遺骸が雪を被って並んでいる。三月前まで彼の指図で動いていた手足が、いまは藁束のように凍りつき、馬の蹄ほどにも軽い。生きていた頃には、酒を酌み、女の話で笑い、母の名を呼んで泣いた者どもである。それがいま、抱え上げれば肩の骨が皮の下で乾いた音を立て、まるで葦の束を運ぶに等しい。命とはこれほど軽いものか、と凍傑は心の隅で呟いた。呟くたびに、白い息は宙で凍り、足元に細かな霜となって落ちた。
抱え上げると、頬の皮が手袋に張りついて、めりっと音を立てて剥がれた。凍傑は目を伏せた。銭で雇われ、銭で死ぬ。傭兵の道理である。だがその理屈も、凍えた頬の剥がれる音を耳の奥から消してはくれぬ。剥がれた皮の下から覗いたのは、白く乾いた骨の地肌ではなく、まだ赤みのわずかに残る薄い肉であった。それが余計にいけなかった。死にきれぬ者を二度殺しているような、嫌な手応えが指の腹に残った。凍傑は手袋を雪に擦りつけ、その感触を擦り落とそうとしたが、そのようなものが擦れて落ちぬことは、三十年で嫌というほど知っていた。
風向きが変わった。北からの風だ。鼻の奥に張りついた血錆の臭いの上に、馬の汗の臭いが薄く一筋、重なってきた。耿が首を上げる。
「……早馬ですな。一騎」
「うむ」
凍傑は鍬の柄を地に立て、振り返らず答えた。地平線の白の上に、確かに黒点が一つ浮かんで、こちらへ伸びている。雪原の上を駆ける馬の蹄音は、まだ耳には届かぬ。だが鼻だけが先に告げてきた。汗と皮革と、わずかに油の混じった臭いである。よく走らせている馬だ。それも、戦から逃げる足ではなく、何者かの命を背負って急ぐ足の臭い方であった。埋葬は、あの者が砦に着くまでに済ませねばならぬ。なぜか、そう思った。死者の上で生者の用件を聞きたくなかった。それだけの、理屈にもならぬ理屈である。
最後の一人を埋め終えた頃、日は鈍く傾いていた。凍傑は手袋を脱ぎ、掌で頬の汗を拭う。汗は触れた瞬間に氷の粒と化し、頬の皮膚を細く切った。
灰狼の旗を石塚に立て、彼は短く言った。
「南へ帰る」
「南へ、と仰せか」
「故郷の港町、南陵だ。姉者が一人、まだあそこに居られる」
耿は鉄兜の下で目を細めた。乱世も三十年。雇い主が変わるたびに、灰狼は昨日の主君を裏切らされてきた。北の侯から銭を受け、その銭で東の伯を討ち、東の伯の子から金を渡されて北の侯を売る。「裏切りで月日を測る」三十年であった。耿はそれを幾度も見てきた。だからこそ、隊長の声がいまどれほど擦り切れているか、聞きとれた。常ならば「南へ帰る」のひと言にも、凍傑の声には鋭い刃のごとき芯があった。今日のそれには、刃のかわりに、湯気の抜けた茶碗のような、ぬるい疲れが沈んでいた。
「商売は、畳まれまするか」
「畳む」
凍傑は短く答え、雪に埋まった砦の井戸に目をやった。井戸縁に貼りついた氷柱の根に、誰かの千切れた指先がひとつ凍りついている。それが昨夜まで矢を番えていた指であることを、凍傑は知っている。爪に薄く朱が残っていた。寒気で凍えた指を、唇に当てて温めようとした最後の仕草が、爪の縁にうっすらと唾の跡となって張りついている。
「畳む。あの井戸の指先より長く、俺はこの稼業を続けたくない」
耿は黙って頷いた。
凍傑は懐から布包みを取り出し、それを丁寧にほどいた。出てきたのは、銀の小簪である。先に小さな海月の細工が施され、長年の手擦れで一部の彫りが鈍く磨り減っていた。海月の触手の細工は今も繊細で、光の角度を変えるたびに、波の下で漂うかのように青く揺らいで見える。
「姉者の物だ。俺が十二の年に銭を貯めて買って渡した。次は俺が、この簪の在る家に帰る」
「旗印は、いかが」
「雪に置いて行け。狼は、雪に埋もれてこそ似合う」
そう言って、凍傑は石塚の上の灰狼旗をもう一度見やった。三十年、彼の銭と命を運んでくれた旗である。色の褪せた藍地に、白く描かれた狼の輪郭が、いまは雪の照り返しで縁の方からとろけて見えた。だがその旗が次の戦場に立つとき、今夜並べた三十二の屍に、また次の三十二が積み重なるのが、目に見えるようであった。
——もう、御免だ。
掌の中で、銀の海月がわずかに鈍く光った。凍傑は布をかけ直し、簪を懐の内側に納めた。簪の銀は冷たかったはずなのに、布越しに胸へ当てると、なぜか体の方が一段と冷えていた。簪の方が、自分よりまだ温かい。そう感じた瞬間、凍傑は思わず小さく、口の端だけで笑った。耿には見えぬ笑い方であった。
そのとき、馬蹄の音が砦の崩れた表門で止まった。
「灰狼隊長・凍傑どの、御目通り願い奉る!」
声は若い。少年のごとき早馬の使者であった。耿が反射で刀の柄に手をかけたが、凍傑は首を小さく振って制した。
雪を踏みしめて入ってきたのは、薄青の旗を肩に巻いた騎兵である。鞍上の若者は息も絶え絶えに馬を降り、雪の上に膝をつくと、漆塗りの文箱を両手で捧げた。馬の口端からは白い泡が垂れ、その泡が雪に落ちては、淡い湯気を立ててすぐに固まる。北辺の風雪を一昼夜駆け通してきた馬と知れた。
「同盟軍盟主、蒼霜姫(ソウ・ソウキ)さまよりの書状にございまする」
凍傑は、鍬の柄から手を離さなかった。同盟軍——北六州の諸侯が中央朝廷に背いて結んだ、まだ墨も乾かぬ寄せ集めである。盟主は名門蒼家の若き当主、女ながら床几を蹴って諸侯を黙らせると噂の姫であった。その盟主が、傭兵風情に文を寄こす。碌な用ではあるまい。寄越す相手を間違えたか、あるいは、間違えていないからこそ寄越したのか。後者であれば、より厄介である。傭兵の名を知る者は、傭兵の使い道を知る者と相場が決まっている。
凍傑は黙って文箱を受け取り、蓋を開いた。料紙の上に、たった三行が記されていた。
『北辺の戦、見事と聞く。来月朔日、瑩崗(エイコウ)の城に軍議を設く。灰狼隊長、必ず席に来られたし。——蒼霜』
文字の墨は冷たいほど整っていた。一画ごとの筆の入りが鋭く、止めも撥ねも、迷いという迷いがない。女の手とも男の手ともつかぬが、この字を書く者の背筋が、書く間ずっと垂直に立っていたことだけは分かる。料紙の隅に、わずかに紅の指紋が残っている。書きながら指が冷えたものか、それとも血を拭うた指で触れたものか、凍傑には分からぬ。ただ、その紅は爪の形をしていた。爪の先で押さえながら墨を乾かしたのだとすれば、書き手は急いでいた。盟主自ら、急いで書いた文である。
「ご返事は、いかが」
使者が膝のまま顔を上げた。頬は紅潮し、瞳は怯えながらも誇らしげである。
凍傑は、料紙を懐に納めた。すぐ隣に、姉の簪の包みがある。指の腹で、簪の硬さと、料紙の冷たさとが、同時に胸の内側に重なった。簪は南へ帰る道の重み、料紙は北へ縛りつける重み。その二つを、いま彼は同じ懐の同じ位置で、同時に抱えてしまったのだ。
「……参る、と伝えよ」
声は、自分でも驚くほど低かった。耿が振り向く。
「隊長」
「断る金がない」
凍傑は短く答え、地平線に目を転じた。南陵まで二百里。馬を売って徒で南下しても、ひと月はかかる。途中の道は同盟軍と中央朝廷の小競り合いで荒れていよう。盟主の召しを蹴れば、どの関所も灰狼の旗を通すまい。逆に応じれば、瑩崗から南陵までは、同盟軍の補給路がそのまま南へ伸びている。盟主の旗の下を一里でも歩けば、その一里は南陵へ近づく一里でもある。利を取れと、頭の冷えた部分が囁いた。だが胸の奥のもう一つの部分は、もっと低い声で、これは罠の入り口であると囁いてもいた。
「軍議の席で酒だけ飲み、辞すと言うて帰る。それだけのことだ」
耿は黙して首肯した。だが鉄兜の影で、その目が小さく曇ったのを、凍傑は見ぬふりをした。
使者が門外へ駆け戻って消えた後、凍傑はもう一度、三十二の石塚を見渡した。雪はすでに、彼の鍬の跡をうっすらと埋め始めている。あと半刻もすれば、ここに人が眠っていることなど、誰にも見分けがつくまい。それで構わぬ、と凍傑は思った。誰の目にも見えぬ場所で眠るのが、傭兵にはいちばん安らかである。
「南風が、欲しいな」
ぽつりと呟いた声を、耿は聞き返さなかった。
凍傑は鍬を雪に突き立てた。柄が垂直に立ち、小さな旗竿のごとく雪原に伸びる。懐の簪が、料紙の冷たさをわずかに温めていた。
彼は身を翻し、まだ雪の薄い南の街道へ、最初の一歩を踏み出した。
その背後、北の地平線では——もう一騎、薄青ではなく漆黒の旗を翻した早馬が、雪を蹴立てて、燕墻砦の方へ駆け始めていた。