第3話
第3話
闘技場へ向かう道は、二年前と同じ匂いがした。
低層エリアの石畳は新規装備の足音で擦り切れていて、その上を、夕方から夜に切り替わる光のグラデーションが斜めに撫でていく。ヘッドアップ表示の時計は二十一時四十二分。指定の二十二時まで、あと十八分。
俺の二歩後ろを、ミオが歩いている。
「あの、ノエルさん」 「黙ってろ」 「黙ってますって、もう五分」 「……黙れてないだろ」 「だってこれ、絶対やばい状況じゃないですか」
ピンクの頭が、街灯の魔石の光で染まってオレンジに見える。彼女の杖の先がときどき石畳に触れて、コツン、と乾いた音を立てる。新規プレイヤー特有の、装備重量を持て余した歩き方だ。
俺は、闘技場の正門を視界に捉えた。
低層プレイヤー専用、第三リング。観戦席は半地下式で、夜になっても照明が落ちない設計。今夜、ここに俺を呼んだ送り主は、その照明の下に座っているはずだ。広場の古参プレイヤーから情報が回ったとして、行動が早すぎる。広場で名前を呼ばれてから、一時間も経っていない。回したのではなく、最初から回っていた。誰かが、俺の復帰そのものを、遠くで待っていた。
ゲートの紋章が淡く明滅する。入場待ちの新規が二、三人、リング内を覗き込んでいる。普段は閑散としているはずの第三リング観戦席が、今夜は半分以上埋まっていた。
「人、多いですね」 「……ああ」 「ノエルさん、心拍上がってないですよね」 「上がってない」 「それ、嘘ですよね」
俺は答えなかった。
実際、上がっていなかった。それが、嫌だった。
ゲートをくぐる。
闘技場のリングは円形で、直径二十メートル、足元は薄く砂が敷かれている。砂粒一つずつが、踏み込むたびに踝の高さで跳ねる仕様。古参はこの砂の挙動でフェイント方向を読む。新規はそれを知らない。リングの上に立った瞬間、二年前の感覚が、ふくらはぎから腰の裏に這い上がってきた。
観客席を、軽く見渡した。
最前列の右端、黒鉄の籠手をテーブル代わりにして肘を突いている男が一人。フード付きの黒い外套、その下から覗く髪は赤に近い茶色で、首筋に古い決闘ギルドのタトゥーが入っている。レベル表記は意図的にぼかされていて、装備名も全部「???」になっている。運営寄りの権限なしには出来ない隠蔽だ。
──黒鉄ザイン。
二年前、俺の引退戦の相手だった男。
俺が剣を折られて膝をついた、あの夜の対戦相手だ。
「……来たか」
ザインの声が、リングを挟んで届いた。声量は抑えてあるのに、観客席のざわめきが一瞬で凪いだ。それが彼の格だ。二年前から変わらない、空気の引き方。
「逃げたのかと思ってたぜ、玖城」
苗字。下の名前は呼ばない。広場の古参と、同じ呼び方だった。
俺はリングの中央で立ち止まる。返事はしない。
「アカウント名、ノエル? ふざけた名前だな。お前、二年前は『玖城レン』で全サーバーのトップに立ってた男だぞ。それが見習いの鉄剣で広場をうろついてるってのは、何の冗談だ」 「…………」 「いや、冗談じゃないか。お前、本当に逃げたんだもんな」
ザインが、観客席の柵に手をかけて、ゆっくり立ち上がる。
「二年前のあの夜、俺はお前から一勝もぎ取った。けど、お前は次の朝にアカウントを消した。負けた俺の方が、勝ち逃げを見せられた格好だ。お前が消えてから、俺がトップに立った。それは事実だ。だが、誰も俺を一位とは呼ばなかった。『玖城が消えたから、繰り上がった男』──それが、二年間の俺の肩書きだ」
ザインの語尾に、初めて熱が混ざった。
「だから、二年待った。決闘ギルドを畳んで、新キャラを五つ作って、復帰アカウントの動向だけを監視するシステムを書いた。今日、広場で兎を四秒で斬った『ノエル』のログを拾った瞬間、確信した。お前だ、と」
俺は、ようやく口を開いた。
「人違いだ」 「ノエル、ですって。ね、ノエルさん、人違いって言ってます」 「ミオ、黙ってろ」 「黙ってますけど、これ絶対バレてるやつじゃないですか」
ザインが、ミオを一瞥して、口角を歪めた。
「連れか。お前らしくないな、玖城。昔はソロで頂点に立つって言ってた男が」 「俺は、玖城じゃない」 「じゃあ、そこで剣を抜いてみせろ」
ザインが、リングの縁に片足を乗せた。
「他人の空似なら、お前は逃げる。素人なら、震えて剣を取り落とす。だがお前が二年前と同じ抜き方をしたら、それで答え合わせだ。簡単だろう?」
俺は、左手で柄を撫でた。
麻紐の摩擦が、指の腹で鳴る。森で兎を斬った時と同じ温度。路地でPKを返り討ちにした時と同じ角度。剣を抜くたびに、二年前の自分が肉体の内側から押し上がってくる。今、抜けば、まちがいなくバレる。
しかし──抜かなければ、ザインは引かない。
「ノエルさん、抜かなくていいです」
ミオの声が、リングの柵越しに飛んできた。
「私、ここまでついてきておいて何ですけど、抜かなくていいです。逃げましょ。だってこの人、絶対あなたのこと、二年前のお相手だって決めつけてるじゃないですか。抜いたら、それで終わりじゃないですか」 「ミオ」 「終わりにしたくないんです、私」
ピンクの頭が、柵を握りしめている。彼女の指先が、白くなるほど力を込めている。
──新規プレイヤーの一日目に背負わせる重さじゃない。
俺は、軽く息を吐いた。
それでも、抜くしかなかった。
ザインに「玖城じゃない」と思わせて帰す方法は、もう一つしか残っていない。下手に抜く。素人の抜き方で剣を引き出して、彼の見立てを誤らせる。──だが、出来るだろうか。森で兎を斬った時、肉体は俺の意思を待たずに動いた。路地で男を斬った時も、踏み込みの慣性を「鉄牙」のキャンセルに繋いだのは、考えるより早かった。
俺の体は、もう、下手に抜けない。
「玖城」
ザインが、もう一度、苗字だけを呼んだ。
「俺は、二年待った。お前は、抜くか抜かないかを、ここで決めろ」
俺は、ミオの方を、一度だけ見た。
ピンクの頭が、首を横に振っていた。柵を握る指が、震えていた。彼女が首を振るたびに、髪が左右に揺れて、観客席の照明を弾いた。彼女の杖の柄に巻かれた支給品の麻紐が、俺の鉄剣の柄に巻かれた麻紐と、同じ材質で同じ色だった。
──それを見てしまったのが、いけなかった。
二年前、俺が引退を決めた夜、観客席の最前列で、誰一人として俺に首を振らなかった。みんな、勝負の続きを見たがっていた。剣を抜けと、目で言っていた。
今、首を振っている人間が、一人だけ、いる。
「……悪い、ミオ」
俺は、ミオに背を向けた。
ザインに、正対した。
右手を、柄に。左手の麻紐を、ゆっくり、一周だけ巻き直す。重心、左足。剣先、地面と平行。鞘の角度、四十五度。──二年前と、同じ抜き付けの構え。塗り替えるのは、もう諦めた。
ザインの口角が、満足げに上がる。
「それでこそ、玖城だ」
俺は、答えなかった。
代わりに、剣を抜いた。
刃が鞘から出る音が、リングの砂の上で、二年前と同じ高さで響いた。
砂が、踝の高さで跳ねる。
ザインの片足が、リングの縁を蹴って、観客席から砂上に降り立った。
「ありがとうな、玖城」 「礼を言うのは早い」 「お前が抜いた瞬間にもう、俺の二年は報われた」
ザインが、黒鉄の籠手から両手剣を引き抜く。
二年前の決勝で、俺の鉄剣を半ばから折った、あの両手剣。装備名は伏せられているが、刃紋を、俺は覚えていた。
ミオの杖の先が、柵にぶつかって、コツン、と鳴った。
「ノエル、さん」
呼び方が、戻っていた。
「ミオ、リングから離れろ」 「離れません」 「離れろ。流れ弾はPvPルールでも止まらない」 「離れません、絶対に」
俺は、舌打ちを噛み殺した。
ザインの剣先が、上がる。観客席のざわめきが、一斉に息を止めた。リングの照明が、二年前と同じ角度で、俺とザインの刃の上に落ちる。
頭の片隅で、何かが、小さく軋んだ。剣の柄ではない。指の腹でもない。もっと奥──二年前に置き去りにしてきたはずの、剣を抜く理由そのものが、今、勝手に拾い直されようとしていた。
その予感が輪郭を結ぶ前に。
ザインの剣が、振り下ろされた。