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守護者の刃 ―最弱ギルドの再起―

第1話 第1話

第1話

第1話

──ログイン完了の電子音が、後頭部の奥で硬く鳴った。

二年ぶりだ。フルダイブ初期化に伴うざらついた加速感、首筋に走る微弱な静電気、舌に薄く広がる金属の味。記憶より一拍長く感じるのは、神経が忘れかけているせいか、俺がまだ躊躇っているせいか。

「『アスガルド・オンライン』へようこそ、新規冒険者様」

合成音声のNPC案内が頭蓋の内側で響く。視界が広がる。中央広場の石畳、頭上に三本伸びる鋼鉄樹、空の色は二年前と同じ──いや、シェーダーが一段細かい。アップデートが入ったのは知っている。俺が触らずにいた間も、世界はちゃんと回っていたわけだ。

ステータスを軽く呼ぶ。アカウント名「ノエル」、レベル1、職業:剣士見習い、装備:鉄の片手剣と麻のチュニック、所持金八百ゴールド。何の変哲もない。意図して何の変哲もなくした。

玖城レン、という名前は、もう捨ててきた。

「やべ、俺やっぱメイジにすりゃよかったかなぁ」 「お前ガチでやんならフレンド送れって、後で組もうぜ」 「最初の三十分でログアウトとかなしな!」

近くで歓声を上げているのは、明らかに他ゲーから流れてきた新規組だ。装備は俺と同じ初期支給品で、操作に半拍の戸惑いがある。視線がメニュー画面と地面を往復する癖、足裏で石畳の硬さを確かめるような不必要な踏み込み──全部、初日特有の挙動だ。

──大丈夫だ。混ざれる。

そう言い聞かせて、俺は左手で柄を撫でた。麻紐の摩擦。指の腹に走る、覚えのある手触り。二年。たかが、と思っていた。されど。

「あの、すみませーん」

声をかけられた──のは、すぐ後ろからだった。

振り返る。ピンクのショートヘア、短い片手杖、レベル2。ネームプレートには『ミオ』とある。大きな目で俺を見上げてくる。

「お一人ですか? 私もチュートリアル中で、もしよかったら一緒に──」 「一人でいい」 「ええっ。でも、レベル1で森って危なくないですか? モンスター三体同時で出てくるって書いてあるし」 「平気だ」 「平気って、なんでそんな自信満々なんですか初心者なのに」 「……初心者だからだ」 「絶対嘘ですよね今の!」

妙に勘の良い子だ、と内心で舌打ちする。声色のわずかなブレを拾って嘘を見抜く、子供じみた直感。冗談めかして笑っているが、目の奥は笑っていない。観察している。

俺は短く区切って、背を向ける。可哀想だが、絡まれる訳にはいかない。集団で動けば、俺の挙動を観察する目が増える。

受注石碑で『野生のホーンラビット三体討伐』を選び、森に踏み込む。腐葉土の湿った匂い、足裏に押し込まれる枯れ葉、頬を撫でる風の温度。アスガルドの環境表現は本当によく出来ている。これだけ作り込まれていれば、二年でも腐らないわけだ。

木漏れ日が斑に揺れて、頬の上で温度が点滅する。遠くで小鳥が鳴き、近くで小枝が折れる音。耳の解像度が一段ずつ上がっていく。戦闘前、世界が静かになる感覚──聴覚が拾うものを勝手に選別し、不要な情報を背景に押しやる癖。捨ててきたはずの感覚が、皮膚の下から音もなく這い上がってくる。

「ピィッ」

茂みの奥から角の生えた兎が三体、横一列で飛び出してくる。プレイヤーをロックオンする初級モンスター特有の、馬鹿正直な突進。

──体が、勝手に動いた。

抜剣、重心は左足、柄は腰だめ、刃は水平。一歩踏み込んで右半身を抜く。一閃。二体の首が同時に飛んだ。残った一体が反転する刹那に剣を返し、その喉首を縫い止める。

手首の返し、剣先のブレ幅、踏み込みの歩幅。全部、考える前に肉体が選んだ。脳が指示を出すより早く、二年間冷凍されていたはずの動作が勝手に解凍されて、何事もなかったかのように起動する。怖い、と思った。

ビジュアルエフェクトの粒子が三つ、空中で弾けて消えた。

『クエスト達成。経験値+九十、ゴールド+三十』

システム音声が軽く鳴る。所要、四秒弱。

息を吐く。吸う。心拍はほとんど上がっていない。それが何より不味い、と頭の冷たい部分が呟く。緊張していなかった。怖がっていなかった。初級モンスターを三体相手にして、汗の一滴も浮いていない──そんなのは、二年やっていない人間の生体反応ではない。

「……えっ」

背後で、息を呑む音。

振り返ると、ミオがいた。広場で別れたはずのレベル2が、わざわざ茂みの陰までついてきていた。短い杖を両手で握り、口を半開きにしている。彼女の足元には、踏み潰した枯れ葉の跡。距離十歩。俺の刃の届く半径の、ぎりぎり外側で立ち止まったその位置取りが、また気に食わなかった。

「今の、なに?」 「クエスト達成だ」 「そういうことじゃなくて!」 「……ホーンラビット狩った」 「だからそういうことじゃなくて!」

俺は答えるのを諦めて、剣の血溝に残った薄い赤の粒子を払い、鞘に戻した。

広場に戻ると、空気が変わっていた。

クエスト達成通知が街全体に流れる仕様はない。なのに、視線が集まっている。チュートリアル中の新規が二十人ほど、俺の動線を遠巻きに眺めている。中には、明らかに新規ではない者もいた。

「今のクエスト、四秒だってよ」 「初級レベル1の挙動じゃないって」 「録画してたやつ、切り抜いて配信に流せ」 「タイトル『無名剣士、初日に新記録更新』な」

ざわめきが粒状に広がる。俺は耳を伏せたい衝動を堪えて、宿屋の方角に歩き出した。動かしすぎた。一閃が綺麗すぎた。アカウント名と装備を塗り替えても、剣筋までは塗れない。二年のブランクを過信していたのは、俺の方だ。

「待ってってば!」

ミオの声が背を追ってくる。早足。さっきの俺の振りを見て怯えなかった、というのが彼女の異常さだ。普通の新規なら、首が二つ同時に飛んだ瞬間に三歩は退がる。それが出来なかったのか、しなかったのか。

「ノエルさん、あなた、本当に新規ですか?」 「……新規だ」 「嘘」

短い断定が背中に刺さる。

「私、こっち来る前にずっとアスガルドの動画観てたんです。トッププレイヤーの剣筋、何百本も。だから分かる。今のあなたの抜き方、二年前にいた──」 「ストップ」 「えっ」 「それ以上は喋るな。お前のためだ」

ミオの言葉が止まる。だが俺の耳に届いていたのは、彼女の声ではなく、もっと別の声だった。

「──あいつ、まさか」

低い男の呟き。十メートル先、噴水の縁に腰掛けた、装備が明らかに高ランクの古参プレイヤー。フルプレートにギルドエンブレム、サブキャラだろうがメインだろうが、相応の格。彼は片手にメニュー画面を浮かべたまま、目だけをこちらに据えていた。

俺は、彼の横顔を覚えている。

二年前、俺の引退戦を、観客席の最前列で観ていた男だ。あの日、最後のPvPで俺が剣を折られて膝をついた瞬間、彼は拍手をしなかった。会場全体の歓声と落胆が混ざり合う中で、ただ目を細めて、ゆっくりと一度だけ頷いた。敵だったのか、味方だったのか、今も分からない。けれど、その視線の温度だけは記憶の底に焼き付いている。今、まったく同じ温度が、二年の時を飛び越えて、こちらに据えられていた。

古参プレイヤーが、ゆっくりと立ち上がる。彼の指先は既に、フレンドリストか、ギルド連絡欄に伸びていた。

「玖城」

その単語が、空気の中で硬く凝った。捨ててきた名前を、復帰初日の広場で、二年ぶりに呼ばれた。

苗字だけ。下の名前は呼ばれなかった。それが余計に堪える。彼は確信があるからこそ、フルネームを口に出さなかった。試している──本人なのか、空似なのか。返事をするな。歩調を緩めるな。振り返るのは論外だ。それすら全部、答え合わせになる。

「玖城?」

ミオが俺を見上げる。三文字を聞いた瞬間、彼女の瞳孔が一段開いたのが、超解像度のVR描写でもはっきり分かった。知っている顔だ、と俺は思う。彼女は今、自分の中で点と点を繋げている。動画で何百本も観たという剣筋、二年前に消えた名前、復帰初日に四秒で終わったクエスト。線が一本引かれてしまえば、もう外せない。

俺は左手で柄を握り直す。麻紐の摩擦が、指の腹で鳴る。

──想定通りだ。バレるのは早ければ初日と読んでいた。問題は、ここから。広場の南、低層プレイヤー専用の闘技場。深夜まで人が抜けない場所。そこから今夜、俺を呼び出す声が、もう一つ届く。そんな予感が、麻紐の摩擦と一緒に、指先に灯った。

頭上の鋼鉄樹が、風でひとつ軋んだ。

俺は、歩き出す。

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