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反閇陰陽——見捨てられた退魔官のざまぁ日誌

第1話 第1話

第1話

第1話

口の中に鉄の味が広がった。

池袋サンシャイン通りから三本裏、解体予定の廃ビル四階。コンクリートの粉塵と、鼻を突き刺す死臭。足元には砕けたタイルと、誰のものとも知れない古い血痕がこびりつき、壁には解体業者の赤いスプレーで×印が殴り書きされている。四月だというのに、このフロアの空気だけは真冬の地下室のように冷たく、呼気が白く凍って視界を曇らせた。俺の肋骨は少なくとも二本折れていて、左腕は肩から先の感覚がない。指先だけが、心臓の鼓動に合わせてじんじんと痺れている。視界の端で、そいつはゆっくりと四足を折り畳んだ。

中級妖魔——A級上位。牛の頭蓋に蝶番のように接ぎ合わされた三つの下顎。眼窩は空洞で、その奥に青白い鬼火が二つ、行灯のように揺れている。剥き出しの肋骨の隙間から、腐りかけの内臓が脈打つのが見えた。百年以上前に廃棄された屠殺場の怨念が、配送センターの廃棄肉を媒介に実体化したと、昨日の報告書には書いたはずだ。単独対応不可、と。赤い印鑑を捺して、両手で差し出したはずだ。受け取った事務官は、目線も上げずに受領印だけを押した。あの無機質な判子の音が、今、耳の奥で反響している。

「庚申課、渋谷分室、黒鉄悠真、退魔官補」

無線に向かって、折れた歯の間から血と一緒に名前を吐き出す。舌の上に、割れた奥歯の欠片が転がっているのが分かった。

「現場、ラストオーダー。バックアップ要請。繰り返す、バックアップ要請。A級、視認、交戦不可能」

沈黙。 数秒、数十秒。秒針の音が、自分の頸動脈の脈動とすり替わっていく。耳の奥が、水の底のようにこもる。無線機のスピーカーからは、かすかなホワイトノイズだけが漏れて、まるで遠い海の音のようだった。

妖魔の三つ目の下顎が、ぎちり、と鳴る。こちらの心臓の音を味見するような、耳障りな咀嚼音。黒ずんだ涎が一滴、顎先からコンクリートに落ちて、ぶつ、と小さな泡を立てて床を焦がした。俺は左手の中の呪符を握り直した。汗と血で紙はふやけ、朱墨で刷られた梵字の一画が滲んで歪んでいる。制式術式・封縛符第四型。庚申課が下級退魔官に持たせる、ホチキス止めのカタログスペック。A級に通用するわけがない。それでも、今ここにあるのはこれだけだ。

──ぶつり、と。

無線から音が飛んだ。

「葛城です。あー、黒鉄くん」

支部長席の葛城。よく響く、濾過された声。背後で誰かが笑っている気配がする。コーヒーカップを置く陶器の音。事務方の女性が電話を取り次ぐ声。蛍光灯に照らされた分室のリノリウムの床、壁の時計、給湯室の湯気——音の一つひとつから、そこの昼下がりの光景がまざまざと立ち上がってくる。あちら側はまだ、昼下がりの執務室の続きだった。

「訓練の一環だから。そのまま。うん、そのまま続けて。A級認定は、君が現場から無事帰ってから、改めて精査します」

そのまま、の「ま」のところで、無線が完全に切れた。

耳の奥で、何かの紐が千切れる音がした。胸の中で、長年こらえていた熱いものが、逆にすうっと冷えていく。指先から、つま先から、体温というものが順番に抜けていき、代わりに鉛のような重さが骨の芯に流し込まれていく感覚。

見捨てられた。——違う。最初から、救うつもりなんてなかったのだ。

俺は、三ヶ月前に渋谷スクランブル交差点で低級怨霊を徹夜で七体祓った。終電を逃し、始発まで歩道橋の下でうずくまって震えていた、あの晩。夜が明けて報告書を出したら、手柄は同僚の天宮が持っていった。彼は笑って俺の肩を叩き、「悪いな、黒鉄。上の方針だから」と言った。二ヶ月前、新大久保の雑居ビルで女子高生一人を低級憑きから守った。あの子は泣きながら俺の袖を握って、何度も何度もありがとうございますと繰り返した。その名前も顔も覚えている。なのに、報告書では「当該日、黒鉄は現場に不在」と書き換えられていた。先週、池袋でこの妖魔の前兆を感知して、単独調査に出ろと命じられた。命令書には、上司のサインがあった。インクの乾き切らない、真新しい朱肉の匂いが、今でも指先に残っている。

ここは、最初から墓穴だったのだ。

俺という人間の形をした、ちょうどよい穴。

妖魔の三つの顎が同時に開く。喉の奥から、ねばついた黒い舌が三本、飛び出してきた。舌の表面にはびっしりと逆向きの棘が並び、先端はぬらりと濡れた鉤爪の形をしている。空気を裂く音が、低く、幾重にも重なって響いた。腐った沼の底をかき混ぜたような臭気が、一拍遅れて顔面に叩きつけられる。

俺は反射で呪符を突き出した。封縛符第四型。かしゃん、と、ガラスが割れるような安い音を立てて、呪力が逆流する。符が炭化する。俺の右腕の皮膚が、肘まで焼け爛れた。焦げた肉の匂いが、自分の鼻腔をまっすぐ突き抜けて、脳の奥を白く灼いた。痛みは、むしろ遠かった。痛みの回路が、もう許容量を超えて麻痺している。

「……あは」

笑いが漏れた。血混じりの笑い。喉の奥で泡立つような、自分でも聞いたことのない音だった。

ああ、そうか。 俺は今、死ぬんだな。

違う。 死ぬんじゃない。殺されるんだ。妖魔にじゃない。葛城に。天宮に。報告書を書き換える事務方に。血統だとか家格だとかを理由に俺を雑用に塞ぎ込み続けた、庚申課という機構そのものに。十八で両親を亡くし、遠縁の伝手でこの組織に拾われた日から、俺は「黒鉄」という姓の響きに笑われ続けてきた。由緒のない、鍛冶屋の末裔。名家連中の宴席で酌をさせられ、訓練場の隅で雑巾を絞り、誰かの手柄のための囮にされ。

生への執着は、不思議と湧かなかった。湧いてきたのは、もっと低い温度の、ざらついた、鉄錆びたような感情だった。胸の底に、どろりとした黒い油が溜まっていくような。その油は、ゆっくりと、しかし確実に、俺の呼吸の一回ごとに嵩を増していった。

——殺してやる。

そいつらを、一人残らず。

妖魔の舌が俺の胸に届く寸前、折れた左腕で最後の制式符を摘まみ上げる。指が震えて、紙の角が爪に食い込む。展開する前に、舌に巻き取られた。紙と、指の爪が一枚、持っていかれる感触。めりっ、と、自分の指先から何かが剥がれる乾いた音が、やけに遠くで鳴った。

背中が、コンクリートの壁にぶつかる。後頭部に鈍い衝撃。視界が一瞬、白く飛んで、戻ってくる頃には、天井の蛍光灯の割れた残骸が、ぶらんぶらんと振り子のように揺れていた。

俺は視線だけを下げた。落ちていく意識の底で、胸ポケットの内側が妙に重いことに、今さら気づく。一昨日、総務で受け取った辞令書。「退魔官補・黒鉄悠真、当面、雑務処理を継続する」の一文。あの時、受付の女性は俺と目を合わせなかった。判子を押して、書類をカウンターの向こうに滑らせて、次の人を呼んだ。それだけのことだった。

折り畳まれた薄い紙を、血で濡れた指が摘まみ出す。紙は湿って、文字のインクが指先に青く移る。

笑えてくる。これで妖魔を止めろとでも言うのか。

三本の舌が同時に俺の首に伸びた。熱い息が、頸筋にかかる。鉄臭と、腐肉と、それから妙に甘ったるい、腐った果実のような匂い。舌先の棘が皮膚をかすめ、薄い血の筋が鎖骨に沿って滑り落ちていくのが分かった。

——その時だった。

瓦礫の向こう、崩れかけた非常階段の踊り場に、ふわり、と、場違いなものが揺れた。

浴衣の、裾だ。

藍地に白く流水紋。老人の痩せた足首。裸足に木の下駄。廃ビルの四階の、血と妖気の湿り気の中で、そこだけが、縁側から迷い込んできた夏の夕方のようだった。風鈴の音さえ聞こえてきそうな、柔らかい空気の層が、その輪郭の周りだけ、現実から一枚浮いていた。

「ほう」

声は、しわがれていて、軽かった。まるで近所の縁台将棋でも覗き込むような調子で。

「葛城の坊の、仕込みかの」

一歩。下駄が瓦礫を踏む。からん、ころん、と、その音だけが、やけに澄んで響いた。

「それにしては、おぬし、妙に呪力の筋がええわい」

妖魔の首が、ぐるん、と音を立てて踊り場の方を向いた。三つの下顎が、威嚇のために同時に開く。黒い舌が、今度は老爺に向かって、ぬらりと唸りを上げた。

老爺は、浴衣の袖から、ただの指を一本、立てた。節くれだった、土いじりで鍛えたような、ただの老人の指。

「すまんの、坊」 皺だらけの目が、俺を見下ろして、笑った。目尻の皺の奥に、夜の底のように深い、冷たい光が一粒、沈んでいた。 「もう少しだけ、痛いぞ」

妖魔の三本舌が、老爺に向かって射出される。 俺の意識は、そこで、切れた。

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