第3話
第3話
《アーダン》の石門が視界の奥に浮かんだのは、ラヴェナ湿原を出てから五時間が経ったころだった。 布の裾は膝から下が完全に裂け、脛には乾いた血の筋が三本走っている。道中、亀裂狼二体、巨大蜂の群れ一回、徘徊ゴーレムの歩行パターン四サイクル──いつもなら三十分で抜ける帰還ルートを、俺は『被弾ゼロ』の一点だけを握りしめて歩き続けた。 痛い。一度でも掠られたら、膝と同じ熱線が体のどこかに走る。その一線を超えさせないために、三年分の回避パターンをすべて組み直した。飛ぶでは遅い、屈むでは足りない、半歩ずらすではもう届かない。痛覚が生還ラインを握った瞬間から、布一枚の距離は、現実の刃物一本分の距離に跳ね上がった。 それでも、俺は倒さなかった。一体も。 経験値はいらない。HPを削るたびに、相手の硬直の癖、噛み癖、尾の振り幅が、俺の指と膝と呼吸に余計に刻まれる。リミッターの外れた世界で、このデータは、たぶん命の厚みに直結する。倒すより、観察する。観察より、逃げ切る。縛り三年の鉄則が、今日、初めて血の通った意味を持ち始めていた。 エリアチャットは歩きながらも氾濫を続けていた。 『北門まであと二キロ、誰か護衛頼む』 『無理だ、うちのPT半壊した』 『〇〇が〇〇しました』 三つ目の赤字が、道中だけで七回流れた。七人。七回、誰かが現実で死んだ。 「……ようやく、か」 呟いたとき、風向きが変わった。湿原の草いきれから、石畳の乾いた埃と、人間の汗と、血の匂いに変わる。
石門の前で、俺は足を止めた。 通常、《アーダン》の石門は左右に開いた両開きで、門番NPCが一人、槍を脇に立てて迎える。今、その門は半分しか開いていない。門番NPCはいる。だが、槍は地面に落ちている。NPCの両肩には、プレイヤーが二人乗り上げて、門の隙間を内側に覗き込んでいた。 門の内側から、音が溢れてくる。叫び声ではない。それは──ざわめきだった。何千という人間が同時に呼吸している、その連続した低周波の震動が、石畳を伝って素足の裏に届く。 門をくぐる。視界が広がった瞬間、俺は一歩、後ろへ引いた。 中央広場。 いつもはPTを組む冒険者が三十人、ベンチに座って露店の干し肉を食っている、のどかな起点。そこが今、見渡す限り、プレイヤーで埋まっていた。推定、八千人。《アーダン》のキャパシティ上限ギリギリだ。押し合う肩と肩の間から、子供のアバターの頭が一瞬だけ浮かんで、また沈む。 装備ビルドの色もばらばらだった。黒光りの全身鎧、赤い軽装、緑のローブ、青い魔導士、金色のスカウト。普段ならPT募集で見かける色違いの戦闘服が、今は全部、逃げ場を失った旗の集まりに見える。どの旗も、同じ方向──空に貼られた運営告知枠の空白の方角を、ちらちらと見上げていた。 「どいて、どいてくれ」 「子供が、うちの子が同期中で」 「ダメだ、ログアウトできねえって言ってんだろ」 「武器屋、武器屋開けろ! 鎧、鎧売れ!」 「誰か、嫁さんに連絡取れる奴いるか」 会話の断片が、頭の上で同時に通り過ぎる。 装備を求めるフル装備プレイヤー。膝を抱えて座り込んだ革鎧の女。ゴーグルを外そうとする動作で両手を頭に当て、固まっている男。泣いている子供のアバター。泣いている、ではなく、泣いている動作のモーションを繰り返して──本当に泣いている。痛覚が解放された世界で、泣くという動作は、動作ではなくなる。現実の嗚咽が、アバターの喉を通って漏れている。 広場の東端、武器屋の扉の前に、押し合いの列が渦を巻いていた。普段なら閑古鳥の鉄扉が、今は三重に人間でへばりつき、押される度に金属の軋みが上がる。店主NPCの槍が掲げられているのが見えた。定員オーバーのメッセージ──安全確保のため店舗はロック中。 その横で、ある男がゴーグルの縁を両手で掴み、剥がそうとしていた。 「やめろ、強制切断は脳がやられるって告知出てただろ!」 「もう嫌だ、もう嫌だ、もう嫌だ、」 「やめろって言ってんだろ!」 掴んだ男の声も泣いていた。二人とも、泣きながら、ゴーグルの縁で争っていた。 俺は人混みの端を、布装備のまま回り込んだ。誰も俺を見ない。見る余裕がない。八千人の視線が、自分の手首と、視界右下の『応答なし』に釘付けになっている。 足元に、誰かのドロップバッグが踏み潰されている。回復ポーションの瓶が二本、割れて、緑の液体が石畳の目地に染みていた。ポーションは回復するが、痛みは回復しない──という知識だけが、三年分の癖で俺の頭の端に貼り付いた。 中央の噴水まで、視線を通す。噴水の縁に立っている老齢アバターが、腕を振り上げて何かを叫んでいる。声は届かない。届く前に、別の誰かの叫びに噛み砕かれる。 ──籠城、だ。 安全地帯の内側にしか居場所がない。外は痛覚解禁の狩場。門の外で一発掠られれば、膝の火傷が全身に走る。死ねば、現実が終わる。ならば、街に集まる。出られなくなる。街は膨れ、飽和し、動けなくなる。動けなくなった人間の群れが、壁の内側で熟れていく。 俺は壁際に背を預けた。石の冷たさが、裂けた布の背中を通って、肩甲骨の間に刺さる。今日初めて、座りたい、と思った。座れば、たぶん立てなくなる。立たない理由はいくらでもあった。 そのときだった。
『緊急告知──全プレイヤー対象』 赤地に黒文字。ラヴェナ湿原で見た、あの告知の色。視界の中央ではなく、今度は広場の上空──本来なら天候システムが雲を描く領域に、巨大なウィンドウが一枚、空を覆った。 ざわめきが、一瞬で止んだ。八千人の呼吸が、同時に薄くなる。 『本ゲームからのログアウト権を、以下の条件で付与します』 『条件──PvPランキング上位千名』 『評価対象──ブロンズ帯予選から開始されるPvPトーナメント戦』 『エントリー期間──二十四時間』 『ブロンズ帯予選 勝ち上がり者=現実復帰の権利が与えられます』 『棄権および敗者=現状維持、デスゲーム続行』 文字は消えない。広場の上で、赤い長方形が、沈まず、揺れず、貼り付いたままだ。六行が、八千人の頭の上で、平等に重力を持っていた。 沈黙のあと、爆発があった。 「嘘だろ!?」 「千人? 千人だけ!?」 「トーナメント? 死ぬか勝つかのトーナメントをやらせる気か!」 「じゃあ、他の奴は? 他の奴はどうなる!」 「武器だ、武器買わせろ! 鎧着ないと話にならねえ!」 誰かが叫んだ「他の奴は?」という問いに、誰も答えない。答えが、誰にも要らないからだ。他の奴は、ログアウトできない。それだけのことだ。 俺は、壁に背を預けたまま、視界の端で自分の配信ウィンドウを確認した。視聴者数、『129』。ラヴェナで増えてから、湿原を歩き抜けるあいだ、ただの一人も減っていない。AAAAAAの整列が、告知ウィンドウを無言で見上げている。八千人の悲鳴より、百二十九人の沈黙のほうが、背骨の根元で響く。 ──見られている。 指先を布の裾に這わせる。裂けた糸先の感触。三年分、俺が積んだものの正体が、ここで問われる。 フル装備で戦うか。縛りを捨てるか。 この二択は、ランキング上位千名を抜けるために、普通なら存在しない。普通のプレイヤーは、迷わず装備を着ける。リスクが高すぎる。命がかかっている。三年前の俺なら、たぶん、迷った末に着けていた。 ランキング上位千名。プレイヤー母数は数十万。千人の椅子に、今、八千人がこの広場でエントリーボタンを押そうとしている。全サーバーで言えば、エントリー者は軽く十万を超えるだろう。倍率百以上。最弱縛りで抜けられる確率は、普通に考えれば、ゼロだ。 普通に考えれば。 俺は、普通を三年前に捨てている。 頭の中で、棚に並べ直す。一、痛覚あり。二、ログアウト条件=PvPトーナメント上位千名。三、装備を着けた瞬間、俺は俺の三年を否定することになる。──三番目が、一番、刺さる。 カイトに晒された夜、奥歯を噛みしめて残した三年だ。縛りを解いて千人に滑り込めば、命は拾える。かもしれない。だが、そのとき、俺は、何者として命を拾うんだ? 布の裂けた裾を、指先が握った。握った。握りしめて、離した。答えは、握り拳の中にはない。答えは、噴水の方角にいる。
広場の喧騒の上に、ひとつ、聞き慣れた声が乗った。 「おいおい、マジか! 千人の椅子取りゲームかよ、面白くなってきたじゃん!」 顔を上げる前に、俺はその声を知っていた。 噴水の縁、さっきまで老齢アバターが叫んでいた場所。今そこに立っているのは、黒地に金刺繍の長剣ビルド、等身大の大剣を背負った、剣士のアバターだ。 視聴者百二十九人の整列が、俺の視界で、一拍だけ、ざわりと動いた気がした。 配信ウィンドウの端に、久々のコメントが一行だけ流れた。 『カイト、来たぞ』 カイトの配信ウィンドウが、広場の壁に一つ、映し出される。視聴者数、二十八万。マイクの向こうで、あいつは、たぶん、まだ笑っている。 俺は壁から背を離し、裂けた布装備のまま、噴水の方角へ、ひとつ、足を踏み出した。