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最弱縛りで頂点を獲る

第2話 第2話

第2話

第2話

赤い明滅が二度、三度、リズムもないままログアウトボタンの上で走る。指を触れる前に止めた。あの赤は、見知った仕様書のどこにも載っていない。 「……切れてない、か」  システムメッセージは三行目を拒んだまま、『観測対象プレイヤーID:0001──一致を確認』の文字列を俺の視界中央に焼き付けている。亀裂の底から這い上がる鉄錆の風が、布一枚の肩を舐めていく。嗅覚モジュール未契約のはずの鼻が、金属の冷たさを律儀に拾う。  配信ウィンドウの視聴者数は『129』で止まった。名前欄はAAAAAA、AAAAAA、AAAAAA。コメントは流れない。流す気もないのだろう。こちらを一列に並んで見ている、それだけの行為に特化した何かだ。  俺はゆっくり、ログアウトボタンの上に指を寄せた。現実の六畳一間に戻る動作はもう体に染みついている。指先が赤い明滅の真上で止まる。  反応がない。  もう一度押した。  赤い枠が一瞬だけ厚くなり、それから──『応答なし』の細い文字が、ボタンの下に貼り付くように現れた。 「……嘘だろ」  三年やってきて初めて見る挙動だった。湿原の草の擦れる音が、耳のすぐ近くで妙に大きい。鼓膜が冷える。  右前方の低木が揺れた。  沼蜥蜴の再湧きだ。出現周期どおり、何事もなかったかのように。だが、俺の中で何かが一つ、ずれているのを感じた。蜥蜴の尾が葉を薙いだとき──その音が、いつもより低い。夜気の密度が、確かに重い。  次の瞬間、視界全体が白く飛んだ。

『EMERGENCY BROADCAST──全リージョン同報』  赤地に黒文字。縁取りが刃物のように鋭い。『アルゴス』のシステム告知で、俺はこんな色を一度も見たことがない。 『ただいまより、全プレイヤーの痛覚リミッターを解除します』 「……は?」 『ログアウト機能を停止します。VRゴーグルの強制切断操作は、脳神経系に重篤な損傷を与える可能性があります』  息を吸うのを、一回、忘れた。 『本ゲーム内で死亡したプレイヤーは、現実の生体活動を停止します』  文字が消えない。十秒、二十秒、赤地の警告は視界のど真ん中で腰を据え、読み落とすことを許さない。末尾に、運営ロゴも、署名も、問い合わせ先も、何もない。告知の形式だけが運営を装い、中身は何かまったく別のものだ。  エリアチャットの枠が、突然、氾濫した。 『は?』 『冗談でしょ』 『ログアウトできねえんだけど』 『誰か触るな、蜥蜴触るな!』 『AAAAAAAA』 『痛い痛い痛い痛い』 『誰か、誰か呼んで、救急、救急!』  文字の濁流。湿原マップのプレイヤーは俺を含めて十七人。普段はほぼ無人のエリアが、今、悲鳴の文字で埋め尽くされている。  俺は瞬きを一回だけ挟んだ。  冷静になろうとしたわけじゃない。冷静が、勝手に降りてきた。三年前、カイトの配信で晒された夜、ゴーグルの下で奥歯を噛みしめた瞬間と同じ感覚だ。心拍が速くなるのを、指先の皮膚がわずかに遠くに感じ始める。  ──痛覚解禁。ログアウト停止。死んだら死ぬ。  三つの情報を、俺は頭の中で別々の棚に並べて置いた。叫ぶ前に、走り出す前に、まず棚に並べる。それが縛り三年で身についた、たぶん唯一の健やかな癖だ。  再湧きの沼蜥蜴が、俺を視界に捉えた。  尾が水平に薙ぐ。いつもと同じ軌道。六割の確率でテイルスイープから入るやつ。俺はいつもと同じ半歩、右へずれた。  尾の風圧が膝を撫でて通り過ぎる──はずだった。  鱗の先端が、布の裾をかすった。 「──ッ」  膝の外側に、灼けるような線が走った。  皮膚が裂けて、血が、布の内側で熱くなる感触。息を吐く前に、腿の付け根まで痛みが走り抜け、腰骨の奥で小さく痙攣する。  痛い。  当たり前のように、痛い。  ダメージ表示『8』。たった『8』だ。HPバーの減りは一ミリ未満。だが膝は燃えていた。現実の刃物で掠られたのと同じ、皮膚神経が律儀に送ってくる、生の信号。  俺は笑いそうになった。笑ってはいないが、頬の筋肉が引きつって、笑顔のかたちに一瞬寄った。──三年間、布一枚で受けてきた風のすべてが、今ようやく本物になった。

 エリアチャットは既に氾濫を超えて崩壊していた。 『ぎゃあああああああ』 『食われてる、食われてる助けて』 『嫌だ、嫌だ、家族に、母さん、母さん』 『誰か運営、運営、運営呼んでくれ』 『痛い、目、目が、』  俺は沼蜥蜴の二撃目をしゃがんで潜った。噛み付きの息が首筋を撫でる。生臭い、本物の生臭さだ。三年分の回避パターンが、あらかじめ俺の膝を次の位置へ運んでおいてくれる。体が先に動く。考えるのはその後だ。  ──落ち着け。  蜥蜴の硬直二秒半を、いつものリズムで数える。二、二・五、ゼロ。今日は倒さない。体力の減った蜥蜴に背を向けて、俺は静かに一歩下がった。経験値は要らない。逃げ切れる相手とは戦わない。縛りの鉄則だ。  息を整えながら、俺はもう一度、棚の情報を確認した。  一、痛覚は解放されている。現実の刃と同じ痛み。  二、ログアウトはできない。強制切断は脳を壊す。  三、死亡=現実死。これが脅しか本気かは、まだ分からない。  三番目を確定させるには、誰かが死ぬのを見るしかない。視線の端で、エリアチャットに流れる断末魔は、どれも文字のまま残り続けている。消えない。誰の名前も、黒く沈んで落ちていかない。──まだ、誰も死んでいない。  俺は亀裂の縁から、もう一歩引いた。  地下遺跡には、今日は降りない。縛りの聖域は、『観測対象プレイヤーID:0001』と名指しで見られている場所で踏み入るには、あまりにも惜しい。あの白い何かが、俺を待っているなら、なおさらだ。  配信ウィンドウの視聴者数は『129』のまま、一人も増えず、一人も減らない。コメントは相変わらず空白だ。視聴者名のAAAAAAが、視界の端で整列して、俺の呼吸を数えている気がした。  肋骨の奥で、心拍が一度、跳ねた。  跳ねたことを、俺は客観的に認識した。三年前、カイトと笑いながら縛りを誓った夜から、一度も見ていない自分の鼓動の速さだ。恐怖ではある。だが、恐怖だけではない。嘲笑の渦で沈んだ俺の指先が、ようやく、何かを掴みに行く準備を始めている。 「……戻るか」  呟いた声は、湿原の空気に吸われず、掌の内側に残った。鉄錆の風がまた、足の甲を這う。  始まりの街《アーダン》。安全地帯。全プレイヤーのリスポーン地点。──今、そこに、何千、何万のプレイヤーが押し寄せている。パニックは街で起きる。情報も、答えも、最初に街で開示される。  俺は『帰還結晶』を持っていない。縛りの都合で、補助アイテム欄はロック済みだ。徒歩で戻るしかない。ラヴェナ湿原から《アーダン》まで、推奨レベル帯のPTなら三十分、俺なら、いつもは二時間、今日は──どれだけかかるかわからない。  膝の血はもう乾き始めていた。布の裾が裂けた糸先を、指で一度だけ摘まんだ。裂け目の長さは親指の二関節分。縛り装備は耐久値が低い。布はこれから、もっと裂けるだろう。  それでいい。  裂けた布の内側でしか、俺は自分の呼吸を確信できない。

 エリアチャットが、また一段、濁った。 『〇〇が〇〇しました』  赤字の一行。プレイヤー名は記号で潰され、読めない。だが、定型文だけは、どのVRMMOでも同じ文言で、誰が見ても意味の解る一行だ。  ──誰かが、死んだ。  チャットの叫び声が、一瞬、止む。濁流の隙間に、息が止まるような沈黙が走る。それから、堤防が決壊した。 『今の、本当に?』 『死んだの?』 『嘘だろ、嘘だろ』 『逃げろ、逃げろ、逃げろ』  俺は目を閉じた。閉じたまま、蜥蜴の硬直秒数を、また、数え始めた。二、二・五、ゼロ。いつもと同じリズムで、体に染みた数字を。違うのは──この数字の奥で、誰かが本当に死ぬということだ。  目を開く。  亀裂の縁に、背中を向けた。  街へ戻る。そして、見てやる。リミッターの外れた世界で、晒された俺の三年が、何を削り取れるのかを。  素足が、湿った土を踏んだ。布の裾が、膝の血に貼りついて、ひとつ、音もなく剥がれた。

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