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最弱縛りで頂点を獲る

第1話 第1話

第1話

第1話

湿った土の匂いが鼻腔を突き抜けた瞬間、三年前の最初のログインが蘇った。  『アルゴス・オンライン』辺境マップ──《ラヴェナ湿原》。視界の端で光る装備欄は、麻の上衣と布のズボンと素足だけ。武器欄は空。ポーション欄もゼロ。補助アイテム欄に至ってはロック済み。──最弱縛り。三年間、俺がこのゲームで積み上げてきた唯一の芸当で、同時に、先月ネットで嘲笑の的にされた俺の全部だ。 「さて、始めるか」  口に出す癖は直らない。VR内の湿った空気が肺まで届き、現実の六畳一間でゴーグルの下の俺は目を閉じたまま、布装備の指先を広げた。風の流れが肌にひっかかる。右前方四十五度、低木の裏。モブ一体。夜間リポップの沼蜥蜴、出現周期百二十秒、初撃はテイルスイープ、確率およそ六割。  視界の左下に自分の配信ウィンドウが浮かんでいる。視聴者、四人。うち三人は名前で分かる無言のROM専、残り一人は今日はじめて見る匿名アカウント。嘲笑のコメントはもう流れない。流す価値もないと判断されたのだろう。先月、元パーティーのカイトが登録者二十万の配信で俺の動画を切り抜き、「縛りごっこで悦に入ってるイタい奴、俺の黒歴史」と笑ってから、視聴者数は三桁から一桁になった。  いい。見られなくても俺は潜る。縛りの中にしか見えない戦術の輪郭があるからだ。装備ゼロの視界は、装備の影で霞んだ世界の裏側を見せてくれる。MOBの呼吸、尾の軌道、湿原の風向き。──全部、布一枚の肌で受けるしかないから、見える。

 低木が揺れた。  葉の先から水滴が一粒、重たそうに落ちる。その落下の速度に、俺はもう蜥蜴の跳躍タイミングを重ねている。  沼蜥蜴が飛び出す前に、俺はもう半歩右へずれている。尾の水平薙ぎが空を切り、膝の横を風だけ残して通過する。──被弾ゼロ。三年でこの数字を落としたことは一度もない。尾が通り抜けた跡に、湿った草の匂いと、生臭い粘液の気配が一瞬だけ立ちのぼって、すぐに夜気に吸われていく。 「次、二秒半」  独り言は癖だ。蜥蜴の硬直秒数を数える。二、二・五、ゼロ。硬直明けの噛み付きをしゃがんで潜り、素足で背中を蹴り抜いた。踵に伝わる鱗の硬さと、その下でわずかに脈打つ体温の記憶。ダメージ表示は『3』。HP4800を削るには千六百回。現実のソロ攻略なら正気の沙汰ではないが、俺には三年分の回避がある。尾と牙と舌のパターンを回しながら、無傷で千六百回刻むだけの話だ。一撃で終わらせたい連中には、きっと永遠に分からない時間の味がある。  配信ウィンドウに久々のコメントが流れた。 『まだやってんのこの人』 『カイトの配信で晒された奴じゃん』 『時間の無駄じゃね?』  ──ああ。いつもの絡みだ。読まなかったふりをして、蜥蜴の三連舌を潜る。一本目は首の横を、二本目は耳の上を、三本目はちょうど鎖骨の前を、布の繊維に触れるか触れないかの距離で通り過ぎる。肌が毛羽立つ。紙一枚の間合いでしか、俺は自分の呼吸を確信できない。  カイト。元パーティーの剣士、登録者二十万、フル装備ビルド鑑定の常連配信者。三年前、最初に俺を縛りに誘った男だ。あのときは二人で笑っていた。「装備縛り最高じゃん」「レベル縛りもいこうぜ」「攻略速度ビリでも俺ら最強」。一年目の冬にカイトは降り、二年目にギルメンたちも降り、三年目、俺ひとりが残った。先月、カイトは自分の配信で俺の古い動画を切り抜いて流し、コメント欄で嘲笑が渦を巻くのを何分もそのまま流し続けた。俺はサブ垢で最後まで見届けた。胃の奥が冷えて、ゴーグルの下で奥歯を噛んだのを、今も覚えている。噛みしめた奥歯の痛みだけが、あの夜、俺が確かに存在している証だった。  蜥蜴がHP1で硬直する。俺は最後の蹴りを入れず、ゆっくり後ろへ下がった。倒すと経験値が入る。縛りにレベル制限はないが、俺はレベル11で止めている。三年間、ずっと11。『アルゴス』公式ランキング最下位集団の、そのさらに下の無位無冠。──それでいい。  布一枚で五十体のMOBを引き連れて走り回る『トレイン回避』。布一枚で地形を利用し、格上MOB同士を同士討ちさせる『挟撃譲渡』。布一枚で一歩も動かず、敵の攻撃判定をすべて真横でかわす『呼吸ずらし』。縛りの中でしか磨けない技術が、俺の指先と膝と呼吸に刻まれている。装備の厚みに甘えなかった三年が、俺の骨になっている。  ──カイト。お前が捨てたものを、俺はまだ持ってる。

 風が変わった。  湿原の東、未踏の沼地から、ぬるい気温の層が流れてくる。推奨レベル60帯。ただし──MOB湧き薄の通路が一本だけ抜けている。三年かけて俺が見つけた、縛りだけが通れる細道。毛皮装備の重低音プレイヤーには絶対に通れない、樹冠の狭い小径だ。  今日はそこの先まで行こう、と決めた。  足音を殺して進む。亀裂狼が二体、通路を挟んで背を向けて座っている。視覚反応距離三メートル、後方死角九十度。俺は狼のちょうど真ん中を抜けた。布装備に足音はない。呼吸を浅く、膝の可動を殺し、体重移動を爪先から踵へゆっくり移す。指先で苔の湿りを掠め、背中の産毛が二頭の獣の吐息を拾う。片方の狼の喉が低く鳴ったが、それは夢のうわ言のようで、瞼は閉じたままだった。三年やれば体が覚える。  抜けた先に、俺だけが知っている亀裂がある。未発見の地下遺跡、入り口は縦に走る岩の割れ目一本、内部は多分高レベル帯。配信には一度も出したことがない。縛りプレイヤーの聖域を嘲笑の燃料にされるのは、もう沢山だ。  亀裂の縁に立つ。  下から冷たい空気が這い上がってくる。岩肌に触れた指先が、ひやりと痺れる。耳を澄ましても、底からは何の音も返ってこない。音が返ってこないという事実が、逆に、そこに何かが在ることを教えてくる。ここから、降りる。  ──その瞬間だった。  視界の中央に、見たことのないフォーマットのシステムメッセージが走った。 『SYSTEM ALERT──リージョンマップの整合性に異常を検出』 「……は?」  運営のメンテ前通告か? しかし画面右上のメンテ予告欄は空白のまま。『アルゴス』のシステムメッセージは黄色の枠だが、今表示されているのは白、しかも縁が静かに明滅している。こんな色のウィンドウ、三年間一度も見たことがない。文字のフォントさえ、普段の角張ったゴシックではなく、どこか古い活字の書体に近い。  二行目が出る。 『観測対象プレイヤーID:0001──一致を確認』  ──観測対象。プレイヤーID:0001。  ありえない。『アルゴス』のID採番は七桁固定、俺のIDは0823641。四桁のIDは存在しない。β時代ですら六桁だった。こめかみの奥で、自分の鼓動が妙に大きく聞こえ始める。 「なんだ、これ」  ぽつりと漏らした声が、VR内の湿った空気に溶けずに、掌の内側で固まった。  三行目は出ない。  代わりに、亀裂の底から風が吹き上げた。湿原には存在しない種類の風。乾いて、金属めいて、鉄錆の匂いがする風だ。VRで匂いを感じたのは、サービス開始から三年、今日が初めてだった。嗅覚モジュールは、俺の契約プランには含まれていないはずだった。

 配信ウィンドウの視聴者数が、いつの間にか『129』に膨れている。  ついさっきまで四人だった俺のチャンネルに、数秒で百二十九人が流れ込んだ。コメント欄は空白のまま、視聴者の名前欄だけが見慣れない記号列で埋まっていた。AAAAAA──同じ文字の羅列ばかり。普通のアカウント名ではない。スクロールしても、次のページも、その次のページも、全員がAAAAAAだった。 「……誰が、見てるんだ」  喉の奥がひりつく。  亀裂の底で、何か白いものが微笑んだ気がした。視線だけが確かに、こちらを貫いた。まばたきの一拍の間に、それは消えたのか、もともと無かったのか、判別できない。ただ、見られたという感覚だけが、皮膚の下に残っている。  視界の右下──いつもはログアウトボタンがある場所が、一瞬、赤く明滅した。  俺は一歩、縁から引いた。  布装備の素足に、鉄錆の風が這い上がってくる。

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