第1話
第1話
「E判定——お前、やっぱり落ちこぼれか」
背中から降ってきた声に、俺は掲示板から目を離せなかった。 六月最初の月曜日、一号館二階の廊下。異能適性試験の結果が貼り出されている。学籍番号順、S、A、B、C、D、Eの六段階。俺の名前「結城奏」は一番下、Eの列にあった。去年と同じ位置。一昨年と同じ位置。十五歳で国に刻印されてから、俺はこの一文字から動いたことがない。 「二年連続でEなんて、うちの学年でこいつだけだぜ」 特待クラスの連中が、俺の肩越しに笑った。一人が指先で小さな炎を揺らしていた。Bランクくらいの下位火系術式。それでも俺からは遠い星だった。 「E——無能力者の劣化版な」 別の声が続く。廊下の蛍光灯が、俺の顔だけ薄暗く見せている気がした。反論は喉の途中で詰まる。 事実だったからだ。 制服の胸ポケットから、銀色の識別票を少しだけ引き出した。隅にEの文字が焼き印のように刻まれている。指先が冷たくなって、俺はすぐに押し戻した。 「結城、邪魔だぞ」 特待の誰かが俺の肩を押した。格下を扱う体重の乗せかただった。俺はよろけて掲示板に手をつき、それから黙って後ろに下がった。殴り返すだけの術式も、怒鳴り返すだけの声も、俺の中にはない。あるのは、干からびた舌の感覚だけだ。
「奏、いた」
階段の下から、焼きそばパンの袋が先に見えた。 「購買、三個残ってた。ぎりぎり」 幼馴染の湊が、袋を掲げながら一段飛ばしに駆け上がってくる。制服のリボンが歩調に合わせて跳ねた。湊は掲示板をちらりとも見ない。踊り場で立ち止まり、俺の前に焼きそばパンを一つ押し付ける。 「いらないって顔してる」 「してない」 「してる。昼、食ってなかっただろ」 図星だった。俺は袋越しに受け取る。コンビニのより少し硬い、購買特有の生地。マヨネーズと紅生姜の匂いがビニールからにじんで、冷房で冷えた手が少しだけ温まった。 「……サンキュ」 「感謝なら今度、購買ダッシュの付き添い」 湊はそう言って、俺の肩を軽くはたいた。特待に押された場所だった。俺は一瞬、湊の手を止めたくなる。そこに触れたら俺のEが移る気がして。でも湊は気にせず、そのまま廊下を歩き出した。 「帰り、商店街寄ってく?」 「……なんで」 「サテンコーヒーの新作。奏のおごりで」 「おごるのかよ」 「割り勘。言葉のあや」 湊が振り返って笑う。眉の下に小さなほくろがあって、笑うと少しだけ上がる。俺はそのほくろを見るたびに、自分がまだこの学校で呼吸していていいと思えた。 特待が俺を透明人間にしても、湊だけは俺を結城奏と呼ぶ。焼きそばパンを押し付けて、商店街に誘って、Eの文字を忘れさせる。それが俺の日常を繋ぎ止めている、細い糸だった。
電車で東京の西側、私鉄沿線の街。駅から高校まで徒歩十二分、途中にシャッターの半分下りた商店街がある。ランクAの異能者が開いたカフェや、Cランク術式で鍛えられた包丁を売る金物屋が並ぶ、どこにでもある現代日本の風景。俺たちは帰り道、いつも通りその商店街を抜けようとした。
違和感は、八百屋の角を曲がったところから始まった。
夕方の五時前、本来ならコロッケを揚げる油の音や、定食屋から漏れる米の湯気、そういう生活の匂いで満ちているはずの通りが、不自然に静まっていた。耳の奥で、自分の呼吸音だけがやけに大きく響く。肌の表面が、冷蔵庫のドアを開けた瞬間みたいにぞわりと粟立った。 空気がねじれている——最初にそう思った。 目に見える揺らぎじゃない。アスファルトに貼られた横断歩道の白線が、少しだけ歪んで見える。電柱の看板の文字が、ピントの合わない写真のように滲む。術式に触れたことがない俺でも、そこに「なにか」が展開されているとわかった。 通りの奥、古い映画館の前で、歩行者が逆流していた。帰宅途中のサラリーマン、買い物袋を提げた主婦、学生服——みな一様に顔を強張らせて、こちらに向かって走ってくる。悲鳴はまだない。代わりに、喉を押し殺したような息遣いが人波に満ちていた。 「……なにこれ」 湊が足を止めた。俺は湊の前に一歩出る。意味のある行動じゃない。幼馴染を背に隠す動作が、体に染みついていただけだ。 逆流する人波の奥、映画館の看板の下に、黒い影が三つ立っていた。 ロングコートの男、スーツの女、仮面の誰か。三人の指先が、それぞれ赤、青、白の光を帯びている。光の粒が空気中に残像を引いた。術式展開。しかも明らかに民間ランクの出力じゃない。 光は線香花火のように弾けるのではなく、重力をもった液体のように空気にまとわりついていた。赤は血を思わせる濃度で、青は深海の温度を持ち、白は眼球を裏側から照らすような鋭さだった。三種類の術式が、互いに干渉せずに並んでいる。それだけで、三人の制御の桁が違うと理解できた。 「——黒曜」 逃げてきたサラリーマンが呟いた。声に恐怖が染みていた。 呟きは伝染した。後ろを走るOL、学生服の女の子、商店街の看板を見上げた老人——誰もがその二文字を口の中で転がし、そして同時に足を加速させた。黒曜。夜のニュース番組が赤いテロップで流す名前。繁華街のビルに風穴を開けたとか、検問所を一人で壊滅させたとか、聞くたびに自分とは別世界の話だと思っていた。その別世界が、焼き鳥の匂いが漂うこの商店街に、ずっと立っていた。 黒曜。ニュースで何度か聞いた名前だ。ランクA以上で構成される武闘派の異能者集団。全国で行政警告が出ている連中。その三人が、この商店街の真ん中で構えている。 「奏、逃げよ」 湊が俺の袖を引いた。声が震えていた。 制服の袖口から、湊の指先が白くなるほど強く握りしめているのがわかる。触れた場所から、湊の鼓動が布越しに伝わってきた。速い。自分の鼓動と重なって、どちらのものかわからなくなる。 頷こうとして、できなかった。 逆流する主婦がベビーカーを引きずってこちらへ駆ける。赤ん坊の泣き声。軒先で焼き鳥を返していた店主が、慌ててシャッターに手をかける。金物屋の前で、スマホを構えた若者が一歩下がる。みんな、逃げようとしている。 それなのに、俺の足は動かなかった。 靴底がコンクリートに縫い止められたように重い。膝の関節が、錆びた蝶番みたいに軋む。頭の中では湊を連れて路地へ引き返すシミュレーションが走っているのに、筋肉にその命令が届かなかった。 動かなかった理由を、今でもうまく言えない。 俺は落ちこぼれだ。Eだ。ランクA三人の術式に、抵抗できるはずがない。湊の手を掴んで、次の角まで走って、それで終わるはずだった。 でも、映画館の下で、仮面の誰かが腕を横に振った瞬間——空気が破裂したような音がした。 ガラスが割れた。 音は一瞬遅れて届いた。先に、世界の縁が光の粒子で縁取られるのが見えた。 金物屋のショーウィンドウが内側から砕け散り、鋭い破片が宙に舞う。破片の一つが、ベビーカーを押していた主婦に向かって、直線的に飛んだ。 スローモーションだった。毛布の赤が、破片の先端に重なる軌道を、俺の目は正確に計算していた。赤ん坊の泣き声が、水の底から聞こえるように遠くなる。 「——っ!!」 俺は叫ぶより先に走っていた。
足より先に、声にならない叫びが喉を焼いた。 破片が俺の目の前で空気を裂いていく。横から伸びた湊の手が、俺のブレザーを引き留めた。でも俺の視線は、主婦じゃなくてベビーカーの毛布の赤に釘付けだった。焼きそばパンの袋が、アスファルトに落ちる。 映画館の下で、コートの男がこちらを向いた。 目が合った、気がした。 ランクAの術式展開は止まらない。次の光が、男の指先で赤く膨らみ始める。直進する種類の術式だ。標的は、立ち尽くす俺たちだった。 湊の息が、俺のすぐ横で止まった。俺は湊の顔を見られなかった。見たら動けなくなる気がした。アスファルトにひび割れた焼きそばパンの袋から、マヨネーズが溢れて、白い筋を引いている。そんなどうでもいいものばかりが、視界の隅で妙にくっきりしていた。 胸ポケットの識別票が、ひどく冷たく肋骨を叩いた。 Eの焼き印が、皮膚越しに凍えさせてくる。お前は何もできない、と金属が骨に直接告げているようだった。 ——逃げろ、と頭のどこかが叫ぶ。お前は落ちこぼれだ。何もできない。 それなのに、俺の右手は、無意識に前へ伸びていた。