第1話
第1話
深夜二時十七分、ヘッドセットの内側のジェルパッドが首筋に貼りつく。コンビニ弁当の油の匂いがまだ畳に残ったままで、視界だけが切り替わる。
——ログイン完了。『アルテラ・オンライン』。
暗い洞窟の壁で、自前のランタンが揺れた。辺境・霧峰山中腹、モンスター推奨レベル十二の雑魚狩り場。公式wikiには「序盤を抜けたら二度と来ない場所」と書かれている。俺のレベルはもう三十二だ。来る必要はとっくにない。
「今夜も、ここか」
誰に聞かせるでもなく呟いた。革手袋越しに、短剣の柄の木の節が掌に食い込む。VR内の触覚は、現実の七割まで再現される。残り三割のぼやけが、俺の現実感覚をちょうどよく削ってくれる。
黒田蓮、二十七歳、契約社員。昼間は倉庫でピッキング、夜はここで狼のピッキング。笑えない洒落だと自分で思う。上司の怒鳴り声と、湿気た六畳の畳と、コンビニの半額シールだけで出来上がっている生活。その外周にだけ、この洞窟の岩肌がある。
草むらから灰色の毛並みが一匹、音もなく飛び出してきた。《鉄刃狼・Lv.14》。俺は半歩だけ左に体を引き、喉元に短剣を差し込む。血しぶきが黒い粒子に変わって散った。
《経験値 +12》
淡い文字が右上に浮かび、すぐに消える。俺の一日の、最後の数字。これを拾うためだけに、満員電車で立ちっぱなしの脚を引きずって帰ってくる。
視界の端で、ギルド勧誘のポップアップが震えた。《銀月の盟約より、参加のお誘いが届いています》——削除。《朧ノ団より……》——削除。どいつもこいつも、ランキング上位の頭数を揃えたいだけだ。俺はPTの駒にも、タンクの盾にもならない。
ひとりで歩く。ひとりで狩る。誰にも急かされず、誰からも期待されない。それが、俺がこのゲームで呼吸できる唯一のルートだった。
二匹目、三匹目。短剣のリズムが定まってくる。現実では噛み合わない歯車が、ここではカチリと噛む音がする。息を吐くタイミング、踏み込む足の角度、短剣を抜き去る手首の返し。そのどれもが、倉庫で棚の番号を読み違えて怒鳴られる俺とは別の人間のものみたいに、滑らかに動いた。汗がこめかみを伝う感覚だけが、現実の俺と地続きだった。
狼の二百九十八匹目を仕留めたあたりで、右の踵が少し痛んだ。VR内の痛みじゃない。現実の、素足が転がっている畳のほうだ。潜入二時間。集中が切れかけている。
「あと、二匹」
自分に言い訳するみたいに声に出した。キリのいい数字で落ちる。それが俺の小さな儀式だ。三百匹で今夜を閉じて、シャワーも浴びずに布団に潜り込む。明日は八時からシフトだ。
二百九十九匹目。岩陰から跳ねかかってきた狼の顎を、短剣の峰で受け流す。体重を逃がし、そのまま喉笛を裂く。
《経験値 +12》《ドロップ:鉄刃狼の牙×1》
売値七ペリル。ペットボトル一本分の金にもならない。
最後の一匹を探して、洞窟の奥へ足を踏み入れる。ランタンの油が尽きかけていた。炎がジジッと鳴く。鼻の奥に、岩の湿気と鉄の味が混じる。
こういう時、少しだけ考える。——なんで俺は、ここにいるんだろう。
ランキング一位の『シノン・セレスタ』は、今この瞬間、世界樹層の最前線で攻略配信を回している。同時視聴三万人。月例大会の優勝賞金は五百万円。SNSのトレンドに、あいつの新スキルのスクショが並ぶ。
俺の今日のハイライトは、鉄刃狼の牙一本だ。
それでも、ログアウトしたくはなかった。現実の六畳に戻れば、壁の向こうから隣人のテレビの音が聞こえる。枕元には、来月分の家賃の振込用紙。
ここでは、少なくとも、俺が振る短剣の軌道を、俺自身が決めていた。
岩棚の向こうに、三百匹目の気配がある。毛並みの擦れる音。低い唸り。俺は短剣を逆手に持ち替え、壁に背を預けて息を止めた。
跳ねてきた一頭が、岩棚の上から落ちてくる。俺は上体を反らし、落下の軌道の下へ滑り込む。狼の腹、心臓のちょうど裏側。短剣の切先が骨の隙間を見つけて、吸い込まれるように通った。
「……ッ」
獣の重みが斜めに崩れて、岩に叩きつけられる。血しぶきが粒子に変わる、その光の中で、俺の視界の中央に、見たことのない窓が開いた。
《経験値 +12》《ドロップ:鉄刃狼の毛皮×1》
ここまでは、いつも通り。
その下の行が、違った。
《隠しスキル取得条件達成:Lv.12以下の生体ユニットを同一個体名義で300体討伐》 《観察眼(EX) を取得しますか?》
「……EX?」
声が裏返った。短剣を握る指が、柄の上で止まる。喉の奥が、急に乾いた気がした。唾を飲み込む音が、ヘッドセットのマイクにやけに大きく拾われる。
EX表記のスキル。公式wikiに一件も記載のない、俺の知る限り未発見領域のスキル。ランキング一位のシノン・セレスタでさえ、公式インタビューで「EXスキルは運営が置いた都市伝説だと思っている」と笑っていた、あの表記だ。
それが、辺境の狼狩り場で、コンビニ弁当と家賃滞納の契約社員に降ってきている。
一瞬、詐欺か運営のデバッグ画面の誤表示じゃないかと疑った。スクリーンショットを撮るボタンに指が伸びかけて、やめた。誰かに見せたところで、信じる奴がいるはずもない。俺のフレンド欄は、半年前にログインが止まったままの元同僚が一人だけだ。
震える指先で、『取得する』に触れた。
瞬間、眼球の奥に、ピリッと冷たい電気が走る。ヘッドセットのフィードバックじゃない。視界のレイヤーそのものが、一枚増えた感じだ。
世界の、見え方が変わった。
ランタンの油壺、《残量0.2L/最大1.0L》。足元の石、《花崗岩・採取不可・建材価値3》。洞窟の壁に張りついた苔、《湿性苔・回復薬素材・Lv.5採取可》。世界のディテールに、数字と属性が透かし彫りのように滲み始めている。
「うわ、」
息が詰まった。ゲーム世界の裏側のデータ構造が、目の前で剥き出しになっている。これだけでも十分異常だ。
俺は洞窟を抜け、街道へ出た。深夜帯でも辺境の街道には、装備を整え直して上位フィールドへ向かう中堅プレイヤーが、ちらほら歩いている。そのうちの一人、両手剣を担いだ重装の男に、なんとなく視線を合わせてみた。
——瞬間、視界に男のステータスが展開した。
《プレイヤー名:バルガス/職業:聖騎士/Lv.47》 《スキル構成:聖盾(CT12秒)/聖断(CT30秒)/加護詠唱(硬直3秒)》 《隠しパラメータ:傲慢+17/短気+8/金策依存+23》
「は、」
笑いが漏れた。笑っちゃいけない場面なのに、笑うしかなかった。肩の力が、抜けるというより、外れる感覚だった。現実で上司の理不尽を飲み下すたびに固めてきた何かが、その数字の羅列の前で、音もなくほどけていく。
傲慢+17。短気+8。それは、俺が二年かけて上位百人の配信を観察してきて、薄々感じていた「あいつらの共通点」を、そのまま数値にして並べたみたいな文字列だった。
俺の知らない文字列じゃない。俺がずっと、誰にも説明できずに勘で読み取ってきたものだ。それが、視える。
バルガスの聖盾のクールタイムが、十二秒。《加護詠唱》の発動前硬直が、三秒。その三秒の間に、俺の短剣なら——喉と、膝裏に、二回入る。
試合の組み立てが、頭の中で勝手に組み上がっていく。踏み込みの距離、フェイントを置く位置、短剣の切先を差し込む角度。まるで将棋の棋譜が、自分の手を離れて勝手に並ぶみたいに、無数の分岐がひとつの最短線に収束していく。
ランタンの炎が、風に揺れて、岩肌に二重の影を落とした。短剣の柄の、木の節の手触りが、さっきまでと違って、妙にはっきりしている。
他人の手札が、全部視える。
コントローラーを握る現実の指が、ジェルパッドの下で汗をかいていた。ログアウトボタンの位置は、分かっていた。押せばよかったのかもしれない。この窓を閉じて、何事もなかったことにして、明日のシフトに備える。いつもの俺なら、そうした。
でも、今夜の俺は、押さなかった。
街道を歩き去るバルガスの背中を、もう少しだけ、見送った。《金策依存+23》の男の肩が、揺れる大剣の重さで、ほんの少し右に傾いでいる。
自分のステータス欄の一番下で、《観察眼(EX)/熟練度1/∞》の薄紫の一行が、静かに息をしていた。
——明日から、誰の動画を観ようか。
俺は初めて、このゲームで、自分から笑った。