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雷槌の軍師――末弟の黒峡

第3話 第3話

第3話

第3話

東の干し草の納屋の、梁の一本が、昼下がりの風に軋んだ。

凌霄は納屋の土間に膝を折り、私兵三百の筆頭格――母方の族から召し抱えた老いた百人長・呉厳の差し出す名簿を、指の腹で撫でていた。墨の乾きが、冬の朝の薄氷を割るように、指先でかすかに剝がれる。名の横に、身の丈、利き手、夜目の利き方、火縄を扱った年数が、父の代から記されていた。三百人分の人生が、四寸四方の紙束に畳まれている。

「三兄上の馬揃え、半刻前に南門を出ました」

呉厳の声は低く、擦れている。六十を越えた喉が、干し草の匂いの中で一度だけ咳を吐き出した。

「三千騎、中央街道を西へ。陣太鼓が二里先の丘を越えるまで、ここからも聞こえましてございます」

凌霄は顔を上げぬまま、名簿を袖に収めた。背の革紐の下で、雷槌の砲口が肩甲骨の間を冷たく押している。父の結び目が、また一度、食い込んだ。

「呉厳。荷駄は」

「藁の束の下に、四頭。鞍の当たりを二度、組み直しました。一頭二門半の配分は、末弟様の指図どおりにて」

「火薬の箱は」

「鉛の封のまま、五の箱。雨を二重の油布で隔て、縄で巻きなおしてございます」

老いた百人長は、報告を並べる声に一切の感情を乗せない。末席の末弟が十七で初めて命令を下したこと、その命令が父の遺した鍵と筒に拠ること、その是非を呉厳の舌は触れずに済ませていた。

凌霄は、梁の下の薄闇を見上げた。正午の光が干し草の埃を斜めに切り、一筋ずつ沈んでいく。三兄の馬揃えの号令は、もう耳に届かぬ距離へ去っていた。半日、早い――胸の奥で、まだ声にならぬ一語が転がる。

三兄の陣太鼓が丘を越えてから、四刻が過ぎた頃であった。

雍州城の南門の番兵が、街道の砂煙の色がおかしいと最初に気づいた。蹄の鳴る数に対し、鎧の札の擦れる音が足りぬ。やがて煙の根本に、ばらばらと解けた騎影が見え始めた。先頭の馬の腹に、矢が五本刺さったまま駆けている。鞍上の武者は、兜を失い、片方の草摺りが血で固まって脚にまとわりついていた。馬の口角からは黄濁した泡が垂れ、轡の銅の輪が血と砂で赤茶色に変色していた。後続の十数騎は、もはや隊列の体を成さぬ。槍を失った者、鎧の札を半ば剥ぎ取られた者、馬上で意識を失い同輩の腰縄に繋がれて運ばれている者。砂煙の奥には、まだ続きが見えない――それが何より、番兵の背筋を凍らせた。

「ご注進――中央街道、伏水原にて、三兄上軍、潰走にございまするッ」

伝令は馬から転げ落ちる勢いで本殿の式台へ駆け上がり、膝をついて血の塊を吐いた。式台の檜の白木に、黒みを帯びた赤が点々と散る。喉が裂けるような声で、続きが絞り出される。

「蛮族騎馬、五千。平原の窪地より湧き出で、我が軍の右翼を横から断ちましてございます。三兄上は陣頭にて奮戦なされましたが、囲みの中にて、側頭を――」

伝令の声は、最後の二音で潰れた。側頭を割られた、と続けるはずの言葉が、自らの口で言い切るに耐えなかったのだ。喉から、ひゅう、と細い息だけが漏れた。

長兄・凌鶴は、軍議の卓の縁に両手をついたまま、言葉を発さなかった。卓上の地図が、長兄の指の下で皺を寄せていた。伏水原と書かれた朱の点が、ちょうど長兄の中指の腹に押し潰されている。次兄・凌雁が、袖の数珠を落とした。木の珠が敷石の上を散り、乾いた音を立てて転がる。一つは卓の脚に当たって跳ね、一つは伝令の膝のすぐ脇まで転がり、血の点に触れて止まった。

「三兄上は、いかがなされた」

長兄の声が、ようやく糸のように細く出た。喉の奥で、声が何度か折れているのが、卓越しの凌雁にも聞き取れた。

「戦場に、残られましてございます」

伝令の答は短かった。首級が回収できなかった――その一語を、老練な伝令は呑み込んだのだった。三兄・凌虎、享年二十四。中央街道西方、伏水原。父の一周忌より、半日と経たぬ午後であった。

長兄は膝の力を失い、椅子に沈んだ。額を右の掌で覆い、その下で肩がひとつだけ、大きく波打つ。喪が重なった。父の位牌の墨が乾ききらぬうちに、弟の位牌を同じ祭壇に並べねばならぬ。掌の縁から、声にならぬ息が漏れ、それが嗚咽であるのか、ただの呼気の乱れであるのか、卓越しの誰にも判じがたかった。長兄は二十九にして、すでに二度、白い喪布の前に立たねばならぬ。

「城門を閉ざせ」

長兄は掌の下から、声を絞った。

「四門すべて、閂を下ろせ。倉の麦を数え直せ。水瓶を本殿の内郭まで運べ。籠城は、今日より始まる」

家令が身を翻す。武官たちが廊下を駆け出す。回廊の板が、慌ただしい足音に踏み鳴らされ、軒の鈴が一斉に揺れた。蝋燭の脂が、また一筋、卓の縁を流れた。脂の黄色い筋は、地図の朱点のすぐ脇で固まり、伏水原の名を半ば塞いだ。

次兄・凌雁は、数珠を拾う手つきのまま、卓を離れた。指は珠を一つ、また一つと拾い集めながら、目だけは長兄の俯いた頭頂を見ていた。

「長兄上。降伏の使者を、今宵のうちに北へ発たせまする」

「雁」

「三兄の首を取った相手には、銀二千斤を積まねば話は収まりませぬ。支度金は、母上の財宝より融通つかまつる」

次兄の声には、震えがあった。だがその震えは哀しみではなく、算盤を弾く指の速さから来ていた。三兄の死は、雍州にとって敗戦であると同時に、降伏派にとっての買値の高騰であった。凌雁はその二重の意味を、一瞬で呑み下していた。卓の脚元に転がった珠の一つを、爪先で軽く寄せながら、次兄はもう次の段取りへと頭を向けていた。母上の財宝――その一語を口にした時、長兄の俯いた肩が、一度だけ、ぴくりと跳ねたのを、凌雁は見逃さなかった。

東の干し草の納屋には、敗報はまだ届いていない。

凌霄は、呉厳の咳が止まるのを待ってから、名簿を一度だけ開き直した。指先が、名と名の間で震えた。三兄・凌虎の生死を、末席の末弟は、知らずにいる。知らずにいる――その状態を、あと四半刻だけ保たねばならなかった。敗報が届けば、長兄が城門を閉ざす。閂が下りる前に、三百と四頭を城外へ出さねばならぬ。指の震えを、凌霄は名簿の綴じ目に押し付けて殺した。三兄の顔が、一瞬だけ脳裏を掠めた。少年の頃、馬上から末弟の襟首を掴み上げ、笑いながら「お前は学問のほうが向いておる」と言い放った、あの日の三兄の声が。凌霄は瞼を一度強く閉じ、声の残響を奥へ押し戻した。今は、悼む刻ではない。

「呉厳。東の搦手門を、日没の鐘と同時に開ける。門番の頭は、父上の代からの者だ。父の遺品庫の鍵を見せれば、黙る」

「鍵を、見せるので」

「見せて、戻させる。あの鍵は、父が私以外の誰にも渡さなかった」

呉厳の目が、一度だけ細まった。老いた瞼の奥で、何かが計算されたのが凌霄にも分かった。その計算の答は、口には出なかった。呉厳は、名簿の綴じ紐を結び直しながら、低く応じた。指の節は太く、爪の根に古い火傷の痕が残っている。父の代から、何度この同じ手で、同じ綴じ紐を結んできたか――凌霄は不意に、その手の年輪のようなものに、視線を吸い寄せられた。

「承知。三百、荷駄四、日没と同時に搦手より。行き先は」

「黒峡の、南の入り口から二里手前、古い炭焼き窯の跡。そこで夜を待つ」

凌霄は言いながら、懐の地図を指先で押した。冬の朝に打った三つの墨点が、布越しに皮膚を押し返す感触があった。父が年単位で数を合わせたように、末弟もまた、冬のあいだに脚で測っておいた距離であった。墨点の一つ目は、まさにこの炭焼き窯の跡。二つ目は黒峡の咽喉部。三つ目は、まだ、誰にも告げていない。

納屋の外、西の空で馬の嘶きが上がった。今度は三兄の馬揃えではない。城へ駆け戻った潰走の騎影が、ようやくこの納屋の裏手まで届いたのだ。嘶きは一頭ではなかった。二頭、三頭と重なり、そのうちの一つは喉が潰れたように途中で割れた。呉厳が顔を上げた。老いた百人長の眉が、わずかに寄った。その眉の動きだけで、呉厳もまた、馬の声の異常を聞き取ったのが分かった。凌霄も、腰を浮かせた。膝の下で、土間の冷えが革袴を通して脛に這い上がる。

搦手門の鐘が鳴るまで、あと二刻。

敗報が雍州城の全域へ広がるまで、半刻もあるまい。その半刻のあいだに、長兄の閂が下り、次兄の使者が北へ馬を出す。末弟が三百と十門を抱えて城を抜けるには、その二つの動きの隙間を、針の穴を通すように縫わねばならなかった。

凌霄は背の雷槌を一度揺すり上げた。父の結び目が、肩甲骨のあいだで、また食い込んだ。革紐の擦れる音が、自分の耳の奥で、妙に大きく響いた。

納屋の土間に、日没より早い薄闇が、降り始めていた。

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