第3話
第3話
噴水の縁に、もう一度腰を下ろす──ことはしなかった。 木剣の先で石畳を二度、三度叩く。乾いた音が、ざらりと掌の神経に伝わってくる。さっきのログの「了解」が、まだ耳の奥に張り付いていた。 今夜は、いつもの噴水前じゃない。 俺は自分のマップを開いた。初期村ウェルザの外周、東門を出て徒歩十分の低層狩場──ゴブリンの巣窟。レベル5〜10帯の新規が群れで叩きに行く、ごく平凡なエリアだ。Lv1縛りの俺にとっては、足を踏み入れた瞬間に土塊一つで即死する死地である。 もちろん、入らない。 観察するのは、入口の手前、丘の上。 「……ちょっと、位置を変えてみるか」 声に出したのは、昨日までの俺なら絶対にやらなかった癖だ。視界の右下に青い点が、小さく瞬いた。了解した、とでも言うように。 東門までの大通りは、紅蓮団のステージの裏側を通る。副団長の視線を避けるため、俺はパン屋の裏、細い路地を選んだ。革靴の底が、湿った石の苔を踏む。くるぶしの下でぬるりと滑って、反射的に木剣の柄を壁についた。ささくれが、また掌を一枚引っかく。壁の石は、背の高さまで昼の日差しを吸い込んでまだ生ぬるく、頬のすぐ横にある煉瓦の目地から、焼きたてのパンの名残が湯気の幽霊みたいに立ちのぼっていた。 門衛NPCの脇を抜けると、草の匂いが鼻に来る。初期村の外は、この世界で唯一、風が抜ける場所だ。 三週間前、俺がこの門をくぐったのは一度きりだった。初日のチュートリアルでスライム一匹倒して、すぐ村へ戻った。以来、外に出ていない。ソロ・最低装備・Lv1のまま、噴水前から広場を眺める日課を、ただ続けてきた。 今日は、違う。
丘の上に、俺は腰を下ろした。草が、尻の下で軽く潰れる。眼下に、ゴブリン巣窟の入口が見える。 岩肌に穿たれた横穴。その前の広場で、四人パーティが輪になっていた。 男が二人、魔法使いが一人。そして──女戦士が一人。 装備を見て、俺は軽く眉を寄せた。 男二人は中堅装備。紅蓮団のお下がりと思しき、赤い縁取りのプレートアーマー。魔法使いは、スクロールを三本ほど腰に提げている。 問題は、女戦士だった。 銀の胸当て。レベル帯に不釣り合いなほど、綺麗な刻印が入っている。運営公式コラボ、先週の初心者応援イベントの報酬だ。ログイン継続五日で自動配布される、まっさらな初期入手品。頬の下に、薄くそばかすが散っていた。VRの設定でわざわざ顔の欠点を残すタイプ──真面目なやつだ。 「マリア、先にお前が前出てくれ。俺たち、後ろから援護するから」 「え、でも、私ヒーラー志望で……剣、まだ上手く振れなくて」 「いいんだよ、ゴブリンなんざ殴れば死ぬ。経験値はお前に全振りしてやる」 「ほんと、ですか?」 「当たり前だろ。仲間だぜ、俺ら」 ──来たな。 俺は草の上に肘をつき、顎を掌に乗せる。前から三列目、ちょうどよく芝居を観られる席だ。丘の風が、襟の内側をなぞって、首筋の汗を薄く剥がしていった。遠くの岩肌で、ゴブリンの掠れた笑い声が、乾いた石を擦り合わせる音に似て、ひとつ、ふたつ、地面を這ってくる。 マリアと呼ばれた女戦士が、銀の胸当てを指先で撫でる。昨日手に入れたばかりです、と顔に書いてあった。 魔法使いが、彼女の背中をぽんと押した。 「でもさあ、その胸当て、ちょっと目立ちすぎかも? ゴブリン、光る装備に寄ってくるんだよね」 「え、そうなんですか?」 「うんうん、初心者狩りされるから。ここだけの話、一回脱いで預けといたら? 戦闘終わったら返すから」 「あ、はい……じゃあ、お願いします」 マリアは、なんの疑いもなく胸当てを外した。 その下は、初期配布のリネンのチュニック一枚。俺と同じやつだ。肩の縫い目が一本、すでに糸がほつれて、夜の風にほつれ糸だけが細かく震えている。 魔法使いは、にこやかに銀の胸当てを受け取り、自分のインベントリにしまった。指の動きが、妙に洗練されている。回収に慣れた指だ。 ついでに、と男のひとりが言った。 「あ、その指輪も。防御バフついてんの、アグロ分散しちゃうから」 「えっと、母からもらったって設定の、スタートガチャの当たりで……」 「貸せって言ってんの。ゴブリンに盗られたら終わりだろ」 声が、半音だけ下がった。マリアの肩が、びくっと跳ねる。喉の奥でちいさく息を飲む音が、丘の上の俺の耳にまで届いた気がした。 指輪も、あっさりと男の手に渡った。渡した側の指先が、渡し終わってもまだ何かを探すように、空中で小さく折り曲げられたまま止まっていた。 俺は、息を止める。口の中に、ログイン直後の麦の苦みが、昨日と違う味で戻ってきた。 視界の右下、青い点が、ゆっくり、三度瞬いた。 【対象:魔法使い他二名/タグ:不一致反応検出 ── 強】 戦闘が始まる。男二人は後方に下がり、魔法使いはさらに後ろ。マリアだけが、木剣一本でゴブリン三体に向かっていく。悲鳴。剣を振り下ろす鈍い音。肩口から、ぱっ、と赤いエフェクトが跳ねた。 男たちは、動かない。 助けない。
俺は、立ち上がった。 草の潰れた音が、ざり、と膝の裏で鳴る。 ……助けに行くのか? 自分に問うて、足が止まる。心臓が、胸の内側の骨を一度だけ強く叩き、そのまま肋の裏で、拳を握ったり開いたりするような拍を打った。 ゴブリン一体の攻撃力は、Lv1の俺に対して即死級だ。飛び込めば、二秒ともたない。あるのは、最低装備と木剣一本だけ。 それに。 助けに行けば、縛りが解ける。 完全無言、単独行動、最低装備維持。その三つ全部を、いま投げ捨てる価値が、あの場面にあるか──。 ない、と答えるのは、簡単だった。 俺は営業三年目で、この答えの出し方だけは得意だ。 「前向きに検討させていただきます」 「また機会があれば、ぜひ」 口の中で、テンプレが三つ、静かに並ぶ。並んだテンプレの隙間から、会議室の蛍光灯の白さと、曇ったガラスコップの氷の音が、一瞬だけよみがえって、すぐに消えた。 マリアの悲鳴が、二度、三度と続いた。HPバーが、半分を切る。それでも男たちは腕を組んで見ている。配信用の録画は回っていない。ただの、狩場での淡々とした剥ぎ取り作業だ。 俺は、目を伏せた。 踵を返して、丘を降りる方向に、一歩。 足裏の草が、昨日までと同じ角度で、同じように潰れる。 二歩目を踏み出したところで、視界の右下、青い点が、今夜いちばん強く明滅した。
【対象外事象:観測者、行動選択完了】 【選択:不介入/縛り維持】 【評価:整合】
──評価? 俺は足を止めた。 ログが、続けて一行を流す。 【特殊進行条件・進捗中 ── 残り十九日】 【補足:不介入選択は条件の一部として記録されました】
指先が、冷えた。 助けないことが、条件に含まれている。 そう読める一文を、システムは、俺にだけ、静かに寄越した。 ……ふざけるな、と口の中で言いかけて、言えなかった。 ふざけているのは、たぶん、システムじゃない。この三週間、俺が毎晩積み上げてきた「関わらない」そのものだ。会社で言えなかった「遠慮します」を、ここで言う代わりに、俺はいま、助けを求めている新規を一人、黙って置き去りにしている。 背後で、マリアのHPが尽きる直前の、掠れた声がした。 「あ、の……誰か……」 丘の下の男たちが、初めて動いた。ゴブリンを三体まとめて斬り伏せ、倒れたマリアのインベントリから、残りの小物を手際よく回収していく。 マリアがデスペナルティで初期村に戻される、灰色のエフェクトが立ち上った。 俺は、もう振り返らなかった。
丘を降りる間、視界の右下は、ずっと青く明滅し続けていた。 門をくぐり、さっき通った路地へ戻る。パン屋の裏、湿った苔。くるぶしの下で、またぬるりと滑りかけて、今度は壁に手をつかなかった。 木剣の柄が、掌のささくれを、もう一度引っかく。痛みは軽い。だが、今夜のそれは、昨日までの「痛くない」とは違う角度で、掌に残った。 噴水前、いつもの位置。石の縁は、夜気を吸ってわずかに冷えていた。腰を下ろす。尻の骨に、同じ角度で同じ石が食い込む。何も変わっていないはずだった。 ステータスログに、例の静かな一行が、また増える。 【観測記録:2件/対象:魔法使い他二名/タグ:検出済/付記:観測者の選択を条件内加点】
加点。 俺は、その二文字を、三度、口の中で転がした。麦の苦みが、もう感じられない。代わりに、鉄錆に似た薄い味が、舌の奥にあった。奥歯で噛んだのでもないのに、歯茎のどこかが、微かに、金属の匂いを滲ませている気がした。 視界の端で、通知が一つ、初めて音を立てた。 ピン、と、図書館の静寂を破るような、控えめな一音。
【隠しクエスト進行度:95%/残り十九日──条件到達時、報酬を開示します】
隠し、クエスト。 木剣の柄を、掌で強く握り込む。ささくれが今度は、はっきり血の味を持って、皮を一枚、深く引いた。