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真実のステータス画面

第2話 第2話

第2話

第2話

足を止めたのは、石畳の継ぎ目に革靴の底が一瞬引っかかったからだ。踵の内側に砂粒のざらつきが残る。VRの触覚補正はご丁寧に、噴水広場の東側だけ砂利混じりに設計されていた。  二歩、それ以上は進まない。  俺は角度を変えただけだ。噴水を挟んで向かい側、広場の中央ステージが見える位置に移る。ログからは外れて、観察者として最適な定位置。いつもの噴水の縁じゃなく、パン屋のひさしの影。これなら配信ドローンのカメラが俺を映しに来ても、店の看板でちょうど顔が切れる。  口の中には、ログイン直後に配給される初心者パンの、わずかな麦の苦みがまだ残っている。初日に取得して以来、毎晩、噴水前で齧っているだけの一品。栄養値ゼロ、バフなし、売価ゼロ。縛りプレイの俺にとっては、祭りの外周を歩く観光客の、唯一の口実だ。  ステータスを閉じる指が、ほんの少しだけ滑った。視界右下に、またあの青い点。 【特殊進行条件・進捗中 ── 残り二十日】  昨晩までは、視線を外した瞬間に消えていた表示だ。今日は、ステージ側に顔を向けた瞬間だけ、濃く明滅する。  ──なるほどね。こいつ、俺の視線に反応してるのか。  口の中で軽く舌を鳴らすと、点滅がひときわ強くなった。笑えてくる。会社の月曜朝礼でも、ここまで律儀に俺を見てはいない。  広場中央のステージは、今日は赤一色だった。ルビーレッドの幕、炎紋章の横断幕、紅蓮団の団員たちが三方を囲んで即席の観客席を作っている。既に五十人近い見物客。配信用のドローンが空中で円を描き、真上からの俯瞰ショットを狙っているらしい。掲示板の予告どおり、今日は団長自らの公開募集だった。

「──みんな、いつもありがとな!」  ステージの中央に、『紅蓮団』団長・烈火が立っている。配信映え専用に誂えたような、ルビー装飾の胸当て。肩越しに揺れるマントは、運営公式コラボの限定装備だ。あれ一着で、俺の木剣が四百本買える。 「今日の枠は一つだけ! 新人タンク募集! 虚飾の迷宮、一緒に行こうぜ!」 「『烈火』さーん、配信、ずっと見てますっ!」 「おう、ありがとな! 配信で『紅蓮団は冷てえ』とか言ってる連中もいるけどよ、俺は違う。未経験からでも、うちなら一週間で一軍に乗せられる。それが紅蓮団の看板だ」  手の振り方、視線の配り方、拍手を拾うタイミング。練度は、会社の社長メッセージ動画の二百倍は高い。ざわめきが、彼の足元へ引き寄せられていく。  人波の中から、全身ぴかぴかの銀装備を着た大柄なキャラが、手を挙げて進み出た。胸のプレートに、初期ロット特有の青い刻印が残っている。昨日今日ログインしたばかりの、真っさらなタンクだ。 「君、名前は?」 「バ、バルドです! 昨日始めました、タンクやりたくて!」 「お、いいな。昨日からってマジか? ルーキー中のルーキーじゃん」 「はいっ、『烈火』さんの迷宮攻略、全部見て……それで、俺も」 「嬉しいこと言うねえ。じゃあ聞くけど、この一週間、俺についてこれるか?」 「はい、絶対ついていきます!」 「よし。うちは実績主義だけど、未経験でも伸びる奴は大歓迎でな。今日から一週間、虚飾の迷宮の手前まで、責任持って連れて行く。装備はフル支給、費用はこっち持ち──遠慮なく頼ってくれ」  拍手と歓声。ドローンが一斉に向きを変え、バルドの頬が上気する赤を拾いにいく。  ──「一週間」。  俺は、その単語だけを、もう一度口の中で転がした。  虚飾の迷宮は、月間イベントで一週間後に封鎖が解ける予定だ。紅蓮団がその初攻略を配信で狙っている、という噂は、先週の金曜から掲示板で流れ始めていた。初攻略には捨て駒がいる。最初の罠で吹き飛んで、マップの形を示す役。それをやるタンクは、実績に名前が残らない。  烈火の視線が、ほんの一瞬、バルドの装備欄のほうへ流れた。貸与か譲渡か、契約書の文言を読む癖が、俺の目にだけは見える。貸与、だ。返却を前提にしているから、頬の筋肉が安心している。一週間使い潰して、迷宮の手前で契約書の小さな字を盾に回収。実績だけを紅蓮団に、汚れ役だけをバルドに。  「伸びる奴は大歓迎」──伸びる、は今週いっぱいの意味。  「遠慮なく頼っていい」──頼る、は責任の転嫁ルートを開通する儀式。  三年前、部長に「おまえは見込みがあるから」と酒を注がれたときの、あの口角だった。 「あの、契約って、どこにサインすれば?」 「ああ、ここな。読まなくていいよ、定型文だから」  ヘラッ、と烈火が笑う。  読まなくていい。そう言われて、はい、と頷いた自分を、俺は会社の会議室で二度見ている。新人研修の同意書と、先輩の尻拭い出張の稟議書。どちらもあとでじわじわ効いた。  バルドの指が、契約書の枠をタップしかけた──その寸前、視界右下で、青い点が三度、連続して明滅した。 【対象:烈火/タグ:不一致反応検出 ── 強】  ……検出?  勝手にタグを貼るな、と俺は口の中で毒づいた。  点滅は、烈火の笑顔のフレームの外側、ちょうど彼の首筋のあたりに浮かんでいた。画面のバグじゃない。システムが、対象を囲って何かを計算している気配。俺が視線を外すと光は消え、戻すとまた明滅する。  ──俺の「見方」を、誰かが学習してる。  ざわり、と首の後ろが粟立った。VRの体感設定は、こういう鳥肌までご丁寧に再現する。現実のヘッドセットの内側で、俺の本物の頸椎にも、薄く同じ鳥肌が走っているのがわかった。  ステージの上では、バルドがサインを終えていた。羽ペンの擦れる音、シャッ、と軽い。その軽さが、逆に俺の胃の底を引っ張る。烈火はバルドの肩を叩いて「よろしくな!」と爽やかに言った。ステージ裏から、副団長らしき青マントの女性がタブレットを持って近寄る。画面を覗き込んだ烈火の眉が、ほんの0.5秒だけ、下がる。  ──原価、か。  口の動きは「ゲンカ」に一致していた。配信音声は、タブレット側を拾わないよう、ご丁寧にビープでマスキングされている。だが、俺の位置からは口の形だけ拾えた。二十万円弱の機器の、本気の解像度だ。  支給装備の原価。一週間で回収する想定スケジュール。そろばんを弾く音は聞こえないが、視線の角度で弾いているのが、はっきり見える。  ……こいつのことが、嫌いなわけじゃない。  ただ、「爽やか」の質量だけが、やたらと軽すぎる。本物の善意は、もう少し動作が遅い。部長が新人の進路相談を受けるとき、ひと呼吸、テーブルの上で指を止める、あの間。あれが烈火にはない。  副団長が、ふと俺のほうへ視線を流した。パン屋のひさしの影に隠した顔を、ほんの一瞬、舐めるように確認して、手元のタブレットに何か書き込む。  ──観察対象、追加。だろうな。  俺は装備ウィンドウを閉じ、ステータス欄を最小化して、あえて視線を広場の反対側の空へ投げた。雲が、ゲーム内時間で正午の角度に差し掛かっている。迷宮解放まで、残り168時間。そのカウントがいま頭の中で勝手に走り始めたことに、自分で少しだけ驚いた。  視界右下、青い点はもう消えている。  代わりに、ステータスログに静かな一行が増えていた。 【観測記録:1件/対象:烈火/タグ:検出済】  公式のシステムメッセージは、こんなに淡々としない。通知音もない。無料配布イベントなら三秒おきにファンファーレが鳴るこの世界で、この一行は、図書館の廊下で鉛筆を落とした音くらい、静かだった。 「……勝手に、記録するな」  声に出してしまった。誰も聞いていない。いや──  視界右下、ログが一行だけ、答える。 【了解。当ログは非公開設定に変更しました】  ……返事を、したのか。  俺は、パン屋のひさしの柱に、思わず肩を預けた。木の節が、肩甲骨の角に食い込む。痛みは軽く、けれどはっきりと、現実の俺の部屋のヘッドセット越しにまで届いた気がした。

 公式運営は、こんな受け答えは返さない。  攻略掲示板にも、Wikiにも、ベータテスターの体験記にも、この仕様は載っていない。未実装の観測系スキル? β版で消え残ったデバッグツール? 候補はいくつか頭を走ったが、どれも背筋の冷たさと釣り合わなかった。  ステージの上では、烈火がバルドの肩を抱いて、次回配信の予告を笑顔で告げている。笑い声、拍手、エフェクトの花火。祭りは続いている。  俺だけが、広場より一段低い位置で、今たしかに誰かと短い会話をしたばかりだった。  木剣の柄を、もう一度握り直す。ささくれが、掌の皮を一枚、薄く引っかく。痛くはない。ただ、今夜の噴水前が昨日までとは違う温度に変わってしまったことだけは、確実にわかった。  ──残り二十日。  カウントが、俺の視線の外側で、静かにひとつ、減る。俺はひさしから背を起こし、噴水のほうへ、もう一度歩き出した。木剣の先が石畳を擦る乾いた音が、広場のざわめきの中で、妙にはっきりと耳に残る。

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