第1話
第1話
──ログイン完了。 鼻腔を抜ける空気に、わずかな木の匂い。次いで足裏にざらついた石畳の感触が戻ってくる。噴水の水音。広場のざわめき。遠くで誰かがスキルを撃ち放ったらしい、軽い破裂音。 新作VRMMO『アルカディア・オンライン』、初期村ウェルザの噴水前。俺がこの二十一日間、毎晩立ち続けてきた定位置だ。 ステータスを開く。種族ヒューマン、職業見習い剣士、レベル1で固定。装備欄はリネンのチュニックに木剣一本。所持金、初期配布のまま動かしていない。 ──うん、今日もちゃんと最弱だ。 「うっわ見て、あの人まだ木剣じゃん。情報板で晒されてたやつじゃね?」 背後で若い声が笑った。俺は振り向かない。ステータスを閉じ、噴水の縁にもたれるように腰を下ろすだけだ。冷えた石の角が、尻の骨に軽く食い込む。VR機器の補正は、こういう端の感触まで律儀に拾ってくる。最新機、二十万円弱。俺の安アパートで最も高価な家電だ。 視界いっぱいに広がるのは、正真正銘の祭りだった。鎧の装飾が陽光を跳ね返し、魔法石のエフェクトが虹色の尾を引き、パーティ募集のチャット吹き出しが桜吹雪みたいに流れていく。【タンク募集・虚飾の迷宮】【火力歓迎・貢献度要確認】【配信映え重視】。みんな、どこか急いでいる。 俺の趣味は、この騒ぎを──動かずに、眺めることだった。
会社では、毎日本音と建前のズレを拾って歩いている。 「御社のご提案、前向きに検討させていただきます」 「……わかりました、それでは来週にでもまたご挨拶を」 前向きに検討、は断るの同義語。また挨拶、は二度と会わないの合図。誰も嘘をついている自覚はない。ただ、口と胃袋の中身が別方向を向いているだけだ。入社三年目、俺はそのズレを読み取るのが上手くなりすぎて、飲み会の席で同僚の笑顔がどのテンプレから生成されているかまで見えるようになってしまった。 営業の先輩に「おまえ空気読めるよな」と笑われるたび、胃の底が一度沈む。読めるんじゃない。読めすぎて、本当の言葉がどこにも残らなくなるだけだ。 そんな日の夜に、このヘッドセットを被る。俺の、唯一の避難所だった。 縛りは三つ。最低装備のまま。ソロ専。レベル上限は1で固定。 この三縛りを課すと、世界の速度が変わる。自分が動かない分、他人だけが動いて見える。どのプレイヤーが誰に媚びて、どのギルドが誰を食い潰そうとしているか、地の声みたいに聞こえてくる。VRの補正が効いているせいか、会社で培った悪い癖のせいか、もはや自分でも区別はつかなかった。 噴水の向かい側で、二人組の女戦士が声を荒げていた。赤毛のほうが腰に手を当て、金髪のほうは視線だけ広場に逃がしている。さっきまで仲良く肩を並べて笑っていた二人だ。 「は? 装備代立て替えたの、忘れたって言わせないから」 「だから返すってば。来週のイベント終わったら」 「来週あんた、別ギルドの面接でしょ? 情報、入ってんだけど」 金髪のほうが、息を呑んだのが背中の揺れでわかった。指先が、貸してもらったらしい銀の小手をそっと撫でる。あれは返したくない動きだ。おやおや。俺は麦酒を飲みに来た観光客の顔で、そっと視線を外す。背中で、謝罪とも言い訳ともつかない小声が続いた。関わるつもりはない。関われば、こちらの建前まで試される。 水面に視線を落とすと、他人の願いのかけらが何枚か、底で小さく揺れている。誰が何を祈って投げたのか、俺は知らなくていい。ちょうどいい距離だった。 ふと、視界の端で淡い光が点滅した気がした。ステータスウィンドウの右下、通常なら何もないはずの座標。ログの取り残しか、通知の遅延か。俺は目をこすり、また水面に戻す。 それから広場を一周、視線だけで撫でた。泣きべそをかきながら初期装備を剥がされている新規プレイヤー。笑顔で背中を叩きつつ、その装備を回収していく古参。観光客と称してコイン投げに来るカップル。誰も彼もが、言葉と行動の間で、ほんの少しずつ嘘をついている。 嘘を見抜く力があるわけじゃない。ただ、関わらないと決めた目には、そのズレがよく映るだけだ。
「──そこの兄ちゃん!」 声に顔を上げる。銀縁の兜、胸に深紅の炎紋章。派手な鎧の男が、わざわざ俺の前で立ち止まっていた。背中には一人、二人、撮影用らしいドローンがついてきている。小型の赤ランプが、俺の顔の前で一度、まばたくように点滅した。 「見たとこ初心者だろ? 装備ひどすぎんだろ、それ。なあ、『紅蓮団』入らねえ? いま大量募集中でさ、ちょうど初心者応援キャンペーン中なんだ。まず銀装備、無料支給」 『紅蓮団』。ランキング上位、人気配信者『烈火』が団長を務める中堅ギルド。新規囲い込みがあからさまだと掲示板で定期的に荒れている。初心者に装備を貸与して囲ったあと、「貢献度未達」で回収するのがいつもの手口だ。 「……遠慮します」 「いやいや、ソロでこのへん突っ立ってても何も起きねえよ? 俺らと組めば三日でLv20、一週間で虚飾の迷宮の前まで行けるぞ」 男の口角が、妙に生き生きと上がっている。声の後ろに、よく練習された抑揚の癖があった。配信での掴みのテンプレだ。「兄ちゃん」「見たとこ」「なあ」──耳で拾うたびに、営業研修のロールプレイ動画が脳裏をよぎる。目だけが、俺の装備の値踏みをしていた。初心者一体いくらで回収できれば配信映えするか、算段が透けて見える。 ──こういうときだ。この世界の「速度」が歪んで聞こえるのは。 周囲のBGMがやけに遠くなり、男の呼吸音だけが近い。VRの指向性音響が、たぶん俺の視線の先を読んで会話を強調している。その優しい機能が、いまは檻の鉄格子みたいに感じられた。ここで頷けば、明日から俺の名前は配信のサムネに載り、コメント欄で「いい子」「素直」と囃される。会社の飲み会の席順と、大差はない。 「すみません。レベル1縛りで、このままいるつもりなんです」 「……は?」 「装備も、このままで」 男の表情が、一瞬で温度を失う。頬の内側で、ちっ、という舌打ちの気配。すぐに作り笑いで覆い直すが、遅い。俺の中で、さっきの「前向きに検討」がフラッシュバックした。これだ。これと、同じ目だ。部長も、取引先の課長も、昨日の合コンの幹事も、みんなこの順番で表情を切り替える。 「へえ、縛りプレイねえ。まあ好きにしたら? 変わりもんの相手してる暇もねえしな」 吐き捨てて、男は背を向けた。肩に担いだ大剣の赤い光が、みっともなく揺れている。きっと彼の中には、補充しやすい順に並んだ新規リストがあって、次の一人のところへ向かうのだろう。 俺は一礼の真似事だけして、また噴水に腰を戻した。尻の下で、さっきと同じ石の角が同じ角度で食い込む。何も変わっていない。それなのに、呼吸だけが少しだけ深く入るようになった気がした。 胸のあたりで、何か小さな熱が残っている。別に気持ちよかったわけじゃない。舌の奥に、まだ「すみません」の形が居残っている。会社ならここで、言い換えを三つほど用意して、相手の顔色を読み直すはずだった。ただ、会社で言えなかった「遠慮します」を、ここでだけは言えた、というだけの話だ。 でも、その「だけ」を、俺は毎晩、この噴水で積み重ねている。 二十一日分。
視界の端で、さっき明滅した座標が、また青く光った。今度は、気のせいではなかった。 システムログが一行だけ、俺にだけ静かに流れる。
【特殊進行条件・進捗中】 【項目:完全無言/単独行動/最低装備維持 ── 残り二十日】
……カウントダウン? 履歴を遡っても、こんな表記はどこにもない。公式Wikiにも、攻略掲示板にも。 誰にも話さず、誰とも組まず、誰にも期待しない。それだけの日課に、いつの間にか、誰かが値を付け始めていた。 指先にささくれた木剣の柄を握り直し、俺は噴水の縁から立ち上がる。石畳が、一度ざらりと鳴った。 広場の端で、配信用らしきカメラが赤く点灯する。さっきの派手な鎧の男が、新しい新規プレイヤーに満面の笑みで近づいていくところだった。 俺はそちらへ、ほんの二歩だけ、足を踏み出した。