Novelis
← 目次

落ちこぼれ陰陽師の九字は金色に

第3話 第3話

第3話

第3話

肋骨の裏の鍵穴で、五段目の歯が、噛み合った。

カチン、カチン、カチン——

止まらない。私の意志ではもう止められない。鍵を回しているのは私ではない。私の中の、二十四年間ずっと眠っていた誰かが、いま、目を覚まそうとしている。指先の火傷の熱が、肘まで、肩まで、鎖骨の窪みまで這い上がってきた。

染みの四本指が、私の喉から完全に離れた。

支えを失った踵が、タイルに落ちる——はずだった。

落ちなかった。

ホームの空気が、私の身体を下から押し上げていた。重力の向きが、ほんの一瞬、混線したような感覚。スカートの裾が、足首の周りで、ふわりと弧を描いて止まる。落ちこぼれと呼ばれていた私の身体が、地下鉄のホームで、宙に浮いていた。

「——う、嘘」

声が、自分のものではないみたいに、震えた。

ホームのタイルが、放射状に裂けたまま、その亀裂から、ごく薄い金色の煙が立ちのぼっている。煙ではなかった。霊気だ。私の身体の奥から漏れ出した霊気が、コンクリートの継ぎ目という継ぎ目から、外に染み出している。座学のノートに「霊気濃度Sランク:環境破壊閾値」と書かれていた数値の意味が、いま、自分の皮膚で理解できた。

吐く息が、もう白くない。金色だった。

染みが、後ずさった。

人型の輪郭の、あの亀裂の顔が、初めて、明確に怯えを示した。怯えを示した、というより——「格上を認識した」、そういう動きだった。

足元のタイルの裂け目から、低い唸りが響いた。

九つ。

数えたわけじゃない。骨が、そう数えた。九つの気配が、コンクリートの下で、目を覚ましつつあった。地下鉄のレールよりずっと深い場所。地脈、と座学のノートでだけ呼ばれていた層。鼓膜の奥の、もっと内側の——三半規管の根のあたりで、唸りが反響している。耳ではなく、頭蓋骨そのものが、共鳴箱になっていた。

最初の一柱が、ホームを裂いた。

タイルが、内側から押し上げられて、ぱかりと割れた。割れ目から、金色の——腕、だった。人の腕より一回り太く、金箔で覆われたかのように光を弾く、しかし関節も筋繊維も持つ、生き物の腕。それが、タイルの底からずるりと這い出し、ホームの面に手のひらをつき、自分自身を引き上げた。指が、五本。爪は黒曜石のように艶があり、爪先が床に触れるたび、火打石のような小さな火花が散った。

肩が出る。

首が出る。

兜の庇のような、金色の額当て。その下に、二つの目があった。瞳孔は縦に裂けていて、虹彩は墨を流したような黒。獣でも人でもない、何か神性に近いものの、目だった。その目と視線が交差した瞬間、私の喉の奥が、ひゅっ、と窄まった。怖い、ではなかった。何故か——懐かしい、に近かった。会ったことのないはずの相手に、骨の側が「久しぶり」と呟いているような、奇妙な再会の感触。

——式神。

座学でしか知らなかった単語が、胸の中で、確かな質量を持って立ち上がる。それも一体ではない。割れたタイルの隣から、また一本、腕。さらに隣から、肩。改札の方の床が、ぱきり、と割れて、もう一柱。私を中心に、九段下方面のホームの端から池袋方面の端まで、九つの裂け目が同時に、金色の輪郭を吐き出していく。

九柱、顕現。

退勤客の誰一人、それに気づいていない。新聞の老人は、新聞を畳み終えてバッグに仕舞った。サラリーマンはイヤホンの音量を一段下げた。J-POPの軽薄な四つ打ちが、私の鼓膜の片側で、鳴り続けている。世界が二重——どころではない。世界がすでに、二枚別の絵としてホームに重ね描きされている。私の側の絵だけが、金色に滲んでいた。もう一枚の絵——人々が新聞を畳み、イヤホンを調節する、退屈な平日の絵——の上に、神話の頁が、透写紙のように重ねられていた。

最初に這い出した一柱が、染みに向き直った。

兜の下の口が、開いた。

「主の——下がられよ」

声は、ホームのコンクリートを通して、骨に直接届いた。空気を介した音ではなかった。私の脛骨が、まず最初にその言葉を受け取り、続いて骨盤が、最後に頭蓋骨が、順番に意味を理解した。

主、と呼ばれた。私が、誰かの主——そんな立場になったことなど、二十四年で一度もなかった。落ちこぼれの神楽坂遥が、神性を帯びた式神九柱の主。理屈が追いつかない。喉の奥で、笑いに似た息が漏れた。空気の代わりに、金色の粒が、口から零れた。

式神が、走った。

走った、というより、空気の側がその一柱の体を運んだ、というほうが近い。タイル一枚分の距離を、一拍で詰めた。染みの胸——亀裂の顔の、ちょうど真下に、金色の腕が突き出された。突き刺した、ではない。掌底が「触れた」。それだけで、染みの身体の中央に、白い円が一つ穿たれた。穿たれた円の縁から、墨のような体液が逆流するように噴き出し、しかし、噴き出した先から、空気に触れて消えていく。

染みは、声を上げなかった。

声を上げる前に、輪郭が、内側から崩壊した。

亀裂の顔だけが、最後まで残った。残った亀裂が、ぐにゃり、と歪み、消える直前——私の方を見た。「見た」というより、「印を残した」という質感だった。お前を見つけた、お前の格を覚えた、そういう種類の最後の視線。背筋の中央に、冷たい指先で線を引かれたような、薄い悪寒が走った。これは、終わりではなかった。これは、始めの合図のほうだった。

そのまま、染みは、霧になって、ホームの蛍光灯の下に散った。

九柱のうち、残り八柱が、ホームの裂け目の縁に、跪いた。

私は、宙に浮いたまま、それを見下ろしていた。

見下ろす、という動詞が、自分の身体に馴染まない。ずっと、見上げる側だった。栃木班長を。久我を。三笠さんを。同期の背中を。先輩の革靴を。私が見下ろした人間など、一人もいなかった。視点の高さが変わっただけで、世界の手触りがこんなにも別物になることを、私は今まで知らなかった。

肋骨の裏の鍵穴で、六段目が、噛み合った。

「——っ、ぐ」

胸を押さえた。

押さえた手のひらが、自分の皮膚越しに、内側の鼓動を感じる。鼓動が、二つあった。私の心臓のリズムと、それより一拍遅れた、もうひとつの、ずっと深い場所からの脈。後者のほうが、太い。後者のほうが、明らかに、私という器より「大きい」拍動を打っていた。

七段目。

膝が、空中で折れた。

浮いていた身体が、ふっ、と支えを失って、ホームのタイルに崩れ落ちた。膝頭がタイルの角にぶつかり、痛みが、初めて、人間らしく、神経を伝わって脳に届いた。痛みに、私はむしろ安堵した。痛みがある間は、まだ、こちら側にいる。

跪いた式神たちが、低く、ざわめいた。

「主が——」

「まだ、解ききれぬ」

「八つ目を、止めよ」

止められなかった。

八段目の歯が、噛み合った瞬間、私の視界の上半分が、金色に焼けた。網膜が、内側から光に灼かれた。耳の奥で、九つの声が、私の知らない真名を、同時に呼ぼうとしているのが聞こえた。呼ばれてはいけない。呼ばれてしまえば、私は、私でなくなる。最後に残った人間の部分で、私はそう理解した。

「——止め、て」

囁いた。誰に、ではなかった。

ホームの天井が、視界の中で、ゆっくり傾いた。

倒れる、と思った。

倒れる前に、横から、誰かの腕が、私の身体を掬い上げた。

革手袋の感触だった。

冷たい、けれど、人間の手の温度が、その革の内側に、確かにある。私の頬が、誰かの胸に触れた。香木の匂いがした。古い寺の堂内で焚かれる、線香よりも一段深い、白檀と沈香の混じった匂い。陰陽道の正統の家の人間が、儀式の前に身に染み込ませる、あの匂い。鼻腔の奥で、その匂いが、暴走しかけていた私の鼓動を、ほんの僅か、宥めにかかった。

「——封印級の、血筋か」

低い、男の声だった。

歳は、私より少し上。三十前後。声帯の使い方が、現役の術者のそれだった。空気の薄い場所で、なお正確に音を運ぶための、訓練された発声。

私は、その男の顔を見ようとした。

視界が、もう保たない。網膜の金が、ゆっくりと、黒に置き換わっていく。男の顎の線が、辛うじて見えた。鋭い顎、薄い唇、左の頬骨に、古い切り傷の痕。瞳の色は、見えなかった。

「——どなた、ですか」

声は、ほとんど吐息だった。

男は、答えなかった。

代わりに、私の耳元で、もう一度、低く呟いた。

「呪務局が、二十四年もよく隠した。——お前、本当に、何も知らされていないのか」

知らされて、いない。

知らされて、いないことを、初めて、人に「知らされた」と感じた。喉のあたりに、熱い塊がこみ上げた。怒りでも、悲しみでもなかった。それは、二十四年分の「説明されなかった夜」が、いま、まとめて押し寄せてきた、ただの圧だった。

跪いていた九柱の式神が、男の方を、敵意なく、見上げていた。許した、という空気だった。私の式神たちが、私を抱える男を、敵と見做していない。その事実だけが、私の意識が落ちる直前に、最後の違和感として骨に刺さった。

ホームの蛍光灯が、一本、ジジッと鳴いた。

退勤客の、誰かのスマホから、定時のアラームが鳴り、消えた。

意識が、後頭部の方から、ゆっくりと、抜けていく。

男の腕の中で、私は、二十四年で初めて、自分が誰かに「運ばれていく」ことを、許した。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!

第3話 - 落ちこぼれ陰陽師の九字は金色に | Novelis