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落ちこぼれ陰陽師の九字は金色に

第2話 第2話

第2話

第2話

階段を降りきると、ホームは退勤客で埋まっていた。

スーツの背、コートの肩、マフラーの裾。革靴とパンプスとスニーカーが擦れ合う音が、低く積み重なっていく。電光掲示板に「池袋方面 18時18分 まもなく」の橙色が滲み、誰かのコロンが鼻先をかすめた。私はいつもの位置——三両目のドアが開く、黄色いタイル線の手前で立ち止まろうとした。

止まれなかった。

足は動いている。動いているのに、空気が踵に絡みつくように粘つく。耳の奥で水が鳴る。トンネルの先から流れてくるはずの風が、止まっていた。地下鉄のホームから風が消えるということが、どれほど異常なことか、現場経験のない私でも知っている。風が止まる——それは空間そのものが呼吸を止めるということ。トンネルの気圧と外界の気圧の釣り合いが、何かによって物理的にせき止められているということ。座学のノートの端に、栃木班長の赤ペンで「風の停止=中位以上発現の第一徴候」と書かれていたのを、私は唐突に思い出した。

肋骨の裏、あの「穴」が、ぐっ、と口を開けた。

吸って、吐いて——吸えない。

息が、喉の途中で氷の塊にぶつかったように止まった。隣の老人が新聞をめくる。前のサラリーマンがイヤホンを耳に押し込み直す。誰も、何も、気づいていない。私の視界の中で、ホームの蛍光灯が同時に三本、ジジッ、と鳴いた。

九段下のあれの波が、ここまで届いている。第七課の感知圏外で、別のものが動いている。直感ではなかった。皮膚に貼り付いた冷気が、骨の側からそう告げていた。

私は鞄を持つ手を、自分のスーツの内ポケットへ滑らせた。退勤許可しか持たない私の鞄に、退魔札は一枚も入っていない。けれど、資料室を出る間際、抽斗に隠したはずの祖母の九字札を、私は無意識のまま懐に移し替えていた。指が紙の縁に触れる。火傷のような熱が、また指先に走った。

線路の暗がりで、何かが動いた。

トンネルの暗黒、その奥行きが——歪んでいた。

天井のコンクリートが、シーツを絞るように捻れていく。視覚を直接舐められたような気持ち悪さに、私は瞬きをした。瞬いた一瞬で、ホームの白線の向こう、線路の上の空間に、輪郭が「染み出して」きていた。

人ではない。獣でもない。

最初は影だった。蛍光灯が床に落とすはずのない位置に、黒い水たまりが滲み出し、それがゆっくりと立ち上がる。立ち上がるにつれ、輪郭が指を生やし、肩を持ち、首を持ち、顔のあるべき場所に——縦に裂けた、黒い亀裂が一本だけ刻まれた。亀裂の縁は、濡れた墨のように黒く、その内側だけが、逆に光を吸わない「無」だった。見ているだけで、眼球の奥の神経が、細い針で刺されるように痛む。瞳孔が勝手に収縮し、拡張し、焦点を合わせることを拒んでいた。

異形だった。

第七課の用語で言う《染み》、それも輪郭級。私の座学知識でも、輪郭級の発現は中位以上の陰陽師五人で囲んでようやく封じる対象だ。それが、定時の地下鉄ホームに、ひとり。

「——下がって、後ろっ」

声は出ていた。出ていたが、誰も振り返らない。新聞をめくる老人の指は止まらない。サラリーマンのイヤホンから、薄く音漏れするJ-POPの低音が私の鼓膜を打った。そのJ-POPの軽薄な四つ打ちと、目の前で起きている現象の重量とが、私の脳の中でどうしても一本の線として結ばれない。世界が二重になる、というのは、こういうことなのだと思った。

見えていない。

ホームの誰ひとりとして、五メートル先の線路に這い上がってきた染みを、見ていなかった。

そういう級だ。輪郭級は、見える人間しか食わない。だから普段、第七課の現場では、まず周囲の市民の知覚遮断から確認に入る。今この瞬間、このホームで「見えている」のは——たぶん、私ひとり。

染みが、ホームに乗り上げた。

亀裂の顔が、私の方を向いた。

知っている、と思った。私を、ではない。「見ている人間」を、見つけた——その種類の認識だった。

私はスーツの内ポケットから九字札を引き抜いた。指が震える。震えてはいけないのに、震える。一枚の札で輪郭級と渡り合う術を、私は教わっていない。教わっていないが——指は勝手に印を結んでいた。

「臨——」

唇が動く。資料室で止めた、あの一字目から。

「兵——闘——」

ホームの蛍光灯が、一斉にジジッと音を立てた。電光掲示板の橙が、ちらりと金色に浮きかけた。前のサラリーマンの背中越しに、染みが一歩、また一歩、私との距離を詰めてくる。床のタイルに足跡は残らない。代わりに、踏まれたタイルの目地から、白い霜が放射状に広がっていく。空気が凍りつく、というのは比喩ではなかった。私の吐く息が、蛍光灯の下で、白い粒になって落ちた。

「者——皆——」

染みの手が伸びた。

人間の手の形をしている。けれど、関節が四つあった。指の本数は、五本。爪の長さだけが、私の手のひらより長い。その手が、私の鞄の取手を弾いて、私の肩を掴んだ。

ぐ、と引き寄せられた。

ホームのタイルから爪先が浮いた瞬間、私は本能的に九字札を亀裂の顔に押し当てた。札の端が、黒い裂け目の中に触れた。紙の縁が、ジュッ、と肉を焼くような音を立てて、煙を吐いた。煙は、腐った卵と古い線香を混ぜたような、粘つく匂いを放った。鼻の奥がつん、と痺れ、私の涙腺が条件反射で緩む。視界が滲む中で、札の文字が、燃えるでもなく、逆に紙の繊維の内側へ吸い込まれていくのが見えた。

染みは、止まらなかった。

止まらないどころか、もう片方の手が私の首に巻きついた。指の関節四つが、喉仏の両側にぴたりと食い込む。空気を求める喉の収縮を、外側から、四本の指が完全に押し止めた。

「——っ、ぁ」

音にならない。声帯がただ振動するだけで、呼吸の入り口が閉じている。視界の端で、退勤客の群れが何ごともなかったように電車を待ち続けている。新聞、イヤホン、スマホ。私の世界の外側で、世界が普通に営まれている。

吊り上げられた。

爪先がタイルから完全に離れ、踵がぶらりと垂れた。喉に食い込む四本指の冷たさが、肋骨の裏まで届いた。舌の根に、鉄の味が滲む。自分の血か、染みの匂いか、もうわからない。あの「穴」が、最後の一呼吸を求めて、口を大きく開けるのが、内側からはっきりと感じられる。

ああ、私は、ここで死ぬのか。

落ちこぼれの第七課職員、神楽坂遥。事故報告にも上げられない、定時退勤途中の地下鉄ホームで、輪郭級の染みに首を絞められて死ぬ、二十四歳。栃木班長は明日の朝礼で、私の名前を一度だけ読み上げて、五秒ほど黙祷して、すぐに次の議題に移るだろう。久我は目を逸らすだろう。三笠さんだけが、たぶん、ほんの一拍、お辞儀の角度を深くする。それで終わりだ。

視界が、にじむ。

意識が、後頭部の方からゆっくりと吸い出されていく。指先の感覚が消える。九字札を握っているはずの右手の中指と薬指が、もう、自分の指かどうかわからない。脳の芯に、綿のような鈍さが広がる。思考の速度が、一拍ずつ、確実に遅れていく。ああ、これが酸欠か、と私はどこかひどく冷静な部分で観察していた。死ぬ直前の人間は、意外と、自分の死をきちんと見ているのだな、と。

その時——肋骨の裏の「穴」の底で、

カチ、

と音がした。

鍵だ、と直感した。

何かが、鍵穴に差し込まれた。誰かが鍵を回した。それは私の意志ではなかった。私は鍵穴の在り処も、鍵の形も、解いてはならない理由も、知らなかった。知らないのに、胸の奥の一番深い場所が、その音を「待っていた」と、二十四年分の重みで頷いていた。

カチン——

二段目の歯が、噛み合った。

三段目。

四段目。

——解錠。

肋骨の内側から、金色の光が、私の皮膚を、内側から、薄く透かして溢れた。

染みの四本指が、ぴくり、と硬直した。

私の首を絞めている手のひらの中で、何かが「触れてはならないもの」に触れた、そういう怯みだった。亀裂の顔が、初めて、私の顔から逸れた。何かを——私の背後を、見ようとした。

私の背後には、何もない。

何もないはずの空間に、ホームの蛍光灯が、一本、また一本と——金色の呼吸を始めていた。資料室の天井で見たあの呼吸。祖母が死ぬ前に、私の手首をそっと押さえて、「まだよ」と囁いた、あの色。

吊られたままの私の視界の隅で、ホームのタイルが、放射状に、ぴき、と裂けた。

裂け目の奥から、低い、唸るような気配が——九つ。

「——まだ、ですか」

私は、誰に問うたのかわからない言葉を、空気の漏れる喉で呟いた。

染みの指が、私の喉から、ゆっくりと、外れていく。

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