第1話
第1話
缶コーヒーの蓋がぬるい汗をかいている。
霞ヶ関の地下深くへ落ちていく《呪務局》通用路の蛍光灯が、頭上で一本、ジジッと鳴いて細かい影を壁に震わせた。コンクリートの継ぎ目には古い退魔式が彫り込まれていて、この通路ではスマホも腕時計も狂う。画面に時計しか残らない箱——私にはちょうどいいと思う日もある。今日はたぶん、そうじゃない日だった。
「神楽坂」
呼ばれて振り返るより先に、横から伸びた手が缶コーヒーを叩き落とした。金属が床で跳ねて、黒い中身が私の革靴の爪先まで細く流れていく。
「結界廊下に飲み物を持ち込むなと、何度言わせる」
第七課、栃木班長。声は、怒鳴っているわけじゃない。怒鳴るほど期待もされていないというのが、私の現在地だった。
「すみません」
「謝るくらいなら覚えろ。今日は札の補充と霊気計の電池交換。——現場には来るな。お前がいると崩れる」
返事はしなかった。返事をすると、声が震える。私はしゃがんで、零れたコーヒーを自分のハンカチで吸わせた。白い繊維の中で茶色が膨らみ、ひとつずつ糸を殺していくのがわかる。指先が、冷たかった。コーヒーのせいじゃない。肋骨の裏側、心臓のすぐ下に、熱の抜けた穴が一つ開いているような、そういう冷たさだった。
この三年で数え切れないほど感じた冷たさ、のはずだった。
今朝のそれは、少しだけ違った。穴の底から、かすかに、何かが押し上げてくる。
栃木の革靴の音が遠ざかってから、私はハンカチを握りしめて立ち上がった。
配属三年目、神楽坂遥、二十四歳。《呪務局》第七課最年少陰陽師。式神一体呼べない落ちこぼれ。そう紹介される前に、自分で笑って言えるようになった。笑っておかないと、他の誰かの顔色で自分の形が決まってしまうから。
資料室の鉄扉は、地下三階のいちばん奥にある。掌の指を組んで、真言を二音だけ落とす。
「——臨、兵」
扉の面に薄紫の波紋が走り、音もなく開いた。ここだけは、私の領分だ。
壁一面に並ぶ桐箪笥の一つ一つに、呪符の種類が墨書きされている。退魔札、封呪札、呼符、結界札。三年かけて私が整頓し直した棚で、職員名簿より先に覚えた字だった。発注書をクリップボードに挟み、順に抽斗を開けていく。指先が札束の縁を撫でるたび、紙の繊維越しに霊気の残滓が拾えた。他の課員にはまず感じ取れない濃度の、ごく薄い残り香。古紙特有のかさついた匂いの奥に、墨と、ほんのわずかな鉄錆——血の匂いに似た、あの陰陽道独特の匂いが沈んでいる。
符の呼吸だけは、人より鋭い、らしい。らしい、というのは誰にも評価されたことがないからで、実用に繋がらない勘など現場では笑い話にもならない。
乙種の呪符、棚中段。束の一番上に、見慣れない札が一枚、紛れていた。
九字護身法。臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前——陰陽道のもっとも古い基礎呪。そして第七課の標準支給札には、含まれていないはずのもの。
なぜ、ここに。
札を抜き取って照明に翳した。紙の裏に、古い血の匂いが染みている。新しい紙じゃない。それに——この筆跡に、覚えがあった。
祖母の字だ。
私を育て、私に呪符の握り方を教え、五年前に死んだ祖母が、私の名前を書くとき必ずこう崩した筆運び。指がその角を撫でる。胸の奥で——覚えのない何かが、ひと呼吸、疼いた。
縁側で正座させられたあの夏の午後が、唐突に瞼の裏に立ち上がる。蝉の声と、墨を磨る湿った音。「遥、筆は紙を斬るんやない。紙の上で息を整えるんよ」——祖母の細い指が、私の手首をそっと押さえていた感触。あの感触のまま、紙の繊維がいま私の指先に話しかけている気がした。
心臓の裏側、肋骨の一本下。誰かに指で突かれたような、鈍い熱。
「……っ」
息が詰まる。札を取り落としそうになって、もう片方の手で受け止めた瞬間、九字の墨が、ほんの一瞬だけ金色に光った——気がした。
照明の点滅。たぶん、そうだ。
もう一度札を見る。光は宿っていない。ただの古い紙、祖母の字。指先にだけ、火傷したような微かな温度が残っている。
資料室の空調が、低くうなっていた。
館内放送が天井から落ちてきたのは、そのときだった。
『——第七課、第三種警戒。東京メトロ半蔵門線、九段下駅構内に大規模呪的発現。該当シフト、直ちに装備室へ』
缶ロッカーが遠くで一斉に開く金属音。床越しに、走る足音が伝わる。栃木班長の声が廊下を抜け、同期の久我と、一年上の三笠さんの声がそれに応じた。
資料室の扉を開けたら、ちょうど装備をまとめた栃木と目が合った。
「神楽坂」
「はい」
「お前は残れ。札の在庫、全部出しておけ。戻ったら補充する」
「……了解しました」
声は震えなかった。震える代わりに、指が勝手に九字の札を握り潰しそうになっていた。慌てて力を抜く。行かせてください、の四文字を、もう何百回飲み込んだだろう。喉の奥に、その四文字の形をした砂が積もっている気がした。吐き出せば崩れる。飲み込み続ければ、いつか喉が詰まって死ぬ。それでも私は今日も飲み込む。
栃木は私の顔を見ようとしなかった。久我は目を合わせかけて、逸らした。同期で、最初の半年だけは並んで歩いてくれた男の、その逸らし方を私はもう覚えてしまっていた。気まずさじゃない。哀れみでもない。ただ、関わると自分の評価が下がる、という計算の目だ。三笠さんだけが、私の肩を通り過ぎざまに小声で言った。
「補充、助かる」
それだけ。それだけが、今日いちにちで誰かに言われたまっとうな言葉だった。
装備室の扉が閉まる。廊下の非常灯が緑から赤に切り替わり、結界廊下の空気が一段、濃くなるのを皮膚で感じた。彼らが封印扉を開けて地上に上がった合図。この瞬間、私は地下にひとり取り残された札番になった。
札を棚に戻そうとして、指が止まった。
祖母の九字札。——これを、ここに置いた誰かがいる。
私は札を見つめた。見つめている間、胸の奥の熱い穴は、呼吸するように広がったり縮んだりした。吸って、吐いて、吸って——
『臨』
私は唇を動かしていた。
『兵』
音にはしていない。しているつもりもなかった。ただ、指先が九字札の上で、勝手に印を結び始めている。祖母が私の手を取って繰り返させた、あの形のまま。中指の関節の角度も、薬指のしならせ方も、二十年近く前に刻み込まれた通りに、迷いなく。
『闘・者・皆・陣』
資料室の桐箪笥が、すべて同時に一寸だけ軋んだ。古い木が、目を覚ました獣のように、ひとつ大きく息を吸ったような音。
『列』
天井の蛍光灯が、ひとつ残らず——金色に呼吸した。白の中に金が混じり、混じり、やがて金が白を覆い、棚に並ぶ呪符のすべてが、その金の光を裏から透かしているのが見えた。何百枚という札の繊維が、私の心臓と同じリズムで脈打っている。
『在』
私は札を取り落とした。
最後の一字を、私は言わなかった。言えなかった、というほうが正しい。喉が詰まって、息が止まって、肋骨の裏側の穴から熱が噴き出して、それが喉まで上がってくる途中で——私は自分の手で自分の口を塞いだ。
札が床に落ちて、ぱた、と音を立てた。
蛍光灯はいつの間にか、ただの白に戻っている。桐箪笥の軋みもない。空調の低い音だけが、何ごともなかった顔で回っている。
冷や汗だけが、背中を伝っていた。シャツが背骨に貼り付き、剥がすたびに皮膚がひりひりする。今のは、なんだ。今のは、何を呼びかけた。最後の『前』を口にしていたら——あの金色は、この資料室の天井を破っていた。そういう確信だけが、理屈より先に骨に残っていた。
指先の火傷のような熱が、まだ引いていない。肋骨の裏の穴が、今は熱を持った口みたいに開いたり閉じたりしている。印を結んだ右手の、中指と薬指が小刻みに震えていた。
祖母の声が、聞こえた気がした。
『遥。——まだよ』
耳で聞いたんじゃない。骨の、髄の中で聞いた声。
まだ。何が、まだなのか。まだ唱えるな、なのか。まだその時じゃない、なのか。あるいは——まだお前は何も知らない、なのか。問い返したかったが、問い返す相手はもうこの世にいなかった。
定時の鐘が、館内放送で鳴った。
午後六時。第七課の札番は、定時で上がっていいことになっている。現場に出ない人間は、現場の邪魔にならないように、早く帰るように、と。私は札を拾い上げ、抽斗の奥に隠した。誰かが意図して置いたものなら、誰かがまた探しに来る。そのとき、私の手の中にあったほうがいい気がした。
通用口を抜け、霞ヶ関駅の人混みに混じる。
退勤ラッシュ。スーツの群れ、乾いた香水、遠いアナウンス。いつもの地下。——ただ、右手の中指と薬指が、まだ微かに熱を持っている。札を握った跡が、見えない火傷のように残っていた。
丸ノ内線のホームに降りる階段の手前で、もう一度、胸の奥が疼いた。
今度は、もっと深い場所からだった。
吸って、吐いて、吸って——そのリズムに合わせて、肋骨の裏の「穴」が、誰かに呼ばれているみたいに、ゆっくりと、開いていく。
階段の先、ホームの蛍光灯が、一本、ジジッと鳴った。