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観察者の縛りプレイ

第3話 第3話

第3話

第3話

歩いて四十分、湿った苔の匂いが、徐々に乾いた岩肌の匂いに置き換わっていく。

灰木の谷を抜ける一本道は、緩やかに登ってから、二つの尾根の間にぽっかりと落ち込む。落ち込んだ底に、青鬼種と岩蜥蜴種が交差する水場がある。マップ名は「ふたつ口の谷」。プレイヤー間ではほとんど呼ばれない。レベル帯18から22、効率のよさで言えば中の下、わざわざ来る理由がない。なら、誰も来ない。それがいい。

岩棚の縁に腹這いになって、俺は下を覗き込んだ。腹の下の岩は冷たく、装備の薄い布越しに体温を吸っていく。冷たさで腹筋が一度こわばって、それから慣れる。視界の隅にミニマップが浮いているが、俺はそれを見ない。見るのは水場だ。直径八メートルほどの濁った池。北側の岩陰に青鬼が三体、南側の砂地に岩蜥蜴が四体。両者の縄張りはほぼ等分で、池の中央線が境界線になっている。境界の真上では、たまにトンボに似た虫がふらふらと飛ぶ。誰の縄張りでもない領域を、虫だけが知っている。

時刻はゲーム内時間で午後二時。気温パラメータは中。風は北東から南西。風下は岩蜥蜴側で、風が南西へ抜ける限り、青鬼の嗅覚アラートは岩蜥蜴の体臭を拾わない。逆風になれば話は別だ。風向きの変動周期は六分。観察ノートに、半月かけて取った値だ。

俺は調査棒を、腹の下に潜らせて、腰の位置で固定した。立てば青鬼の視覚範囲に入る。立たない。

ノートを開く。新しいページの上端に、短く書いた。

『誘導検証一回目。損害ゼロを目指す。』

風が変わるまで、四分。

俺は岩棚の上を、肘と膝で這って移動した。装備が布だけだから、岩の角がじかに肘骨に当たる。じかに当たって、痛い。痛いという感覚を、ゲーム内でこんなに正確に拾わなくていいのに、俺は這い続けた。痛みは集中の的を絞ってくれる。ペンより先に、肘骨が紙の代わりになる。岩の表面は浅く水を含んでいて、肘の布をじわりと冷やした。冷えは皮膚の下を伝って、肩甲骨の裏側まで届く。届いたところで、ようやく呼吸が一定になる。

青鬼の中で、いちばん列の端にいる個体を選ぶ。北側、岩陰の左端、一体。残HP満タン、活動状態「警戒・低」。次行動予測、足踏み二回のあと水を飲みに前進。前進距離、約二メートル。

岩蜥蜴側で、いちばん近い水際の個体を選ぶ。南側、砂地の北端、一体。残HP満タン、活動状態「休眠・中」。次行動予測、舌で水面の位置確認、その後、五十秒の伸びをひとつ。

二者の進行ベクトルを脳内で延長する。青鬼の前進終点と岩蜥蜴の伸び終点、その差はおよそ一メートル二十センチ。間に何もなければ、互いの視覚アラートには引っかからない。引っかからない、ということは、衝突しないということだ。

衝突させなければならない。

俺は腰のポーチから、小さな木片を取り出した。鑑定士の初期インベントリに入っている、判定用の木っ端。素材判定で投げ、軽く触れさせて、データだけを取る。ダメージ判定は、出ない。出ないから、敵対値も上がらない。指の腹で、木片の年輪を一度撫でる。乾いた繊維が皮膚の溝に引っかかる。引っかかった感触が、放物線の手応えを先取りする。

その木片を、青鬼ではなく、岩蜥蜴に投げる。

距離十二メートル、放物線の頂点を岩蜥蜴の頭上一メートルに設定。風下に投げるから、軌道は予定より三十センチ南へ流れる。流れる先を見越して、肘の角度を二度、北へ振る。投げる。

木片は、岩蜥蜴の鼻先で、ぽとりと落ちた。

岩蜥蜴の頭が、ゆっくりと持ち上がる。舌が出る。木片の素材を舐め取る。舐め取り終わって、頭が左右に振れる。投げ主を探す。

俺は岩棚の影に、肘骨を一段深く沈めた。岩の角が、肘の同じ場所をもう一度抉る。痛みで瞬きが一度遅れた。遅れた瞬きの裏で、まぶたの内側に赤い斑点がよぎる。赤の中で、岩蜥蜴の舌のかたちが、一拍だけ残像になって貼りついた。

岩蜥蜴の視線が、斜めに、青鬼の縄張りへ流れる。

その瞬間、青鬼の前列の一体が、足踏みを止めた。視覚アラート、青、点灯。岩蜥蜴の鼻先と、自分の縄張りの境界線。境界線を岩蜥蜴の視線が舐めた、と判定された。

青鬼が、立ち上がる。

戦闘音は、思ったよりもくぐもっていた。

水場に踏み込んだ青鬼の足が水を撥ね、岩蜥蜴の尾が水面を叩く。二つの飛沫が交差したところで、両者のHPバーが視界に貼り付く。残HP、青鬼42/60、岩蜥蜴38/55。クールダウン、青鬼の振り上げ1.8秒、岩蜥蜴の頭突き0.6秒。数字は乾いていて、紙より滑らかに、頭蓋の内側に降りてくる。

俺は岩棚の上で、息を浅く保つ。指先の冷たさは、もう手のひらの中央まで来ている。冷たさは集中の合図だ、と最近気づいた。集中している、と思おうとすると、いつも遅れる。冷たさの方が、いつも先に来る。

「……二十四」

息に乗せた呟きが、唾と一緒に喉を通った。

戦闘は、ぴったり二十四秒で終わった。

岩蜥蜴の頭突きが青鬼の右膝を砕き、青鬼の振り下ろしが岩蜥蜴の背骨を叩いた。最後の一撃は岩蜥蜴側で、青鬼が水面に倒れた瞬間、二体ぶんの経験値ログが俺の視界の左上に重なって流れた。

『+342 EXP』『+318 EXP』

俺の手は、調査棒の柄を握ったまま、一度も動いていない。

声に出さず、息だけで笑った。半年ぶりに肺の底まで息を吸った気がする。吸い込んだ空気は、谷底の水気と岩の鉄錆の匂いを連れてきた。連れてきた匂いは、舌の奥にうっすら金属の味を残す。その味で、自分がまだ生きてここにいることを、何度目かに思い出した。

そのとき。

勝った岩蜥蜴が、ゆっくりと、首を真上へ、回した。

水場の北側でも南側でもない。真上。岩棚の、俺がいるその場所へ。

視覚アラート、点灯しない。距離、十六メートル。岩棚の影、十分。地形遮蔽、有効。条件の上では、見つかるはずがない。

見つかるはずがない、はずだった。

岩蜥蜴の鼻先がこちらに向いた瞬間、俺の視界の右下、画面の端に、何か別のものが映った。

人型の輪郭。色は灰。HPバー、なし。CDバー、なし。看破の瞳が示す数字、ゼロ。

数字がゼロなのは、初めてだった。スライムにも、青鬼にも、岩蜥蜴にも、必ず数字が貼り付いた。貼り付かないのは、システムが「観察対象として認識していない」ということだ。

存在しているのに、認識されていない。

俺は息を止めた。止めた息のぶん、耳の奥で自分の脈が膨らんで聞こえる。膨らんだ脈の隙間に、谷の水音が割り込んで、規則的に薄まっていく。

灰色の輪郭は、岩棚のさらに上、俺の真後ろの尾根の上にいた。背格好は人間のプレイヤーサイズ、距離六メートル。装備の輪郭は薄く、フードらしきものを被っている。顔は、視えない。視えないのは、看破の瞳が「データを返さない」からだ。

岩蜥蜴は、灰色の輪郭を見上げ、それから、視線を落として、再び水場へ戻った。岩蜥蜴の方は、それを見ていた。俺が映っていなかったのは、たぶん、岩蜥蜴の視覚範囲の方が、灰色の輪郭で塞がれていたからだ。

灰色の輪郭は、動かない。

動かないまま、フードの内側で、何かを書いているように見えた。手元の角度が、紙にペンを走らせる角度に、よく似ていた。手首の返し方も、一行を書き終えて次の行頭へ戻るときの、あの短い跳ね方によく似ていた。似ている、と気づいた瞬間、首筋の産毛が一斉に立った。

俺はゆっくりと、岩棚の影に体を沈めた。心臓の拍動は、また視えていた。一拍0.68秒、次0.65秒。冷たさは肘と肘の間まで広がっていて、それでも震えなかった。震えていたほうが、まだ自然だったかもしれない。

灰色の輪郭は、こちらを見ていない。たぶん、最初から見ていない。見ているのは、俺ではなく、俺の手元のノートだ。そう感じる根拠はないが、そう感じることだけは、紙より滑らかに、頭蓋の内側に降りてきた。

メニューを開く。配信枠、同接3。コメント欄に、白い行が一つだけ、流れていた。

『書き取りは、丁寧にね』

「kan」。同じIDだった。

俺はノートを閉じた。閉じる前に、最後の一行に、新しい数字を書き加えた。

『観察される側、一名。確認。』

ペン先が紙を擦る音は、いつもと同じ乾いた拍子だった。だが、その音の下で、ログにない音が、まだ鳴っている気がする。今度は、耳の奥でも、骨の継ぎ目でもない。背中の、肩甲骨の間の、ちょうどフードのある高さで。

冷たさが、首の付け根まで上がってきた。

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