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観測者の迷宮譚

第3話 第3話

第3話

第3話

闇の底で返された震えは、ぬるい粘膜のような音だった。

レンは水筒の口を傾けたまま、自分の膝先に溜まる気配を、眼でなく掌で測っていた。石段の角に腰を下ろしたままだ。背中を預けた壁は、最初に触れたときより、ほんの半度ほど温度が上がっている。自分の体温を壁が拾っている——それだけ長い時間、この姿勢で止まっていたのだと、指の痺れが教えてくれた。

松明の柄は、右膝の横に立てかけてある。炭の先から、もう熱は抜けきっていた。闇は相変わらず完全だが、耳と鼻が、少しだけ闇に慣れてきている。

鼻の奥に、新しい匂いが入ってきた。

血の匂いでは、なかった。鉄の粉でもなかった。もっと微かな、雨に濡れた草の根に似た匂い。それが、膝先の気配から、ぬるい呼気と一緒に吐き出されていた。吐くたびに、匂いが濃くなる。吸うときは、匂いが引く。呼吸の律動を、レンはいつの間にか、自分の肺の律動と同期させていた。四つ吸って、六つ吐く——目の前の気配もまた、ほぼ同じ拍で、体を震わせている。

「……怪我、してるのか」

囁きは、膝先の闇に吸われた。返事はない。代わりに、ぬるい粘膜の擦れる音が、石の表面で、ほんの半歩だけ後ろへ下がった。

警戒された、というより、痛みを避けるために位置を変えただけの動きに思えた。下がった先の石に、湿った跡が一筋、残された気がした。見えないはずの跡を、レンは鼻で追った。匂いの濃度が、その一筋に沿って薄く残っている。

彼は左手で、腰の小物入れから、麻布の切れ端を取り出した。水を拭うための布だった。胸元の手帳だけは、胸骨の上から動かさなかった。革の角が、肋骨の裏の鉛玉と、いまは同じ位置で鼓動している。

布を左の掌に広げ、水筒の水を数滴、染み込ませる。

陶器の口を垂直に戻してから、栓を噛んで止める。音を立てずに行う手順は、荷物持ちの仕事の中で何度も練習してきたものだった。両手が塞がる場面で、道具を口で押さえる癖は、指が足りない者の発明だ。

湿らせた布を、膝先の闇へ、掌ごと差し出した。

気配が、止まった。

数瞬の間、石の上で震えだけが続いた。やがて、ぬるい膜のようなものが、レンの掌の縁に、そっと触れた。ひやりと冷たく、わずかに粘りがあり、そして——温度の底に、小さな芯のような熱が埋まっていた。

熱の輪郭は、掌の中心からずれた、親指の付け根のあたりに、点として感じられた。豆粒ほどの熱。それが、彼の掌に移された瞬間、ぴ、と小さく震えた。周波数のある震えだった。遠い地下水の落下音と、どこかで、共鳴するような震え。

——核、だ。

レンは息を止めた。

魔物の中には、体の一部に魔石の原型となる核を持つ種がいる。スライム種もその一つだと、手帳の後ろの方に、以前書き写した知識があった。ギルドの酒場で、老いたハンターが語っていたのを、彼が盗み聞きして書いたものだった。核を失えば、スライム種は崩れる。核が未成熟なうちは、体も未成熟で、色も薄く、動きも鈍い。呼び名は——

『なり損ない』。

胸の中で、その単語が形を結んだ。

魔物の等級でいえば、最下の最下だ。Fランクの駆け出しでも一撃で潰せる、と蔑まれる幼体。魔石としての価値もほとんどなく、ギルドの買取欄にも名前は載らない。討伐数のカウントにもならない。誰にも狙われず、誰にも守られず、階層の隅で体液を吐きながら崩れていく、最弱種の成り損ないの子。

掌の上の熱が、もう一度、小さく震えた。

震えの周波数を、レンは耳ではなく、掌の皮膚で聴いた。脈に似て、しかし脈よりも速く、細かく、そして——どこかで聞いた記憶のある拍だった。

階層主。

第七階層最奥の、主と呼ばれる個体。直接見たことはない。けれど、ギルドの壁に貼られていた過去の討伐記録の中に、「拍動的な咆哮、毎分百四十前後」と、震えの字で書かれた一行があった。倒れた先輩ハンターの遺品の手帳から抜き書きされた、という注釈付きの記録だ。レンはその一行を、自分の手帳の巻末に、許しを得ずに写していた。

いま、掌の上で震えている熱の拍が、その数字と、ほぼ一致していた。

「……同じ、なのか」

囁きが漏れた。

なり損ないの核と、階層主の鼓動が、同じ周波数で震えている。

意味は、まだ分からない。偶然かもしれない。第七階層の霊脈の影響で、個体の核が環境に共鳴しているだけかもしれない。けれど、掌の下の小さな生きものは、この階層の最奥に座す主と、何かしら同じ線で繋がっている。繋がっていて、なお、こうして最下層の隅で、ひとり瀕死になっている。

レンは、膝の上で左の掌を静かに返した。

湿らせた布ごと、地面にそっと置く。核を含む膜が、布の上で、ほんのわずかに伸び広がる感触があった。水を吸っているのだ。布に染ませた数滴を、膜の全体で、時間をかけて吸い上げている。吸うたびに、核の拍が、一回ごとに少しだけ強くなる。生き延びようとしている、と、レンは思った。

そして、その生き延びようの中に、どこか——自分と似た気配があった。

三年間、Eランクの烙印を貼られたまま、背中の革紐を毎日擦り切れさせながら、それでも手帳の頁だけは継ぎ足してきた自分の、みっともない執着と、少しだけ似ていた。

——観せて、くれるか。

先ほどの自分の囁きを、彼はもう一度、口の中で転がした。

観せて欲しい、と思った。この小さな核が、なぜ階層主と同じ拍で鳴っているのか。なぜ、最下の成り損ないのくせに、主の周波数を宿しているのか。そして——なぜ自分は、置き去りにされた闇の底で、よりによってこの生きものと、呼吸を合わせてしまっているのか。

膝先で、ぬるい膜が、小さく、吸う動きを止めた。

布の水を、吸いきったのだ。

気配が、ごくわずかに、上を向いた。闇の中で角度は見えない。けれど、核の位置が、掌の外へ出て、レンの顔のほうへ、ほんの少し持ち上げられるのを、皮膚の温度差で感じた。熱の点が、自分を見上げている。

何かを、求めている。

水では、ない。水はもう吸った。体液の濃度を保つには、それで足りるはずだ。なり損ないとはいえ、スライム種の生態の一部は、手帳の知識と合致していた。足りないのは、水より先の、もう一段階上のもの。

肉、ではない。レンは肉を持っていない。保存食の干し肉は背負子の中だが、いま、膜が求めているのは、もっと少量で、もっと別の何か——。

掌の縁に、核が、もう一度触れた。

今度は、掌の中心ではなく、指先の方へだった。親指の、爪の根元。そこに、ほんの小さな、針で引っ掻くような痒みに似た感触が走った。

血、だ。

親指の爪の根元の、皮の薄い場所。そこに、核の先端が当たっている。魔物の契約の古い記述を、レンは思い出した。魔石と契約を結ぶ儀式は、血の一滴で成立する——冒険譚の本の中で、挿絵付きで読んだ記憶がある。あれは物語の装飾だと思っていた。けれど、いま、掌の上の小さな核は、確かに、自分の血を求めている。

求めているのに、強引には奪わない。

皮膚を破れば、それだけで血は出る。でも核は、ただ触れて、震えて、待っている。レンが自分で、差し出すのを。

彼は右手を、自分の腰に回した。背負子の側面に差した、小さな解体用のナイフ。指先で柄を探り当て、引き抜く。刃先を、自分の左の親指の爪の根元に、当てる。刃は冷たく、皮膚の薄い場所に吸い付いた。

三年間、Eランクのまま、背を丸めて歩いてきた男が、この闇の中で、自分の血を差し出すかどうか、いま決めようとしていた。

差し出せば、何かが変わる。変わらないかもしれない。罠かもしれない。魔物の古い記述など、半分は嘘で半分は誇張だ。それでも——

掌の下で、核の拍が、待つように、一度だけ、ゆっくりと鳴った。

レンは、目を閉じた。

ナイフの先端が、皮膚に、ごく浅く入った。

痛みより先に、鉄の匂いが、鼻の奥に戻ってきた。第七階層の空気に混じっていた、あの鉄の粉の味。あれは石の匂いではなかったのかもしれない、と、この瞬間に彼は悟った。この階層そのものが、誰かの血を、ずっと前から、吸っていたのだ。

親指の根元から、一滴。

闇の中で、赤は見えない。けれど、掌の上の核が、その一滴を受け取った瞬間、ぴ、と、これまでより少しだけ高い周波数で震えた。震えが、レンの指先から、掌の筋を伝って、手首へ、肘へ、肩へ——そして、胸の奥の、三年間ずっと冷たかった鉛玉のあたりへ、熱の線として走った。

鉛玉が、初めて、温度を持った。

闇の底で、何かが、ゆっくりと起き上がる気配がした。

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