第2話
第2話
松明の炎が、ほんのわずかに後ろへ引き戻された気がした。
レンはその微細な揺らぎを、炎の芯の位置で読み取った。風はない——けれど、何かの呼気に似た空気の薄い移動があった。吸うのではなく、吐かれた。低く、冷たく、腹の底から這い出してくるような息。
彼は左手で手帳を胸元に押し込み、右手の松明だけを壁に寄せた。石壁は濡れていた。水が染みているのではなく、冷気が凝(こご)って滴になっている種類の濡れだ。第四階層の湿気とは違う。第七階層の空気は、もっと乾いて、もっと重い。呼吸のたびに、舌の奥に金属の粉のような味が残る。
——鉄の、味。
血の匂いではなく、鉄の味だった。石の中に含まれる鉱脈の匂いなのか、それとも魔物の体液が過去にここへ染み込んだ名残なのか、レンには判別できなかった。手帳に書き込む余裕はない。指先を革の縁にかけたまま、彼はもう一歩、影の端へ踏み出した。
足音は、立てなかった。
三年間で覚えた爪先の下ろし方が、いま役に立っている。踵を浮かせ、土踏まずから先に石を拾う。背負子は降ろしたままだ。代わりに、胴の重心がやけに軽い。軽さが、こんなに怖いものだとは、思わなかった。重荷は、彼の背骨を強制的に地面へ引き寄せてくれていた。荷を失った身体は、風の中の紙切れに似ている。
松明の炎が、再び、ほんのわずかに小さくなった。
——燃える量(かさ)が、減っている。
新品の松明ではなかった。一軍の四人が、最も短いものを、一本だけレンに押し付けていった。あと十分と少し。それが燃え尽きるまでに、彼はこの空洞から退くか、あるいは光を諦めるか、選ばなければならない。
選ぶ余地など、本当はなかった。通路の奥は、彼らが去った方向だ。戻れば、彼らの帰りと鉢合わせる。それが「荷物持ちが勝手に逃げた」という口実に変わるまで、半日とかからない。
闇は、足首から来た。
松明の炎が最後のひと舐めをして、じじ、と短く鳴いた後、赤い光が一度大きく膨らみ、しぼんで消えた。煤と脂の匂いだけが残り、石の冷気がゆっくりと膝下を包んでいく。レンは息を止めた。開けたままの両目に、何も映らなかった。眼球の奥で、薄い火の残像が揺らいで、しばらくしてそれも薄れた。
完全な、黒。
眼を閉じても開けても同じ、という意味ではなかった。眼球が何も捉えないのに、意識だけが開いたままの、奇妙な欠落だった。上下の感覚が、指先から順に溶けていく。踵(かかと)の重みだけが、かろうじて自分をこの世界の地面に繋ぎ留めていた。呼吸の音が、自分の耳の中で、やけに大きく響いた。吸うたびに、鼻腔の奥で石の粒子が震える。吐くたびに、その粒子が湿った熱とともに戻ってくる。
彼は左手の手帳を、胸骨の上に置いたまま固定した。革の角の折り目が、心臓の鼓動と重なるのを指先で確かめる。生きている、と、その角が教えてくれる。松明の柄を右手に握り直し、消えた先端を上向きに立て、杖の代わりにした。炭になった芯からは、まだ微かに熱が滲んでいた。
「……観る」
声に出した。自分の声が、闇の中でどれくらいの距離を持つのか、測るためだった。呟きは二歩ほど先で吸われて消えた。空洞は広い。壁が遠い。それだけでも、情報の一つだ。
耳が、徐々に目の代わりを始めた。
最初に拾ったのは、地下水の音だった。遠い、壁三枚の向こう側。規則的に滴(したた)る、浅い水盤への落下音。次に、頭上の石組みの、夜露が集まっていく乾いた軋み。それから、自分自身の呼気。四つ吸って、六つ吐く。胸郭が広がるときに、肋骨の内側で背負子の紐の痕がまだ痺れている。汗が冷えて、背中の麻の肌着が皮膚に貼り付いていた。
——硬いものが、石を擦る音。
先ほどの音が、戻ってきていた。
三拍の沈黙。二拍の擦過音。長い沈黙。擦過音と擦過音の間隔が、先ほどよりほんの少しだけ短い。近づいている、とは限らない。慎重になっている、のかもしれない。近づき方の癖を、レンは頭の中の頁に書き留めた。鉛筆は握れない。けれど、頁は頭の中にも綴じてある。
左手で、闇の中を探る。膝のあたりに、石の段差がある。さっき自分が降りた石段の最後の一段だ。段差の角を指の腹でなぞり、そこを自分の原点に定める。壁まで、おそらく六歩。通路の口まで、振り返って十二歩。四人の足音が消えた方向は、左奥。右の闇からは、古く湿った風の気配がわずかに届く。
右、だ。
音は、右から近づいてくる。
レンは壁に背を着けたまま、息だけで数えた。一、二、三——擦過音。四、五——擦過音。六、七、八、九、十——沈黙。
間隔の中に、呼吸に似た律動(りつどう)がある。これは、狩りの足音ではない。狩るなら、間隔をもっと一定にする。魔物の多くは、獲物との距離を等しく詰めるために、踏み足のリズムを刻む。この音には、それがない。むしろ——
——息が、切れている。
レンはその発見に、自分でも驚いた。音の中に、荒い吐息のような間延びが混じっている。石を擦るものの体が、自重を運びきれていない。そんな印象だった。
闇の中で、レンは膝を折った。
壁を背にしたまま、ゆっくりと石段の角まで下り、その上に座った。背負子から水筒を取り出す手順を、指先だけで辿る。革紐の結び目は、普段よりも指が上手く動かなかった。二度ほど結び目を探り直し、金具を外し、布で巻いた陶器の筒を引き出した。
栓を抜く音は、立てないようにした。
音のする方向へ、水筒を傾けずに、ただ口を開けたまま持ち上げた。水面の匂いが、石と鉄の空気の中で、わずかに甘く感じた。井戸水だ。ギルドの裏手にある石組みの井戸で、昨日の夕方に汲んだ、自分のための水。
右の闇で、擦過音が、止まった。
沈黙の質が、変わった。
先ほどまでの沈黙には、緊張の薄い膜のような重みがあった。今の沈黙には、息を潜める者の息そのものが混じっている。レンは水筒を、胸の高さに掲げたままにした。差し出しているのか、誘き寄せているのか、自分でも判別できなかった。ただ、相手が何かを必要としている気配が、闇の濃度の中に滲んでいた。
微細な鼓動が、近づいた。
足音ではなかった。石の上を滑る、ぬるい、粘性のある音だった。膜のようなものが、冷たい石に吸い付いては離れ、吸い付いては離れて、体全体で這う。間隔は不規則で、途中で何度も止まり、止まるたびに、ごく小さな、震えるような息の音が挟まれた。
——苦しそう、だ。
レンの指の力が、水筒の口をわずかに揺らした。陶器の縁で水が跳ね、一滴、石の上に落ちた。落ちた先で、這う音が止まった。
止まって、近づいた。
彼の爪先から、おそらく一歩半ほどの距離で、ぬるい気配が留まった。呼吸のような、気泡のような、小さな震えの音が、石の表面で鳴った。レンは目を開けたまま、何も見えない闇の中で、相手の輪郭を想像した。大きくはない、と思った。音の重さから、犬よりも小さい。けれど、そこに確かに「生きているもの」の体積があった。
「……水、いる?」
自分の声が、また闇に吸われた。
返事はなかった。代わりに、水滴の落ちた先から、ごく小さな音が聞こえた。何かが、水を吸う音だった。石を這う膜が、落ちた一滴を、まるで大切に舐めるように、ゆっくりと吸い上げている。
レンの胸の奥で、三年間ずっと冷えていた鉛玉のあたりが、ほんのわずかに、ぬるくなった。
彼は、水筒の口を、もう少しだけ前に傾けた。
石の上に、二滴目が落ちる。三滴目が続く。這うものの吸う音が、小さく、規則的に、闇の中で鳴った。レンの指先は震えていたが、水筒を持つ手は、止めなかった。
気配が、さらに半歩、近づいた。
ぬるい、湿った、微かな重みが、レンの膝のすぐ先で、石に体を預ける音を立てた。重みは、拳(こぶし)ふたつ分ほど。生きものの熱が、石越しに膝頭へ、ほんのりと伝わってくる。彼はそれが何であるかを、まだ見ていない。松明は炭だ。闇は変わらない。けれど、いま闇の中には、自分以外の呼吸が、一つ、確かにあった。
左手が、胸元の手帳を握り直した。
革の角の折り目が、鼓動に合わせて、二度震えた。レンは小さく、掠(かす)れた声で囁いた。
「観せて、くれるか」
闇の底で、何かが、ごく微かに、応えるような震えを返した。