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観測者の迷宮譚

第1話 第1話

第1話

第1話

背負子(しょいこ)の革紐が肩の肉に食い込んだ瞬間、結城レンは息を止めた。第四階層の苔(こけ)の匂いが、肺の奥を湿らせてくる。松明の脂煙と、誰かの汗と、鉄錆に似た水滴。彼は二十二キロの荷を背負ったまま、左手で腰の手帳を押さえた。表紙の革は擦れて白く、角が巻き上がっている。

「おい、ポーター。遅れるな」

前を歩く剣士が振り返りもせずに言った。レンは「すみません」と返し、半歩だけ歩幅を広げた。返事はいらなかった。彼らは彼の声など最初から聞いていない。ただ、足音だけを聞いている。遅れれば舌打ちが飛んでくるし、速すぎれば邪魔だと肘で押される。その加減を、レンは三年で覚えた。半歩遅れて、半歩前を空ける。革靴の踵が石に擦れる音だけは、誰の耳にも障らないように、爪先からそっと下ろす。

壁に這う苔に、指先が触れる。湿って、冷たい。ここの苔は北側に多い。だから自分たちは今、西へ進んでいる。方角計など持たされていない荷物持ちにとって、苔の生え方は方角札の代わりだ。手帳の端に「湿苔・壁北側・第四層」と、震えない字で書き留める。鉛筆の芯は短く、指の腹が黒く汚れていた。

「ほんとに連れてきたのか、あのモヤシ」 「ギルドマスターが泣きついてきてな。使えりゃいいよ、背中が」

後ろから笑い声。レンは聞こえていないふりをして、足元の石の剥離(はくり)を指で確かめた。踏み抜けば踝(くるぶし)が割れる罠の前兆だ。爪先で軽く撫でて、隣の石へ重心を移す。膝のばねを使い、踵を浮かせたまま渡る。三年前なら、ここで踏み抜いていた。

結城レンは二十歳、Eランク、三年落ち。ハンターの位階でいえば最下の泥土(でいど)だった。才能なし、スキルなし、魔力量は平均の半分。登録した年の試験官に「荷物持ちから始めなさい」と言われ、以来ずっと荷物持ちのままだ。

「なぁレン、お前さ、なんで辞めねぇの」

前衛の斧使い、タケシが息を切らしながら聞いてきた。愉快そうな声だった。レンは背負子を揺らし、重心を右足へ移してから答えた。

「まだ観てないものが、ありますので」 「観る? 観るって何を。お前、スキル鑑定(かんてい)もねぇのに」 「……魔物の、癖です」

タケシが噴き出した。後ろの魔術師が「癖え?」と繰り返し、剣士が「やっぱり頭も底辺か」と吐き捨てた。レンはそれ以上答えなかった。代わりに手帳の別の頁を、指の腹でなぞる。

そこには、ゴブリンが右足から踏み出す確率が六割八分であること、コボルトが甲高い笑声を上げた直後〇・四秒だけ右側面ががら空きになること、第三階層の蝙蝠(こうもり)型が橙(だいだい)の光源より黄の光源に強く反応すること——三年分の観察が、細い字で頁の縁まで埋まっていた。誰にも頼まれていない記録だった。雇われ先のパーティが交代しても、季節が三度巡っても、彼は同じ手帳を持ち歩き、頁を継ぎ足し、糸で綴じ直してきた。

一度だけ、同期の女剣士に見せたことがある。彼女はぱらぱらとめくって「きもちわるい」と笑い、頁を閉じて返してきた。それ以来、誰にも見せていない。胸の奥が、その瞬間に一度だけ熱くなって、それから静かに冷えていったのを、レンは覚えている。冷えたまま固まった場所が、いまも左の肋骨の裏側のあたりに、小さな鉛玉のように残っている。歩くたびに、その鉛玉が背負子の重みに同調して、微かに揺れるのを感じる。

湿った空気の塊が、通路の角で動いた。レンは反射的に背を屈(かが)める。

「止まれ」

剣士が短く号令した。一軍の四人が武器を抜く。レンは背負子を降ろし、一歩下がって壁に背を着けた。そこから数えて七歩先、天井の石組みの継ぎ目が、一ヶ所だけ色が違う。水が滴り、黒く染めている。普通の落水ではない。継ぎ目から滲む水は、内側で何かに押されて出てくる水だ。圧が、かかっている。

「右、二歩分」 小さく、レンは言った。 「あ?」 「天井の石、一ヶ所。落盤(らくばん)の仕込みです。右に寄れば外せます」

剣士が振り向いた。眉間に皺(しわ)が寄っている。一拍の沈黙の後、舌打ちして右へ寄った。他の三人も続く。レンの頭上を、ひんやりとした天井の気配が過ぎていった。一秒、二秒、三秒。誰の足にも、何も落ちてこなかった。

誰も礼を言わなかった。当然だった。礼を言われるためにやったわけではない、と自分に言い聞かせる。それでも、背負子をもう一度肩に担ぎ直す手が、ほんの少しだけ重く感じた。手帳には、何も書き足さなかった。書き足す代わりに、革表紙の縁を親指で一度だけ撫でた。それが、彼が自分自身に向けて行う、唯一のねぎらいの仕草だった。

第七階層の入り口で、空気が変わった。

石段を一段降りた瞬間、鼻の奥にぬるい血の匂いが入ってくる。レンは思わず喉を鳴らした。他の四人は気づいていない。彼らの松明は橙に揺れ、広い空洞のごく一部しか照らしていない。壁の向こうで、微かに、水脈の鳴る音がする。遠い地下水の、ごく小さな反響(はんきょう)。耳の奥で、自分の脈の音と、それが重なる。

「ここが第七か。初めて来たぞ」

タケシの声が浮ついていた。魔術師が「うるさい、潜んでるぞ」と低く返す。剣士はレンを一度だけ振り返り、それから魔術師と目配せを交わした。視線が、ほんの瞬きほど。けれど確かに、二人の間で何かが受け渡された。

レンの背筋を、冷たいものが走った。

あの目配せを、彼は識(し)っている。半年前、三人組の中堅パーティに雇われたとき、同じ視線を受けた。そのときは第五階層の分かれ道で、荷物を背負ったまま「少し見てきて」と命じられ、背後で足音が遠ざかっていった。運が良かったから、彼は生きて戻った。運が良かっただけだ。あのとき、迷路の壁に爪で印を刻みながら、自分の指先がどれだけ震えていたか、まだ覚えている。爪の先が割れて、血の混じった印になった箇所もあった。その血の色を、戻り道で松明の光に晒したとき、自分のものとは思えないほど鮮やかだった。

——死ぬ流れか、これは。

手帳を握る指が、薄く汗ばむ。革表紙の角の折り目を、親指でなぞる。落ち着け、と自分に言い聞かせた。まだ確定したわけではない。けれど、確定する前に動かなければ、確定したときには動けない。それも、三年で覚えたことの一つだった。呼吸を、四つ吸って、六つ吐く。胸郭の動きを意図的に遅くする。心臓は勝手に走るが、肺だけは命令で抑えられる。

「ポーター、悪いが」

剣士が振り返らずに言った。

「お前、その辺で荷を降ろしといてくれ。俺たちは先に偵察に行く。戻るまで、動くな」 「……はい」 「分かってるよな。動くな、って言ってるんだ」

念を押す声に、笑いが混じっていた。背後の魔術師も、低く喉で笑った。レンは頷いた。それ以外の答えを、彼らは欲しがっていない。

松明の火が、四つ。ゆっくりと奥の闇へ遠ざかっていく。レンはその光が、決して戻って来ない距離まで離れるのを、立ち尽くして観ていた。背負子を降ろす革の擦れる音が、やけに大きく響いた。肩の肉に押し付けられていた紐の痕が、外気に触れてじんわりと痺れる。汗が冷えて、皮膚の表面で薄い膜になる。寒い、と感じた。第七階層は、第四よりも空気が三度ほど低い。

手帳を開く。新しい頁の一番上に、手が震えないよう息を整えてから、書き込んだ。

『三月十二日、第七階層入り口。同行者四名、離脱の兆し。呼吸、早くなる。松明、消える前に——』

書きかけの文字の上に、小さな水滴が落ちた。苔ではない。自分の汗だった。指の甲で頁を拭うと、鉛筆の芯が滲んで、文字の縁がぼやけた。それでも、書き残すことを止めなかった。書き残しておけば、もし戻れなかったとき、誰かがこの頁を拾うかもしれない。三年分の観察が、誰かの命を一つでも繋ぐかもしれない。そう思うことだけが、いま彼の指を動かしている力だった。

四つの光点は、通路の奥の角を曲がって消えた。

残されたのは、煤(すす)の匂いと、湿った石と、レン自身の荒い息だけだった。彼は手帳の頁を閉じ、胸に押し当てる。指先で、革の角の癖を確かめる。三年間、ずっと同じ位置で巻き上がってきた、その角の感触。

どこかで、石の擦れる音がした。

それは、人の足音ではなかった。

低く、規則的でなく、けれど何かを計っているような擦れ方。爪のような、あるいは関節のような、硬いものが石を撫でる音。間隔が一定ではない——三拍の沈黙の後に、二拍続けて鳴り、また長い沈黙が来る。試している、と直感した。何かが、こちらの反応を試している。レンは唾を飲み込み、自分の松明の柄を、両手で握り直した。掌の汗で、木の柄が滑る。握り直すたびに、指の節がきしむ音が、自分の耳にだけ届いた。

レンはゆっくりと顔を上げ、自分の松明の炎(ほのお)が壁に投げる影の輪郭を睨んだ。影の端で、何か小さなものが、微かに、鼓動するように震えている。炎の揺らぎではない。炎は風がなければ揺れない。そして今、この空洞には、風はない。

彼は一歩、そちらへ踏み出した。

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