第3話
第3話
石室の蝋燭が低く爆ぜ、捕虜の瞼が痙攣した。
霧七は革手袋の指先で、男の砕けた顎の輪郭を一度だけ撫でた。骨の欠片が皮膚の下を移動する感触が、指腹へ鈍く伝わる。男は呻いた。低く、長く、湿った声が藁の匂いに溶ける。
「目が覚めたな」
霧七は声を低く保った。叔父の短剣を石卓の縁に置き直し、刃の腹を蝋燭の炎へ向ける。銀の三日月が朱に染まり、紋章の溝に光が溜まった。男の眼がそれを捉え、瞳孔がわずかに広がる。
「これを、誰から預かった」
男の口が開きかけ、閉じた。砕けた顎では、明瞭な発話は望めない。霧七は懐から薄い羊皮紙と炭の小片を取り出し、卓の角へ置いた。
「字は書けるか。利き手は無事だ」
男の右手が藁の上で震え、握りこぶしが解ける。指は五本とも揃っていた。霧七は炭の片端を男の掌へ握らせ、紙を顎の下へ滑り込ませた。蝋燭の灯りが角度を変え、男の顔の半分だけを赤く照らす。残り半分は、石壁の影に沈んだ。
「答えれば、夜明けまでには医者に診せる。答えねば──」
霧七は短剣の刃先を、男の喉仏の脇、頸動脈の浅い窪みへ滑らせた。刃は皮膚を切らない。だが、皮膚は冷たさだけで震える。
「お前は、自分の喉が三秒で開く感触を知ることになる」
男の唇から、薄い湯気が一筋立ち昇った。その湯気は、蝋燭の明かりに晒されて一瞬だけ金色に染まり、すぐに石室の冷気の中へ散った。男の瞳の奥で、恐怖と計算がせめぎ合っている。霧七はそれを眺めながら、呼吸をひとつ落とした。急くな、と自分に言い聞かせる。急けば、男は嘘を吐く。嘘を吐かれれば、北方砦の夜明けはただの時刻の推移に戻る。
炭の先が紙の上で震え、最初の文字は判読できぬ線で終わった。霧七は紙を取り替え、男の手首を石卓の上で安定させてやる。骨折した足首を引きずらせぬよう、男の背を壁へもたせかけた。背骨が石に触れる鈍い音がし、男はもう一度呻いた。
「ガ──」
男の喉から漏れた音は、それで止まった。霧七は短剣の柄頭を、男の砕けた顎の脇へ静かに当てた。痛覚は思考を加速させる。男の右手が紙の上を走った。
『ガルネス様の使いではない。男爵家とは別口の口入れだ。短剣は、報酬の前金として渡された。誰の差金かは知らされておらぬ』
霧七は炭の文字を読み、紙を裏返す。男の眼が一瞬、安堵に揺れた。だが、霧七はその安堵を許さない。
「では、お前たちの仕事は何だ。砦を焼くことか、特定の人間を殺すことか」
男の指がまた動いた。
『砦を焼く。倉の薪と、小麦を。武器庫には触るなと言われた』
「武器庫には──触るな、と」
霧七の眉が、はじめて動いた。砦を襲う者が、砦の武器に手をつけぬ理由など、ひとつしかない。心臓の拍動が、耳の裏で一段深くなる。薪と小麦を焼かせておいて、武器だけを温存させる──それは、破壊ではなく選別だ。誰かが、この砦の刃の行方を、焼失という混乱の陰で書き換えようとしている。
「武器を、別に運ぶ算段があるからか」
男の指が止まった。視線が泳ぎ、藁の上を逃げ場を求めるように這う。霧七は短剣の腹を、男の頬骨の下へ平らに当てた。冷気が皮膚を貼り付けた。刃の重みが、男の頬骨をわずかに押し下げる。男の喉から、細く途切れた息が漏れた。その息は、もはや恐怖のためだけではなかった。口を割る覚悟と、割ったあとの自分の身の終わりとを、同時に計る男の息だった。
『……知らぬ。だが、頭目が酒の席で口を滑らせた。春までに、東のヴァレンへ。麦の俵に紛らせて、三百本だと』
霧七の指が、紙の縁を強く握った。炭の粉が指の腹を黒く汚し、羊皮紙の縁が爪の下で折れた。三百本。その数字が、石室の空気の密度を変えた気がした。
ヴァレン辺境伯領。北東の小領、宰相派の縁戚が治める土地。麦の俵に、三百本の刃。
「誰が、誰へ運ぶ」
『運ぶのはヴァレンの隊商。受け取るのは──南の、反乱軍』
蝋燭の芯が一度、大きく爆ぜた。石室の影が壁を駆け、男の顔の半分が闇へ沈んだ。霧七は紙の上の文字を、もう一度なぞった。炭の粉が指の腹に黒く付着する。指先の冷たさが、いつのまにか消えている。代わりに、胸の奥の深い場所で、鈍く熱い塊がゆっくりと回転し始めていた。
南の反乱軍。三年前、王都南方で蜂起し、王国軍に鎮圧されかけて辺境の山岳地帯へ逃れた残党。表向きは、消滅扱い。だが、宰相派は彼らを生かしておくことで、王の病が深まるたび「反乱再燃の脅威」を演出し、軍権の集約を進めてきた──そう、父が生前、夜の書斎で囁いた声があった。蝋燭の芯を鋏で切る音と共に、父は霧七に言った。「覚えておけ、七。王国の秤は、重りを乗せる者ではなく、皿の下に指を忍ばせる者が傾ける」と。
「春までに、三百本」
霧七は呟いた。男はもう、答えなかった。指が紙の上で力を失い、炭が藁の上に転がる。霧七は紙を懐へ収め、男の喉から短剣を引いた。男の胸が、二度、激しく上下した。
霧七は石卓の縁へ腰を下ろした。蝋燭の油が指の関節へ落ち、皮膚の上で固まり始める。熱が、遠い。
三年前、父レオン・フォン・エルマーが処刑台に上った理由を、霧七はずっと「家中の派閥争いに巻き込まれた」と聞かされてきた。宰相派が伯爵家の領地を欲しがり、口実を作って首を落とした──それが、家令ヨーランから最後に聞かされた「事の顛末」だった。
だが、違ったのだ。
父は、嗅ぎつけていた。
宰相派が反乱軍を生かし、武器を流し、王国の南北を緊張させ、軍権を握り続ける構図を。北方の諜報網を持つ父だからこそ、ヴァレン領を経由する武器の流れを察知できた。だから、消された。家中の派閥争いではない。王国の屋台骨を揺さぶる長期計画の、最初の障害物として。
──父の処刑は、序章だった。
霧七の喉の奥で、鉄の味が広がった。三年間、舌の裏に飼ってきた塊が、急に重さを増した気がした。叔父ガルネスの嘲笑も、ヴァレン辺境伯の「犬死に」発言も、ただの陞爵欲や領地欲ではない。彼らは、宰相派の長期計画の末端に組み込まれた歯車で、父を笑うことが彼らの忠誠の証だった。父の処刑の日、群衆の後ろで扇を揺らしていた叔父の白い手。あの手は、叔父自身の欲のために動いていたのではない。もっと高い場所から垂らされた糸に、軽く指を絡めて踊っていただけだ。
つまり──父を殺した者たちは、まだ仕事の途中なのだ。
霧七は石卓の上の短剣を見下ろした。三日月と鴉の嘴。叔父の家紋。これは「お前の存在を知っている」という私的な嘲笑であると同時に、その背後の宰相派全体の網が、北方砦の七番札にまで触手を伸ばし始めた合図でもあった。刃に溜まった蝋燭の朱が、ゆっくりと冷え、紋章の溝に暗い血のような筋を残していた。
彼は立ち上がった。膝の関節が軋む。長く座っていたわけではないのに、全身の重みが倍になったように感じた。男の喘鳴が藁の上で続いている。霧七はもう一度、男の頬の脇に短剣を当て、低く尋ねた。
「ヴァレンの隊商を率いる男の名は」
男の指が、最後の力で紙へ伸びた。震える炭の先が、四文字を書いて止まった。
『ベルク──』
そこで男の手が落ちた。意識が再び闇へ沈む。霧七は紙を取り上げ、その四文字を凝視した。ベルク。聞き覚えのある名だった。父の書斎の、革表紙の名簿の中に──幼い霧七が一度だけ覗き見た、商人の頁の中に、確かにあった字面。父の指が頁を繰るとき、その名の上で一度だけ止まり、すぐに先へ進んだ。止まった瞬間の父の横顔を、霧七は覚えている。眉は動かず、ただ瞳の奥だけが、蝋燭の炎を吸い込むように暗くなった。子供の眼に映ったその暗さの意味を、いま、十七の霧七はようやく読み解けた気がした。
蝋燭が低く揺らぎ、石壁の影が動いた。
霧七は石室を出た。閂を下ろす音が、夜明け前の砦の廊下に長く響いた。指の関節に固まった蝋を、もう片方の指で掻き落としながら、彼は副官ヘルマの執務室へは向かわず、まっすぐ砦の北通用口へ歩いた。
外は、雪が止んでいた。
東の空が、ごく薄く、灰色に染まり始めている。夜明けまで、半刻。霧七は外套も着ずに通用口の階段を降り、雪面に立った。冷気が、汗で湿った襟首を一気に凍らせる。肺に吸い込んだ空気が、胸の奥の熱い塊に触れ、白く長い息となって唇から流れ出た。
砦の門番が、彼の眼の何かを察したのか、声を掛けずに首だけを下げた。
──父の網に、触らねばならない。
そのとき、視界の隅、砦から二町ほど離れた雪原の起伏の上に、ひとつの黒い影が立っているのが見えた。外套を深く被った老人の背格好だった。雪明かりの中、影は微動だにせず、ただ霧七の立つ通用口の方角を、見ていた。
霧七の指が、懐の封書の上で止まる。
──旧家紋の半片を、合図とせよ。
老人の影が、ゆっくりと、雪の上で頭を下げた。