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夜霧の頭目――断罪は情報で

第2話 第2話

第2話

第2話

砦の鐘が三度続けて鳴ったとき、霧七の革靴は既に雪面を蹴り終えていた。

 一度鳴りは通常の時刻合図、二度は警戒、三度は──襲撃。石段を駆け上がる脚の筋が、三年ぶりに本気で熱を持った。外套の裾が重く雪を含み、膝の裏へ鈍く叩きつける。息を吸えば胸の奥まで氷の刃が差し入り、吐けば口の端に霜が張った。

「東塔、火だ!」

 物見の叫びが闇を貫いた。霧七が見上げると、砦の東側、薪置き場の方角から赤い舌が壁を舐めている。火矢だ。風は北西、炎は壁伝いに倉庫へ伸びる。霧七は刹那、倉庫の東隅に置かれた油樽の数を脳裏で数えた。四樽。壁との距離、二間。延焼までは、早ければ百を数える間。

「七番! 西門を見てこい!」

 副官ヘルマの怒声が中庭から飛ぶ。霧七は頷きもせず踵を返した。声で答えれば一息分、仕事が遅れる。走りながら短剣を鞘から抜き、左手で外套の結び紐を解く。重い布は走行の邪魔だ。雪面に外套を投げ捨てた瞬間、首筋を突き抜ける寒気が皮膚の下で痛覚へ変わった。

 西門は、既に開いていた。

 内側から、ではない。

 閂が外から断たれている。油脂を塗った刃物で、蝶番の金具を焼き切ったのだ。黒い煤が石畳に散り、赤熱した金具の残骸が雪に突き刺さって湯気を上げていた。霧七の背筋を、氷の指が撫でた。これは野盗ではない。手口が、工作員のそれだ。

 西門の影から、人影が二つ音もなく躍り出た。黒衣、顔布、眼だけが雪明かりに光っている。刃渡り一尺二寸の短剣。構えは低く、膝を深く折り、左手で柄の後端を支える──北方ではなく、南方の流派。王都南区の裏路地で飼われる型だ。霧七は認識より先に体が動いた。

 一人目の突きを半歩引いて躱し、相手の手首の腱へ自分の刃を浅く走らせる。血の筋より先に、腱の断たれる乾いた音が聞こえた。刺客の短剣が雪へ落ちる。二人目が低い姿勢のまま飛び込んできた。霧七は崩れる一人目の体を盾に使い、二人目の刃先が届かぬ位置へ身を回した。刺客の刃は、味方の脇腹へ深々と吸い込まれる。

「──味方を、斬らせたか」

 二人目の眼が初めて揺れた。霧七は踏み込み、柄頭で相手の顎を下から突き上げる。骨の砕ける鈍い感触が握りへ伝わり、刺客は白目を剥いて雪に沈んだ。飛沫となった血が、霧七の頬に斑点を描き、冷えるより先に皮膚へ凍りついた。

 中庭から剣戟の音。ヘルマと古株のオーレンが三人目、四人目を相手取っている。オーレンの髭に血が飛び、黒パンを齧る時と同じ淀みの無さで、彼は敵の脇腹を斬り下げていた。

「七、東壁! 縄だ!」

 オーレンの怒声に、霧七は石段を三つ飛ばしで駆け上がる。矢狭間から身を乗り出すと、垂らされた二本の縄に黒衣がぶら下がっていた。霧七は縄の根元──壁上の鉤爪が食い込んだ石の継ぎ目──を刃で弾いた。鉤が外れる。二人の体が、八尺の高さから雪面へ真っ逆さまに落ちていく。雪は厚いが、下は凍土だ。骨の砕ける音が、二つ続けて夜気を刺した。

 炎は倉庫の外壁を這い上がっていた。オーレンが鍬で雪を掬い、火元へ叩き込む。若い工作員が二人、水桶を抱えて走る。霧七は倉庫の油樽を外へ転がし出した。濡れた樽の側面が、火明かりの中で金色に光る。

 半刻。それだけの間で、襲撃は終わった。

 刺客、計七人。うち五人が死に、二人が重傷で捕らえられた。砦側の死者は無し。負傷者、軽傷三名。オーレンの左耳は半分削げていたが、彼は耳の残骸を自分の手で拾い上げ、「縫い合わせれば元通りだ」と笑った。血が髭を伝って、齧りかけの黒パンを赤く染めていた。

 死体は中庭の隅、焚き火の脇に並べられた。五体。雪に横たわる黒衣は、焔の明かりに赤く照らされ、死者の顔布がわずかに揺れている。風が通るたび、布の端が唇に張り付いたり離れたりを繰り返し、まるで死人がまだ何かを呟いているようにも見えた。霧七は一体ずつ、布を外していった。指先は凍え、糸の結び目が上手く解けない。焦る手つきを自分で戒め、息を一つ吐いてから、ゆっくりと布をずらした。

 見知った顔は無い。だが、見知った匂いはあった。

 王都南区の路地裏、安宿、そこで使われる獣脂の灯りの匂い。黒衣の袖口には、その脂の焦げた斑点がある。訓練所の匂いだ。正規の諜報部ではない。──私設の、金で工作員を育てる宰相派の裏工房の匂いである。

 霧七は三体目の懐を探った。紙片、硬貨、麻縄、毒針──定型の装備が並ぶ。四体目も同様。五体目の内懐、胸当ての裏側に、奇妙な重みがあった。

 引き抜いたのは、短剣だった。

 刺客が帯びる三本の実戦刃のほかに、もう一本。鞘は黒革、柄頭に銀の装飾。霧七は鞘から刃を半分だけ抜き、鍔元を焚き火の明かりへ傾けた。

 指が、止まった。

 鍔元の金具に、家紋が刻まれていた。

 楔形の盾、中央に三日月、その上に鴉の嘴。

 ──ガルネス男爵家。

 母方の叔父、父を「犬死に」と嗤った男の家紋だった。

 霧七は鍔をもう一度傾け、彫りの溝を指先で辿った。刻みは浅く、古い。急造ではない。紋章院の登録印もついている。正式な家臣へ配される記念の刃──男爵家でも数本しか作られぬ、当主の近侍か、腹心の騎士にのみ渡される類のものだ。銀の細工は職人の息遣いまで残しているような繊細さで、焚き火の揺らぎを受け、三日月がわずかに欠けたり満ちたりするように瞬いた。

 それが、刺客の懐に。

 胃の底から、熱の指が這い上がった。喉の奥で、鉄のような味が広がる。己の血ではない。三年間、舌の裏へ押し込めてきた憎悪が、発酵して酸味を帯びたのだ。

 刺客は、口封じに放たれた。だが、懐にこの短剣を忍ばせてきた。ということは──叔父は、これを見せつける気だった。殺した相手に、誰が殺したかを教えるための刃。死ねば刺客の懐ごと雪に埋もれ、生き延びれば、この紋章を見ることになる。どちらに転んでも、叔父は霧七へ「知っているぞ」と囁きたかったのだ。

 ──存在を、知られている。

 三年間、番号で生きてきた。七番札、名は無く、墓も無く、砦の壁の傷ひとつがすべて。その匿名の膜が、叔父の嗤いによって、今、破られた。

 霧七は短剣を鞘へ戻し、掌の中で握り締めた。柄頭の銀の装飾が、指の関節を冷たく押す。三年前、父の葬送の夜、叔父は同じ紋を入れた扇を手に「犬死に」と吐いた。扇の骨が軋む音。銀杯の縁に落ちた笑いの欠片。蝋燭の芯が爆ぜて、蜜蝋の甘い匂いと、叔父の口から漏れる葡萄酒の酸っぱさが、同時に鼻腔を刺したのを、霧七はまだ覚えている。あの時と同じ冷たさが、いま、霧七の掌にある。

 爪が、掌の皮を裂いた。血は出ない。凍えて出ない。代わりに、皮膚の下で何かが静かに硬くなっていく感覚だけが、指の腹に残った。

 焚き火の向こうで、オーレンが捕虜二人の縄を締め直している。生き残った二人は意識を失っているが、呼吸はある。一人は顎が砕け、一人は足首があり得ぬ角度に曲がっていた。だが、舌を噛む力は残るだろう。尋問は、夜明け前に始めねばならない。

 ヘルマが近づいてきた。

「七番、砦長へ報告に上がる。お前も同席しろ」

 霧七は短剣を懐へ押し込み、声を低く落とした。

「副官。この件、砦の外へ報告が上がる前に、一晩、時間をください」

 ヘルマの眉が寄る。霧七は短剣の鍔だけを、ほんの一瞬、懐から覗かせた。ヘルマの眼が紋章を捉え、凍る。北方砦の副官は王国貴族紋の九割を暗記している男である。楔と三日月と鴉の嘴──それが何を意味するか、一拍の後に理解が彼の顔へ落ちた。息が、白い塊となって彼の口から二度、続けざまに吐き出された。

「……一晩だ。夜明けに、本官は全てを上へ通す」

「充分です」

 捕虜は地下の石室へ運ばれた。霧七は一人、扉を閉め、内側から閂を下ろした。壁の燭台に火を移すと、石の天井が赤く照らされ、二人の影が床に長く伸びる。湿った石の匂い、古い血の滲みた藁の匂い、そして、自分の外套に染み込んだ焚き火の煤の匂いが、狭い空気の中で混ざり合っていた。霧七は懐から短剣を取り出し、石の卓の上に置いた。金具の紋章が、蝋燭の炎を受けて浅く光る。

 三年間、胃の底で飼ってきた塊が、ゆっくりと喉元へ上がってきている。

 彼は腰の剣を鞘ごと抜き、卓の端に並べた。剣ではなく、情報で──父の夜の炉端の声が、石壁の中で再び聞こえた気がした。霧七は顎を砕かれた捕虜の前で膝を折る。男の瞼がわずかに震え、意識が戻りつつあった。

 石室の扉の向こうで、雪は降り続いている。砦の壁に、新しい傷がひとつ、刻まれようとしていた。今度は己のではなく、相手の番号に。

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