第3話
第3話
『——アルテミス・オンライン、全プレイヤーへ。運営より、重大な通知を行います』 声は、人の声ではなかった。合成の滑らかさの底に、金属を指で擦るような、わざと残した不快な摩擦が混ぜてある。耳骨の奥を直接叩かれる感触。動けない。動かせない、のほうが近い。 『これより、本ゲームは、仕様変更の下で運営されます。ひとつ、ログアウト機能を停止します。ふたつ、ナーヴギアの強制取り外し、および五分以上の電源遮断は、プレイヤー本体の生命活動を停止させます。みっつ、本ゲーム内で、プレイヤーのヒットポイントが零に達した場合、プレイヤー本体の生命活動もまた、停止します』 機械が、「みっつ」の言い方だけ、人間のように間を置いた。 『クリア条件は、最上層の攻略のみ。期限は定めません。逃亡と拒否は許されますが、結果は同一です。——ご健闘を、お祈りします』 ぷつ、と糸が切れるように、声が止まる。 廃坑の暗闇に、俺の呼吸だけが戻ってくる。一、二、三。今の三秒で、音声の全文を三回、頭の中で再生した。ひとつ、ログアウト停止。ふたつ、ギア遮断で死亡。みっつ、HP零で死亡。——冗談、ではない。声の合成に、冗談のクセがない。 メニューを開く。ログアウトのアイコンがあった場所に、灰色の四角だけが浮いている。押しても、反応がない。代わりに『※当該機能は現在ご利用いただけません』の文言が、ぽつんと浮く。ぽつん、という出方が、妙に丁寧で、それが一番気味が悪い。指で何度か叩く。灰色の四角は、押されるたびに、ほんの僅かに沈み込む動きだけは返してくる。アイコンとしての仕事は、ちゃんとしている。ただ、その先にあるはずの動作だけが、まるごと削除されている。触れる、沈む、戻る。その三段の、真ん中に空いた穴の深さを、指先が勝手に測っている。 舌の奥に、鉄の味が戻ってくる。VRの再現、ではなく、たぶん俺が頬の内側を噛んだ血の味だ。
松明のない階段を、俺は登っていく。息を乱さない。乱すと、考えることを忘れる。 地上の広場に戻ると、空気の温度が、下に降りる前より二度ほど下がっていた。いや、下がっていない。俺の知覚が、そう拾っているだけだ。 広場は、地獄だった。 「嘘だろ、嘘だろ嘘だろ嘘だろ嘘だろ」 女のプレイヤーが、井戸の縁に額を押しつけて、同じ三文字を壊れた水道のように吐き続けている。額を押しつけている井戸の石が、彼女の汗で、三日月の形に黒く濡れていく。隣にいた別の女が、背中に手を伸ばしかけて、自分の指先が震えているのに気づいて、その手を引っ込めた。誰も、誰にも、触れない。触れると、自分まで崩れるのが、全員に分かっている。 「メニュー、メニューが——誰か、誰か俺のメニュー押してくんね?押してくんね!?」 初心者装備の男が、他人の袖を引きながら歩き回っている。袖を引かれたほうも、もう自分の手のひらしか見ていない。 広場の噴水の前で、一組のカップルらしきペアが、抱き合ったまま動かない。泣いているのは、女のほうだけだ。男のほうは、目を見開いたまま、瞬きをしていない。瞬きは意識的に止められないから、たぶん、あれはもう、意識が半分落ちている。女の指が、男の背中の布を、指の関節が白くなるほど握りしめている。それでも、男の身体の芯は、返事を返していない。 全体チャットが、濁流になっていた。 【初心者F】ガチじゃん運営マジふざけんな 【初心者L】母さんにLINEしたい電源切ってくれって頼みたい 【プレイヤー2011】ギア外しても死ぬって嘘だろ?検証した奴いる? 【プレイヤー2012】検証するな馬鹿、検証=自殺だぞ 【プレイヤー3044】ニュース、ニュースは!?家族気付いてる!? 【プレイヤー0847】妹が受験生なんだよ頼むから誰か実家の固定電話鳴らしてくれ 【プレイヤー1205】SNS全部落ちてるっぽい検索も通らない外の情報が一切入ってこない 文字の流れが、早すぎて、目で追うのをやめる。左上、フレンド表示の横に、見たことのないアイコンが一つ、増えていた。赤い、小さな十字。カーソルを合わせると、『ステータス:生存中』と出る。つまり、ここから、『生存中』の表示を『死亡』に書き換える運用が始まる、ということだ。 運営は、殺す準備を、ちゃんと整えてから発表した。 俺は、広場の隅の石段に腰を下ろした。座って、思考を整理する余裕が要る。恐怖の処理は、二段階でいい。一段目、数える。息を、一、二、三。吐く、一、二、三、四。二段目、事実を並べる。ログアウト不可。HP零で死ぬ。攻略クリアで生還。期限、なし。プレイヤー総数、推定一万二千。初日ランカー、推定二十人。前作ランカー、推定五人。俺を含む。 事実の上に、判断を乗せる。 この仕様は、PvEゲームのルールではない。 PvPゲームのルールだ。
アビスの最後の一撃を、壁に叩きつけられて受けた。HP残量は、あのとき一割だった。もし、あと一発、あの爪が俺に届いていたら、この石段には、俺はもう座っていない。——現実の部屋のベッドで、両親が俺の名を呼びながら、たぶん、もう呼んでも返事をしない俺を揺さぶっている。その画面を、今、想像する。胸の奥、鎖骨の裏あたりが、ぎゅ、と握られるように痛む。 痛みが来たなら、処理できる。 俺は、目を閉じる。 瞼の裏で、ここ二年、前作『バベル・ロア』で積んできた景色が、一枚ずつめくられていく。 夜明け四時の、誰もいないサーバーで、同じ敵に二百回挑んだ感覚。カウンターの入力が〇.〇二秒遅れるだけで、一発で死ぬPvPの試合。ビルドを十七回組み替えて、十六回までは全部外して、十七回目にやっと手首が馴染んだ瞬間。飯を食い損ね、風呂を飛ばし、外の光を三日見ないで画面に齧りついた、あの匂いのこもった部屋。キーボードの、W、A、S、Dの四つのキーだけが、他より僅かに陥没していた指の痕。マウスの側面ボタンの、塗装が剥げて銀色が覗いた二つの傷。モニターの右下隅だけ、汗で曇って拭いた跡が輪になって、いつの間にか消えなくなっていた、あの小さな楕円。それらの全部が、瞼の裏で、まだ生きている。 廃人、と家族に呼ばれた。 無駄、と友人に切られた。 全部、そうだった。今日、この瞬間までは。 ひとつ、気づいたことがある。 「廃人経験値」と自分で呼んでいた時間は、今日、名前を変えた。 ——生存スキル。 HP零が現実の死になった世界では、先にHPを零にする側が、生き残る。対人を、二年間、誰よりもやり込んできた。敵のモーションを、踏み込みの速さで読む癖がある。ビルドの穴を、一秒で三箇所数えられる癖がある。逃げる敵の背中を、見逃さない癖がある。それは、遊びの癖だと自分で笑っていた。 笑い事ではなくなった。ただ、それだけのことだ。 目を開ける。広場は、まだ地獄のままだ。噴水の前の女は、まだ泣いている。袖を引く男は、まだ他人の手のひらを覗き込んでいる。チャットの濁流は、速度を落とさない。 俺は、立ち上がった。膝はもう笑っていない。石段の冷たさが、尻を通して、脚の裏側にまだ残っている。立った瞬間、その冷たさが、背中を撫でて風に変わる。代わりに、腰の短剣の重みが、身体の中心線に、すっと戻ってきた。 背中の、血の味のする口の中を、一度、唾で流し込む。 短剣の柄を、指で確かめる。革紐が、まだ湿っている。右手の感覚、異常なし。左手、異常なし。三半規管、戻った。≪カウンター・エッジ≫のクールタイム、あと一分十二秒。≪影縫い≫、あと四十八秒。 条件は、整っている。
視界の端、ミニマップ。アルカーン東門を出て、街道を南東へ約四百メートル。非戦闘区域の境界線を越えた先に、灰色でハッチングされた扇形のエリアがある。開発資料では、βの時点から『自由戦闘区・サンド・ホロウ』と呼ばれていた場所だ。今日、深夜零時の段階で、運営はそこへの侵入制限を解いていた。 つまり、いちばん近いPvPエリアは、そこだ。 俺は、歩き出した。 噴水の前の女が、顔を上げる。袖を引いていた男が、俺の足音で、自分の手のひらから顔を上げる。石段の近くで震えていたローブ姿の子どもが、唇を開けて、何か言おうとする。 声をかけられる前に、俺は通り過ぎる。 すれ違いざま、誰かの視線が、俺の背中の短剣の革紐に、一瞬、留まった気がした。 ——最強になる方法は、単純だ。 ——最強を、殺し続ければいい。 俺の、連勝記録『1』が書き込まれる場所は、もう廃坑ではない。 東門の外で、サンド・ホロウから吹き上がる乾いた風が、頬の傷の血を、わずかに冷やした。