第2話
第2話
アビスが、動いた。 腕四本、それぞれが独立して空気を掴む。右上腕が石柱を抱え込んで引き剥がし、左下腕の爪が床を抉りながらこちらへ疾走する。重量級の見た目、速度も重量級——の、はずだったが、床を踏みしめる音の間隔が、想定より〇.四秒早い。 「読み、外れた」 呟きながら、俺は右へ跳ぶ。 石柱が俺の頭上を薙ぎ、一瞬遅れて後方の壁に激突する。粉塵が舞う。鼻孔に石灰の粉が流れ込み、喉の奥が乾く。VRの埃描写まで本物だ。笑えるほどに。歯茎の裏側にまで、ざらついた粒子が貼りつく感触がある。前作の砂漠ステージで覚えた、あの不快感と同じだ。技術屋の悪趣味が、こういうところに出る。 跳ぶ、転がる、低姿勢で柱の影へ潜り込む。四本腕の射程を円で図解するなら、右上腕が最長、左下腕が最短、左上腕は突き、右下腕は振り下ろし。六つの目のうち、額の二つが主に動体を追っている。残り四つは——ダミーか、それとも二重焦点か。瞳孔の収縮タイミングが、二つだけ他とずれている。たぶん、こいつらが本命だ。 三十秒で二パターン。三パターン目は、たぶん目の役割分担。 レベル差三十三。正攻法はない。正攻法を探している時点で、死んでいる。
≪観察眼:Ⅰ≫——未検証タグの新スキルが、視界右下で薄く光っている。試しに意識を集中する。眼球の奥が、ぴりっと熱を帯びる。脳の奥に直接触れられているような、不快な侵襲感。アビスの右上腕、その付け根、鎧のない関節部。赤い点が、ぽつりと浮かんだ。 「……弱点ハイライト、か」 口の中で笑いがこぼれる。廃人にご褒美をくれる運営、嫌いじゃない。 だが、そこへ届く距離に踏み込めば、右上腕の初撃で俺は塵だ。 なら、届かせる。相手の方から。 柱の陰から、わざと半身を晒す。アビスの四つの瞳が、同時にこちらを捉える。瞳の奥で、緑色の光点が一拍だけ収束する。ロックオンの兆候。右上腕が、引き絞られる。来る。 「≪影縫い≫」 発動。短剣の影が延び、アビスの右足首に絡む。動きは止まらない。止める必要はない。速度を〇.三秒だけ遅らせる。俺の体感時間で三十秒に等しい、〇.三秒。 右上腕の拳が、俺がいた場所を薙ぎ抜ける。風圧が頬の産毛を逆立てる。俺はすでに、腕の内側へ回り込んでいる。鎧のない関節部、赤い点。短剣の切っ先を、そこへ。手首の角度、刃の入射、肉の繊維に逆らわない一線——前作で何百回も繰り返した動作が、神経の側で勝手に再生される。 HPバーが、二割削れる。 アビスが咆哮する。鼓膜が、物理的に揺れる。VRの安全閾値ぎりぎりの音量——いや、たぶん、超えている。運営は隠しボスに限って制限を解いている。三半規管が一瞬迷子になり、足元の床が斜めにせり上がってくるように見える。それでも、倒れない。倒れたら死ぬ、と身体のほうが先に知っている。 そのまま押し切れるほど、俺もアビスも甘くない。左下腕が振り戻され、俺の脇腹を掠める。HP、三割消失。革鎧の装甲判定が、一撃で剥がれた。皮膚の上を、熱い線が一本、走る。痛覚換算は確か五段階の三、安全マージン内。だが、三でこれか。四を食らったら、たぶん意識が飛ぶ。 「——っ」 息を呑む。呑んでから、吐く。 恐怖は、数えたほうが扱いやすい。一、二、三。三秒で、処理する。指先の震えが、二秒目で止まる。三秒目で、視野が広がる。これは前作からの儀式だ。何度も死んだ末に身につけた、唯一まともな対処法。 柱の根元の亀裂。天井の錆びた鉄骨。奥壁の裂け目。踏み込む前に数えた地形を、今、使う。 亀裂のある柱の手前まで後退する。アビスを誘う。四本腕が、俺を潰しに石柱ごとかかってくる。期待通り。アビスの重量が、柱の亀裂に乗る。俺はその足元を潜り抜け、逆側へ。腹這いに近い姿勢で、爪の振り下ろしの真下を抜ける。鼻先を、爪先がかすめた。距離、五センチ。 石柱が、軋む。 軋みの音を聞き分けて、二拍待つ。早すぎても遅すぎても、反射スキルは空を切る。心臓の鼓動と、柱の悲鳴を、同じ拍に重ねる。崩れる瞬間に≪カウンター・エッジ≫を開放する。柱の倒壊をトリガーに、反射スキルがアビスの側頭部へ叩き込まれる。六つの瞳の、右側三つが、同時に潰れる。 視界、半減。 アビスの腕の軌道が、明らかに荒くなる。視覚依存型——三パターン目、確定。 「読めた」
ここからは、流れ作業だ。 視界の潰れた右側から回り込む。左上腕の突き、身体を捻って避ける。右下腕の振り下ろし、≪影縫い≫のクールタイム残り二秒、間に合わない——なら、短剣の腹で受け流す。腕の重さが、刃を介して肩関節に直接届く。受け流した腕の内側、また関節部、赤い点。切り裂く。 HPバー、五割。 アビスが、後退する。後退、だと。 こいつ、逃げ方を知っている。知性判定がある。 逃がさない。 奥壁の裂け目。そこに向かう動線を、俺は先回りする。≪指輪・音無≫で足音判定は二割減、俺の位置をアビスは完全には掴めない。視覚が潰れた状態では、聴覚と気配に頼るしかない。そこを、俺の装備が塞いでいる。 裂け目の手前で、アビスが止まる。迷っている。残った三つの瞳が、虚空を舐めるように左右へ振れる。視覚を失った獣の、原始的な不安。それが、レベル八十のボスから漂ってくる。胸の奥が、わずかに痛む。 一拍。 その一拍で、俺は二撃入れる。 HPバー、三割。 アビスが、ついに四本腕を広げて咆哮する。最終段階、全方位攻撃のモーション。前作の類似種で見た、捨て身の吹き飛ばし。範囲、約八メートル。俺の立ち位置、アビスから六メートル。逃げ切れない。 なら、逃げない。 短剣を逆手に持ち替える。柄の革紐が、汗を吸って指に張りつく。≪カウンター・エッジ≫再使用、クールタイム——残り、ゼロ。ぎりぎり、間に合っている。 アビスの咆哮と、俺のカウンター発動が、同時。 衝撃波が、俺を壁に叩きつける。HP残量、一割。視界が揺れる。吐き気。口の中に血の味——VRでも、これを再現する。背中の骨が、本当に折れたんじゃないかと一瞬疑うほどの衝撃。だが、痛覚カットの白い膜が、〇.五秒遅れて被さってくる。安全装置。これがなかったら、たぶん意識を持っていかれていた。 だが、カウンターで弾き返した衝撃の一部が、アビスの体躯を裂いている。 HPバー、一割。 俺は壁から剥がれ、短剣を握り直す。片膝立ち、呼吸、一、二、三。立つ。膝が笑う。それでも、立つ。 アビスの残った三つの瞳が、初めて明確に俺を「個体」として認識した気がした。ただのプレイヤーではなく、自分を殺す個体として。瞳孔の奥で、何かが諦めるように沈んだ。錯覚かもしれない。だが、確かに見えた。 「悪いな。こっちも、二年前から、ずっとそれで生きてきた」 踏み込む。 短剣を、喉へ。
『禁忌守り『穿孔王アビス』を撃破しました』 『初回単独撃破報酬:称号『穿孔者』獲得』 『レアドロップ:≪真紅鉱・穿穴≫×三、≪禁忌の鍵片≫×一、≪アビスの眼球≫×一』 『サーバー初撃破により、該当素材の独占権が七十二時間発動しました』 通知が、視界の端で連続して弾ける。 俺は、片膝をついたまま、息を整える。真紅鉱、サーバー初出。未実装とされていた素材の独占。七十二時間——これは、PvPの序列を一気に組み替える武器になる。頭の中で、すでに取引相手のリストが動き始めている。職人系トップ三人、装備合成師の常連二人、そして—— 立ち上がろうとした、その瞬間。 視界が、ノイズで揺れた。 一瞬。〇.一秒もない、電子的な歪み。 エラーログではない。HPバーもステータス欄も、何の異常表示も出ていない。ただ、俺の視覚そのものが、歪まされた。映像出力ではなく、もっと奥——脳に届く直前の信号に、誰かが手を入れた。そんな感触。背筋の産毛が、一斉に立ち上がる。 息を、止める。 ダンジョンの空気が、変わった気がした。湿度ではなく、密度。空間そのものが、外側から押し縮められているような違和感。耳鳴りが、左右で違う周波数で鳴っている。これは、ゲーム内の演出ではない。 次の瞬間、全サーバーに響く緊急アナウンス。 『——アルテミス・オンライン、全プレイヤーへ。運営より、重大な通知を行います』 ジジ、と耳の奥で、何かが接続される音がした。