第1話
第1話
──同期、完了。 視界が黒から溶け崩れ、眼球の裏を薄青い走査線が舐めていく。VRMMO『アルテミス・オンライン』、サービスイン、深夜零時ちょうど。残り、三、二、一。 足裏に石畳の冷気が貼りつく。鼻先を焚き火の煙と、湿った苔の匂いが撫でる。舌の奥にごく微かな鉄の味——VR神経直結が上手く乗った合図だ。前作のときより一段深い階層まで感覚が接続されている。頬を撫でる夜風の温度差、背中の薄い汗、指先の冷え。ほぼ、現実と同等。 チュートリアル広場、開始座標「アルカーン東門」。事前解析のとおり、北に初期クエストNPCが三人、南西に採取ポイント、東の武具屋に無料配布の短剣イベント。配置図は先週の時点で頭に入っている。 「うわっ、グラ本物じゃん!」 「おれアバター、髪ピンクにしたかったのに間違えた〜」 「初心者です、よろしくお願いしまーす!」 浮かれた声が左右で弾け、チャット欄には「初心者です」の定型が滝のように流れる。俺は一瞥もしない。 ステータス画面を一瞬だけ展開する。事前に組んだ「Build.v17_final」が正常適用。職業ローグ、DEX全振り、筋力は閾値ぎりぎり、スキル枠は≪カウンター・エッジ≫と≪影縫い≫を先押さえ。適用ログを閉じる。 俺は霧島累。前作VRMMO『バベル・ロア』で全鯖PvPランキング1位を二年連続維持した廃プレイヤーだ。今日から、この新作で同じ、いや、それ以上を取りに来ている。 声に出す。自分のテンションを一段上げるための儀式。 「──このゲーム、誰よりも速く、誰よりも深く、食い尽くす」 モーションを一度跳ね、北へ駆け出した。
踵、指先、膝の捻り。三半規管補正に前作の癖が九割、残り一割で新仕様に馴染ませる。五メートル、十、踏み切る。段差を跳ぶ。着地、ブレなし。足裏を伝う石畳の硬さまで嘘みたいに精密だ。上等。 東門脇の採取ポイントで薬草を三本むしり、武具屋で無料配布の短剣を受け取り、そのまま通路を折り返して北のクエストNPCへ。 「おやおや、若き冒険者よ。東の森で狼を五匹——」 「受領」 発話モーションの最終音節に「受領」を被せる。システムがそれを確定として読む。事前検証済みの時間短縮だ。NPCは続く台詞を空振りしたまま、にこやかに手を振っている。違和感はある。だが、今はいい。 「おい、そんなに急がなくても——」 背後で誰かが叫ぶ。構わない。 東の森、狼五匹。下生えを踏みしめると、葉裏についた夜露が膝下を濡らし、湿った土が踏みしろの分だけ柔らかく沈む。ホロウ・ウルフの個体特性は、前作β試遊会で兄弟種を相手にしている。右前脚から踏み込む、左から噛む、咆哮の前に必ず一拍、喉の筋肉が震える。一匹目、短剣の峰で頭骨を叩き割る。手首にずしりと衝撃が返り、骨が軋む乾いた音が肘まで上ってくる。爪で二度引っかかれる——DEX全振りの革鎧は紙みたいに柔いが、被弾値一桁なら蓄積しない。二匹目、三匹目、同じ位置、同じ角度で出現する初期ポップの定番パターン。先行カウンターで処理。喉笛から噴いた赤い粒子が空気に溶けて消える。四匹目、五匹目。合計、八分。息は、一度も乱していない。 その途中、森の東側から金属音が三度。誰かが、もう対人に入っている。名前までは追わない。どうせ、前作ランカー崩れの誰かだろう。 戻る前に、もう一箇所。 広場の南西、水汲み場の井戸の底。事前解析で拾った「拾得判定がバグ気味にガバい」座標。覗き込むと、運営がイースターエッグで仕込んだらしい指輪が一つ、苔の上で青く光っている。指先が金属の冷えに触れるだけで、所有権が俺に移る。 ≪指輪・音無≫──足音判定を二割減。明らかにPvP用だ。こんなものを、初日零時台に回収する人間はサーバー内で俺以外にいない。だろう。 レベル9到達の瞬間、息を切らして駆け寄ってきた男がいた。 「きっ、霧島さんですよね!?俺、前作から見てて——」 「悪い、急いでる」 「えっ、ちょ、連絡先だけでも——」 手だけ振って、すでに次の街門をくぐっている。前作でもそうだった。合流を急ぐ奴ほど、終盤まで生き残らない。一人で、先に行く。 クエスト報告、受注、消化。東の森→北の川沿い→東門前→南の街道。八つ目を終えた時点で、全体チャットがざわつきはじめた。 【初心者A】え、もうレベル9の人いるんですけど 【初心者B】え? 【初心者C】ランキング、霧島って奴一人だけ突き抜けてない? 返事はしない。チャットを読むのも、今の俺には情報収集の一環だ。PT募集、フレンド申請、「教えてください!」——全部、スルー。合流の対価は、俺の時間だ。俺の時間は、俺が食うために使う。
二十四時間後。 俺は街道の外れに立っていた。 苔むした鉄格子の扉。事前情報で気になっていた、未実装タグ付きの廃坑——通称『アーク・ミネ』。レベル帯は不明。公式発表には一切載っていない。ただ、発売前に公開されたトレーラー映像、全十八分中の0.4秒、背景にこの扉と寸分違わない意匠が写り込んでいた。運営が公式説明から抜いているものは、だいたい、隠しボスが置かれている。前作三回の、経験則だ。 扉に触れる。 《隠しダンジョン『廃坑アーク・ミネ』を発見しました》 《初回発見報酬:称号『先駆者』を獲得しました》 視界の端に黄色い通知が浮く。俺は無言で頷き、扉を押し開けた。錆の軋みが鼓膜の奥に食い込み、鉄の、舌に載せたら苦そうな匂いが鼻腔にまで届く。 三層、五層、七層——地下へ降りる。松明の間隔が広がり、足元の石が湿り気を増していく。水滴、遠くで何かが規則正しく呼吸する音、天井から落ちた水が俺の頬を叩く。冷たい。VRの温度演算が本気を出している。一段降りるごとに、空気の重さが頬骨に圧として乗ってくる。耳が痛むほどの静けさの底で、自分の心拍だけが律儀に脳に届く。九層を過ぎたあたりから、壁の意匠が変わる。古い文字でもない、シンボルでもない、ただ、削られたあとを誰かが念入りに磨いた跡——封印されていた、というより、誰かが「忘れさせたかった」造形だ。指先で表面をなぞる。冷たいのに、奥に微かな熱がある。生きているもの、と俺の脊髄が判定する。 ジジ、とHPバー右下に小さなマーカーが点滅する。≪探知≫反応。脅威度、黄。ここにいる。 階段の底で、空気が変わった。 鉄錆と、生き物の脂と、甘い何か——蜜ではない、もっと粘つく何かの匂い。 広間。天井が高い。石柱の影に、ひと回り大きなシルエットが鎮座している。頭に二本、下向きの角。腕が四本。目が、六つ。ネームプレートの色——紫。レベル表記、〝??〟。 「……おいおい」 口角が勝手に上がる。 サービスイン七十二時間未満で、隠しダンジョンの最深部にソロで到達する奴がいるとは、運営も思っていない。でも、俺は来た。 視界の端、ステータス欄。今朝までなかった項目が一つ、静かに追加されている。 ≪観察眼:Ⅰ(未検証)≫ 何の条件で取ったのかは、あとで考える。今はこいつだ。 短剣を抜く。≪影縫い≫のクールタイムを頭の中で数える。カウンター・エッジは、まだ温存。最初の三十秒で、こいつの行動パターンを二つ以上、読む。 一歩、前に出た。
『禁忌守り『穿孔王アビス』が目を覚ます』 六つの瞳が、一斉にこちらを向いた。 ネームプレートが紫から深紅へ変わり、HP:1/1、ステータスが確定する。 レベル:45。俺、レベル:12。 ふざけた差だ。 それでも、俺は笑った。 最強になる方法は、単純だ。 最強を、殺し続ければいい。 短剣の切っ先を下げ、重心を落とす。石柱の影、天井の配管、奥壁の裂け目——使えるものを、三秒で数える。柱の根元に走る亀裂は荷重をかけたら崩せそうだ。天井の鉄骨は錆びている、≪影縫い≫を当てれば落とせる。奥壁の裂け目の向こうに、わずかな風。逃げ道ではなく、釣り出す方向として使える。 この七十二時間、誰にも見せずに積んできた廃人経験値。 今夜、最初の釣り針を、ここで放つ。 廃坑の奥で、俺の連勝記録『1』が、まだ書き込まれていない空白を、じっと待っていた。