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誓約の観測者

第1話 第1話

第1話

第1話

──ヘッドセットの内側で、耳元の冷却ファンが低く唸った。

視界がロード画面の暗転から解けて、『エターナル・レガシー』のタイトルロゴが粒子となって散る。βテスト最終日、残り六時間四十八分。ログイン直後にポップした運営アナウンスをスワイプで消して、俺は初期装備のままスタート拠点の噴水脇に突っ立った。

他プレイヤーが周囲を駆け抜けていく。エフェクト付きの転移ポータル、全身に火の粉を纏った上位剣士、肩に乗せた精霊がスキル発動ログを撒き散らしている。俺の装備欄は見習いの麻シャツと木製ショートソード。レベル7。βの百五十時間、ほとんど配信タブに張り付いていた報酬がこの数字だ。

端末のサブディスプレイでは、今も「レガタツ」の攻略配信が流れている。ランキング三位、ギルド『終端律』所属、スキル構成を分単位で最適化する廃人。画面下部のコメント欄が『神』『今夜の不死ボス何時から?』『その装備、ドロ率何パー?』で埋まっていく。俺もさっきまで同じ文字列を打ち込んでいた。打ちながら、指先だけは速かった。こういう速さは、誰にも見えない。

キーボードの『j』が、汗で少しだけ沈んでいる感触。

俺は視線をゲーム内のステータスに戻した。称号:なし。所属ギルド:なし。フレンド:0。

「……見てるだけじゃ、誰も俺のこと見ないよな」

独り言は、VRの空気に触れた途端に輪郭が薄くなって消える。誰にも拾われないまま、音の粒子が頬の横を素通りしていくのが、触覚フィードバック越しにうっすら伝わってきた。

噴水の縁に腰を下ろして、配信の音声を耳の奥に流しっぱなしにする。レガタツが今日の立ち回りを淡々と解説していた。推奨ビルドは二週目で既に定着している。火力特化のヴァンガード、耐久のガーディアン、機動のレンジャー。派生は二十七通りあって、実用レベルは六つ。効率周回ルート、ドロップテーブル、湧き時間——全部が数値として目の前を流れていくのに、俺の手の中には何もない。

ランキング百位までの装備欄をまとめたwiki、毎朝通勤前に読み込んでいた。最適解に至るまでの手順は頭に入っている。ダンジョン東ルート、クエスト連鎖の組み方、称号取得の飛ばし方。知識だけはあった。動かしていないだけだ。知ってしまうと、動くのが怖くなる。正解が見えている盤面で一手を外すのは、見えていないまま踏み出すより、ずっと恥ずかしい気がしていた。

ふと、ステータス画面の下端に一行が走る。

『βテスト終了まで、06:42:11』

六時間。 六時間でランキングに追いつけるわけがない。追いつけないのは最初から分かっていた。分かっていたから、俺は配信を見ていた。見ていれば、誰かの成功を自分の延長のように錯覚できる。コメントを打てば、レガタツが一瞬だけ拾ってくれる瞬間がある。それで足りると、昨日までは思っていた。今日になって、足りないと気づいた理由は、自分でもよく分からない。多分、βが終わる、という単純な一行が、俺の逃げ場を一個ずつ削っていったせいだ。

画面の隅で、ギルド勧誘のタブが点滅していた。『終端律』サブ募集、レベル帯指定、条件は既存PT構成に合わせること。俺は親指を乗せて、指先だけで拒否を押した。押した拍子に、噴水の水面に映る自分のアバターと目が合う。デフォルトの顔、デフォルトの髪。名前欄には、一週間悩んで決めた『アレク』の四文字。誰の目にも止まらない名前を、俺は自分で選んでいた。目立たないことで、傷つかずに済むと思っていた。実際には、透明になるほど、自分が薄くなる感覚があっただけだった。

「……観測される側になりたいって、何でこんな歪むんだろうな」

呟きに反応する者は、当然いない。

席を立ち、ワールドマップを開く。東は廃プレイヤーの狩場、北は攻略済みダンジョン、南は最新アップデートの目玉エリア。西——『アシュラン辺境』の領域だけが、等高線の情報しか表示されていなかった。配信勢が素通りする地域だ。ドロップ効率が悪い、ギミックが地味、wiki記事は二行で終わっている。経験値テーブルも他エリアより二割低く、素材アイテムも換金レートが渋い。誰も書き残そうとしない場所。逆に言えば、誰の目も届いていない場所だ。

俺は西へ歩き出した。

拠点の外門を越えると、街道のテクスチャが急に粗くなった。遠景の草原が低解像度のまま固まっていて、敵モブの湧きも薄い。初期装備の麻シャツは耐久がミリミリ削れて、木製ショートソードの刃先には最初から欠けが入っている。それでも、自分の足で踏んだ草の感触だけは妙にはっきりしていた。ブーツの底に、乾いた葉の折れる音が返ってくる。踏むたびに、ぱち、ぱち、と小さな骨が折れるような音がして、その一つ一つが自分のものだと認識できる不思議な感覚があった。

道中で遭遇した狼型モブを三匹、ギリギリで倒した。配信で見た最適ルートなら、タブ切り替え一回で一分もかからない雑魚。俺は四回リポップを挟んで、HPバーを黄色まで削られた。牙が肩口をかすめた瞬間、ヘッドセット越しに振動フィードバックが首筋まで走って、思わず短く息を吐いた。ステップバックのタイミングをミスって、ショートソードの先端で喉を狙う動作も、三匹目でやっと形になった。ポーションを一本飲み干して、唇に触れた仮想の苦味に舌打ちする。

「効率わりぃ……」

口に出して、少しだけ笑えた。笑ったのは何日ぶりだろう、と思った直後、それすら計測している自分が気持ち悪くなって、首を振って打ち消した。

半日かけて歩く距離を、道草しながら二時間。街道が途切れ、舗装の石畳が苔に吸われていく。空の色がログデータの外に出たみたいに淡くなって、風の音に混ざるざわめきだけが妙にクリアになる。VR特有の、環境音の密度が落ちると肌の感覚が前に出てくるアレだ。うなじに触れた風が、少しだけ冷たい。遠くで、名前のつかない鳥が一度だけ鳴いた。wikiには載っていない鳴き声だった。

丘を一つ越えた先に、それはあった。

壊れた円柱。割れた石段。蔦に食われた尖塔。マップ上は無名の建築遺構としてアイコン一つで処理されている、廃神殿。入口の前に立つと、配信のBGMが遠くなって、コメント欄が流れる音が消えた——いや、消えたんじゃない。俺が、サブディスプレイから目を離したのだ。

配信を切った。

タブを一個ずつ閉じていく。攻略wiki、Discordの雑談サーバ、ランキング更新通知、ギルド勧誘DM。最後に『終端律』の配信ウィンドウを閉じた瞬間、指先の熱がふっと落ちる感覚があった。耳の奥に張り付いていたレガタツの声が、ぷつん、と途切れて、代わりに自分の呼吸音が急に大きく聞こえる。吸って、吐いて、それだけのことがこんなに生々しく響くのか、と驚くくらいに。

静かだった。

神殿の入口の奥、暗がりの底で、何かが息をしている気がした。HUDの空気湿度パラメータが、ほんの少しだけ動く。プレイヤー密度:0。推定フィールドランク:未測定。

——観測者の側から、降りる。

俺は初期装備の柄を握り直した。手汗で革巻きが湿っている。親指の付け根が、柄頭の木目を撫でて、その凹凸に指紋が合う位置まで少しだけ握りを下にずらした。この動作は誰にも教わっていない。配信でも見ていない。自分の手が、自分で探した角度だった。

一歩、踏み込んだ。

苔の湿気、鉄の錆びた匂い、そして奥のほうから届く微かな金属の擦過音。誰かが、或いは何かが、この神殿の最深部で誓いの姿勢を崩していない。そう思えた。石床に残る靴底の跡は、苔に埋もれかけていて、年代も主も分からない。けれど確かに、ここを通った誰かがいた。通って、戻ってこなかった誰かが。

HUDの右下に、取得条件非公開のシステム通知が一行、薄く点滅する。

『──この先、汝を観測する者あり。』

息を呑んだ。BGMはもうない。自分の心拍だけが、耳の裏側で走っている。俺は、歩き出した。

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