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化石ランカーの帰還

第1話 第1話

第1話

第1話

肩に食い込むダンボールの角が、ようやく外れた。

倉庫の天井で蛍光灯がジリ、と鳴る。腰に手を当てて伸びをすると、安全靴の中で指がじんわり熱を持っていた。背中に汗、首の後ろに段ボールの繊維、舌の奥に紙の埃の味。この感覚に三年慣れた。

棚の最上段、八時間前に積み上げた段ボールの数を、もう一度頭の中で数える。四十七、四十八、四十九。間違いなく出荷分は揃った。今日も生き延びた。──そういう一日の終え方を、三年してきた。

「神楽坂さん、お疲れっす」

同僚の藤巻が、缶コーヒーを差し出してくる。茶色いラベルの微糖。受け取ると掌が冷えた。

「で、どうすか。今夜、復帰」 「……まだ言うのか」 「これで四回目っす。三振まではセーフだから、今日が初球」

返事の代わりに、指の関節を鳴らした。ぱき、ぱき、と乾いた音。三年前、この指はゲームの中で千の敵を斬った。今は一日中、段ボールしか持っていない。

「『黒鴉』のスキルツリー、まだ実装残ってるらしいっすよ」

藤巻が缶を傾けながら、ふと付け足した。

コーヒーの缶を握る指に、勝手に力が入った。藤巻はそれに気づかない振りをした。──気づいてやってる、というのが正解だろう。

「……そりゃ運営の手抜きだ」 「ですかね。俺は、先輩を待ってんだと思ってますけど」 「やめろ。鳥肌出る」 「出てるじゃないっすか、もう」

藤巻が笑った。俺は笑い返さなかった。それでも、缶の中の微糖を一気に飲み干してから、初めて口を開いた。

「……今夜、家、帰る」 「それで?」 「それで、だけだ」

藤巻はもう、何も言わなかった。タイムカードを押す。打刻音が二十二時十七分を告げた。

帰りの電車、窓ガラスに映る俺の顔は、三年前より三歳ぶん老けて、十歳ぶん覇気を失っていた。眉間の皺、目の下の影、首筋の薄い髭剃り跡。トップランカーだった頃の自分の顔を思い出そうとして、もう輪郭が曖昧なことに気づく。隣の席で女子高生がスマホを横向きに構え、小さな画面の中で誰かが派手な必殺技を撃っていた。聞き覚えのあるエフェクト音。──『アルテミア』。耳の奥で、三年ぶんの何かが、ぴくりと動いた。

ワンルーム、家賃五万二千円、敷布団は三年前から同じ。冷蔵庫の中はペットボトルの麦茶と、賞味期限ぎりぎりの卵が二つ。机の上には経費精算の紙が散らばり、押入れの奥でVRギアの黒い箱が、薄く埃をかぶっている。指先で表面をなぞると、白い線が一本残った。

──まだ、生きてはいたか。

蓋を開ける。ヘッドセット、グローブ、首の後ろに当てるパッド。並べると、三年前と全く同じ配置。皮膚の方が先に位置を覚えていて、ヘッドセットを被ると、頬骨に触れるパッドの感触が、いやに馴染んだ。耳の中で、低い起動音がぽうっと灯る。鼻先で、しまい込まれていた合皮の匂いが、ふっと立ち上がる。

『アルテミア』ログイン画面。アカウント名「クロウ」。三年前のままのアバター。パスワードを打ち込む指が、二度ミスした。三度目で、ようやく決定キーに触れる指の腹が、わずかに湿っていた。

──ログイン。

視界が暗転して、世界が膨れる。

中央広場、噴水、白い敷石。三年前と同じ位置に、同じ女神像が立っていた。だが空気の匂いが違う。前はもっと、湿った石の匂いがしたはずだ。今は香ばしい、焼き菓子のような匂いが鼻先を掠める。──食事システムが追加されたのか。

「うっ」

無意識に声が出た。視点移動の感度が、三年前の俺の設定のまま。視界がぐらりと揺れて、足元の敷石の白さが網膜を刺す。脳が一瞬、追いつかない。胃の底が浮き、現実の額に汗が滲んだ。

それでも、右の人差し指は、メニュー呼び出しのジェスチャーを覚えていた。指が勝手にメニューウィンドウを呼び出す。

ステータス画面。レベル187、最終ログイン1247日前、所持ジル12,409。装備欄は全部、錆びた表示で「旧仕様」の赤いタグがついている。

ハ、と短く息が漏れた。

三年だ。装備も、メタも、たぶん操作の最適解も、全部入れ替わっている。当然だ。

噴水の縁に腰掛けてみる。広場を行き交うプレイヤーたち。装備のシルエットが、知らないものばかりだ。羽が生えた肩当て、半透明のマント、頭上に浮かぶ二重リング──全部、俺が引退した後に追加されたジョブの装備だろう。すれ違う声も知らない単語が混じる。「次の星詠み」「新パッチの裂縫」──意味が掴めない。

知らない世界で、俺だけが古い。

それでも指は覚えている。視線で対象をロックして、左の薬指でクイックスロット三番、人差し指で発動。──昔は瞬きの間にやれた動作。今は頭で考えながら、ゆっくり、なぞる。

なぞれた。

人差し指の腹で、空中に短い円を描く。ホットバー切り替え。次に親指の付け根を擦る。視界拡張。一つ一つが、まだ正確に呼び出せた。

口の端が、勝手に持ち上がった。鈍ったとはいえ、体は覚えている。三年前の感覚が、指先の奥のほうに、まだ薄く眠っていた。

──意外と、悪くない。

そう思った瞬間だった。

「あれ……黒鴉?」

噴水の反対側から、若い男の声がした。聞き覚えはない。

顔を上げる。革鎧の細身の男プレイヤーが、こちらを指差していた。隣の白ローブの女が、その指の先を追って俺を見る。

「マジで?『黒鴉』って、あの?」 「いや、似てる別人じゃね」 「いやいや、頭装備のフード見ろよ。レイドフェスⅢの限定だぞ。今は配ってない」

声が小さくなる。だがすぐに、別の方向からも視線が集まり始める。プレイヤーが立ち止まる。誰かのフレンドコールの音。誰かが連れを呼ぶ手招き。足音が一つ、また一つ、敷石の上で増えていく。

俺は動かない。動けない。

三年前なら、この囲まれ方は歓迎の前兆だった。フレンド申請、サインのねだり合い、PT勧誘──そのはずだった。

「うわ、ホンモノだ。アバター更新してねぇ」 「装備、レイドフェスのやつじゃん。何世代前だよ」 「ステも振り直してねえんじゃね」 「化石じゃん」

化石。

その言葉を、はっきり聞いた。

胃の奥が冷たくなる。現実の左手が、無意識に膝の上のジーンズを握りしめていた。三年前、こんな囲み方をされた経験は、別の意味で何度もあった。サインを求める列、握手を求める手、自撮りを求める笑顔。同じ場所で、同じ姿勢で、俺は何百回と立ったことがある。同じ姿勢で、こんな視線を浴びるのは、初めてだった。

囲みの外で、誰かがすっと片手を持ち上げた。指先に小さなUIアイコン、白い四角──スクリーンショット撮影のジェスチャー。

カシャ、と軽い澄んだシャッター音。

カシャ。カシャ。カシャ。

四方から音が重なる。鼓膜の内側で、その音だけがやけに鮮明に響いた。

「掲示板に貼ろうぜ」 「『化石ランカーの復帰(笑)』ってタイトルで」 「やめろよ、本人前だぞ」 「いやだから晒すんだろ」

やめろと言った男も笑っている。輪の外側にいた女プレイヤーが、口元に手を当てたままその輪に近づいてきた。覗き込み、ふっと吹き出す。香水のエフェクトか、桃のような甘い匂いがふわりと届いて、それがかえって不快だった。

「ね、何かしゃべってよ。元No.1様」 「往年の決め台詞とか、無いの?」

俺は、噴水の縁に座ったまま、一度だけ拳を握った。

何か言え、と頭の奥で誰かが言う。

何か言え。何か返せ。「うるせえな」でも「お前ら誰だ」でもいい。だが口は動かない。喉の奥に、三年分の埃が詰まっているみたいに、声が出ない。

代わりに、画面の右上にシステム通知がポップアップした。

──《あなたの名前を含む投稿が、公式掲示板「アルテミア総合スレッド」で観測されました》

通知音は、三年前と変わらない、軽い澄んだ鈴の音だった。

その音の余韻の中で、俺はようやく口を動かした。

「……ログアウト、しようか」

声は、自分でも驚くほど低く掠れていた。

囲みの誰かがその呟きを拾って、また笑った。

「逃げんなよクロウさん」 「サインだけくれよ、化石サイン」

噴水の水音が、やけに遠く聞こえる。三年前、この広場の中央で、誰よりも先に立っていたはずの場所。今、その同じ場所で、俺はただの晒し対象になっている。

それでも──ログアウトのジェスチャーは、最後まで結ばなかった。

指の中に、まだ、熱が残っていた。

三年分の埃の下で、何かが、薄く脈打っていた。

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