第1話
第1話
捨てられた採集袋の口紐が、相馬悠人の足元に鈍い音を立てて転がった。革の縫い目から零れた干し肉の欠片が、坑道入り口の濡れた石畳に黒い染みを広げる。鼻の奥に、鉄錆と腐葉土の混じった冷気が這い上がってきた。旧坑道ダンジョン第一門、正午の鐘が鳴る直前のことだった。 「悪いが、悠人。今日から外れてくれや」 槍使いのガドは、目も合わせずに言った。彼の背後では、昨日雇い入れたという弓使いの少女が、半歩引いて視線を外している。後衛の魔術師ミナが、苛立ちを押し殺した声で割って入った。 「十層は今週から難度が上がったの。荷物持ちの負担だけじゃ済まないのよ。あんたの『残響視』じゃ、索敵も治癒もできないでしょ」 残響視。対象に残った過去の気配を、朧げに読むだけの鑑定系スキル。戦闘にも採集にも、罠解除にすら役に立たない——ハンター協会の教官がはっきりそう査定した、外れ札だ。 悠人は袋の口紐を拾い上げ、肩に掛け直した。三年間、この袋に自分で縄を足し、鍋を括り、鉄串を差してきた。爪が掌に食い込む。何か言い返そうとして、舌の上で言葉が鉄の味に変わった。喉の奥で、唾と一緒に飲み下した一音が、胃の底にちりちりと焦げ付く。視界の隅で、新しい弓使いの少女がほんの一瞬だけ申し訳なさそうに目を伏せ、すぐに目を逸らした。その仕草が、ガドの台詞より深く刺さった。 「……分かった」 ガドは満足そうに鼻を鳴らし、新しい弓使いを連れて鉄扉の奥へ消えていく。蝶番が低く長く、鳴いた。
残された悠人は、しばらく石畳の染みを見下ろしていた。足元を冷気が撫で上げていく。旧坑道ダンジョンは大陸東端、廃鉱山の奥深くに口を開けた古参の迷宮で、一層から十五層まで確認されている。Cランク未満のハンターは三層まで、それより下へはパーティ申請と護衛が必須——ただし、単独で潜る分には、誰も止めない。 悠人は踵を返し、ダンジョンの正面扉ではなく、協会支部のほうへ歩き出した。石畳の継ぎ目に溜まった雪解け水が、歩くたびに靴の革へ染み込んでくる。足裏から冷えが昇り、膝の裏で汗と混じってべたついた。 支部の受付に着いたとき、カウンター越しの職員は顔を見るなりため息を漏らした。 「悠人くん、またパーティ抜けたの」 「ガドさんに、外されました」 「三回目よ、今年」 職員は銀縁の眼鏡を押し上げ、分厚い登録簿の頁を繰った。相馬悠人、二十歳、登録三年目、ランクE、所持スキル「残響視」推定等級・下位、討伐実績は下層雑魚のみ。短い記録の最後尾に、今日の日付で所属パーティ欄が斜線で消される。インクが乾ききらないうちに、ペン先がもう一度紙を撫でて、「単独」の二文字が薄く書き足された。 「同期はみんなCに上がったわよ」 「知ってます」 「あなた、頭も勘も悪くないのに、なんで上がれないの。どこで躓いてるの」 躓いている、という言葉は正確ではない。悠人はカウンターに肘を突き、残響視を黙って受付の万年筆に掛けた。薄い光の膜が、ペン先を一瞬だけ覆う。三十秒ほど前、職員がこのペンで「不在」と書いた気配。その前に、灰色の上着を着た男が同じペンを借りて、何かを書き殴った残響。字の筆跡は、どれほど集中しても読めない。掴めるのは「誰かが触れた」「何かが起きた」という朧げな輪郭だけだ。 役に立たない。本当に、どうしようもなく。 「……姉さんの件、新しい報告は」 「ないわ。七年前と同じ」 職員は静かに首を振った。相馬玲、二十四歳、Aランク単独行動型ハンター。七年前、旧坑道ダンジョンの調査任務から帰還せず。最後の通信位置は第十層付近。捜索隊は二度組まれ、二度とも、何の痕跡も持ち帰れなかった。 「あの子を探すのは、もう組織としての任務じゃない。分かってるわね」 「分かってます」 「来月までにC昇格が難しいなら、登録更新料は前払いになるから」 悠人は無言で一礼し、カウンターを離れた。背中で、受付の眼鏡がまたため息を漏らした気配がした。
協会の外に出ると、冷たい風が首筋を叩いた。早春の空気は湿っていて、どこか古い金属の匂いを孕んでいる。悠人は袋の肩紐を一度締め直し、もう一度、旧坑道ダンジョンの鉄扉のほうへ足を向けた。 姉が最後に送った通信は、第十層。今日、ガドのパーティが進もうとしている層だ。悠人の格では、本来は届かない深度である。だが——誰も寄り付かない場所が、旧坑道にはもう一つあった。 三年前に陥落事故で閉鎖された、旧採掘路。通称「下り坑道」。公式の層数には数えられていない廃棄区画。出入り口は崩れかけたまま放置され、内部の魔物は雑魚ばかりで、実入りは悪い。代わりに、そこからは最下層近くまで一本で下りられる抜け道が残っている——らしい、という噂だけが、酒場の隅で昔から転がっていた。 悠人はその噂を、三年かけて検証してきた。残響視で拾えた古い縄の結び跡、壁に残るツルハシの痕、湿った石段に刻まれたブーツの底の溝。姉が、捜索隊より前にそちらから降りた気配。指先がそれを拾うたび、姉の声の温度を思い出しそうになって、奥歯を噛んで止めた。涙腺の手前で凍らせる癖は、もうずいぶん前についていた。 今日、一人で、そこへ潜る。外れてくれ、と言われた身には、断る相手はもういない。 鉄扉の脇の、苔むした通用口をくぐる。坑道の闇が、悠人の顔を冷たい舌で舐めた。松明を点け、湿った石段を下り始める。一段ごとに、空気の重みが変わった。耳の奥で、地上の雑音が遠ざかっていく。代わりに満ちてくるのは、遠くで滴る水音、苔の青い匂い、そして——石そのものが呼吸しているような、低い脈動。 第三階層を通過する頃には、呼吸はすっかり落ち着いていた。雑魚のコボルトが二匹、松明の光を嫌って岩陰へ逃げていく。残響視を通路の奥へそっと伸ばすと、壁に人の手形の残響が浮いた。姉のサイズよりは大きい。捜索隊の誰かだろう。 さらに下り、第七階層。天井から落ちる水滴が頬を叩く。足元に転がる朽ちた革の欠片の上で、ベルトのバックルだけが鈍く光っていた。悠人は膝を折り、そっと金具に触れた。——灯り、叫び、剣の折れる音、誰かの笑い声。温度と匂いだけの断片が、指先から肘まで走り抜ける。鉄と汗と、焼けた獣脂の匂い。喉の奥に絡みつくような、誰かの最後の呼気の生温さ。続けて、革鎧の縫い目を擦る荒い息、誰かが誰かの名を呼ぶ短い声、それを遮るように床を蹴る重い足音——どれも顔の輪郭まで届かないまま、指の腹を素通りしていく。顔も名前も掴めない。それでも、男のものらしい大きな掌の温度と、緊張で強張った指の力みだけは、はっきりと自分の手のひらに移った。ただ、この金具を腰に巻いていた誰かが、ここで死んだ、という確信だけが残った。 「……姉さんじゃ、ない」 呟きに、自分でもわからない安堵が滲んだ。同時に、それを安堵と呼んだ自分への小さな嫌悪が、舌の付け根に苦く広がる。死んだ誰かには、別の場所で帰りを待つ誰かがいたかもしれないのに、自分はその死を、姉ではなかったという理由だけで一段軽くしてしまった。ゆっくり立ち上がり、松明を持ち直す。煤の匂いが鼻をつき、火影が壁の窪みを撫でるたび、岩肌の凹凸が別の生き物の背中のようにうねって見えた。先はまだ、ある。
松明の炎が、不自然に揺れた。 下り坑道の最下層、公式には存在しないはずの突き当たり。悠人の前には、崩落したまま三年間放置されたという壁が、湿った闇を背負って立ちはだかっていた。 左手を、そっと岩肌に当てる。指先から這い上がってくるものがあった。いつもの残響ではない。脈打つような、低い振動。三年かけて研いできた悠人の感覚でさえ、知らない種類の気配。壁の向こうから、微かに、古い石の匂いと、鉄とは違う何かの匂いが漏れてくる。甘いような、それでいて喉を刺すような、嗅いだことのない匂いだった。花の蜜を煮詰めて錆と混ぜたような、と一度言葉にしかけて、悠人はその比喩がどこにも収まらないことに気づく。耳の奥がきぃんと鳴り、こめかみの血管が一拍だけ早く打った。舌の裏に、薄い金属の味がじわりと滲む。 松明を壁に近づけると、炎が一度だけ、青く揺らいだ。 掌に汗が滲む。背負った袋の口紐が、肩で細く軋んだ。帰れ、と頭の中で誰かが言った気がした。ガドの声にも、職員のため息にも、どこか似ている。まだ、間に合う。地上に戻れば、外された荷物持ちのまま、明日もどこかの酒場の隅で次のパーティを探せる。 それでも、岩肌に当てた左手の下で、何かが応えるように、もう一度、低く脈を打った。指先と、岩の向こう側の何かが、同じ拍で息を合わせた——そう錯覚するほどの、確かな返事だった。 もう一歩、悠人は前に出た。