第3話
第3話
洗面台の蛇口を捻った瞬間、指先が二種類の冷たさを拾った。
一つは、金属の本来の温度。もう一つは、水道管を走る水が、蛇口に到達する前の、パイプ内部の水流の角度。その水が、俺の膜の向こう側で、俺の指定した流路に沿って流れ出ようとしている感覚。捻る方向を少し変えれば、水は斜めに噴く。もっと変えれば、排水口を迂回して床に落ちる。頭で考える前に、指先が勝手に試算していた。
俺は蛇口を、普段通りの角度で捻った。水は真下に落ち、排水口へ吸い込まれていった。普段通りだ、と思おうとする。だが歯ブラシを口に入れた瞬間、ミントの粒子が歯面でどう反射し、口腔内の光がどの角度で網膜に戻ってきているか、それが指先の温度計のように読み取れてしまった。
冴木の言った通りだった。
鏡の中を見る。右目の瞳孔は、縦に裂けたままだ。よく見なければ分からない程度の、細い線。だが光の加減で、他人の目にも映る。前髪を少しだけ伸ばすように前に垂らして、目の上を陰らせた。
台所に下りる。母さんは夜勤明けで寝ている。冷蔵庫に、昨日と同じようにプリンの材料がある。卵と牛乳とグラニュー糖。賞味期限はあと二日に縮んでいた。希の退院予定日は、まだ更新されていない。
ノートを鞄に入れる。百円玉を二枚、ポケットに入れる。玄関を出る。三和土に、希のスニーカーが揃えてあった。つま先の向きは、去年の冬から、ずっと同じ角度だ。
舗装の継ぎ目を、いつも通りに踏んでいく。踏み方を変えれば、歩幅が舗装のリズムから外れる。外れた歩幅を、誰が見ているわけでもない。ただ、俺自身が知ってしまった。駅前の自販機の前で立ち止まり、百円玉を二枚、投入口へ滑り込ませる。指先で硬貨の縁に触れた瞬間、硬貨が落下する軌道の、ミリ単位の揺れまでが読めた。微糖のボタンを押す。ガコン、と缶が落ちる。プルタブを引いて、口に含む。
苦い。甘すぎる。温い。
この味だけは、昨日と同じだった。舌の上の感覚は、膜とは別の場所にあるらしい。少しだけ、安心した。
教室に入った瞬間、加納がこちらを見た。いつもの席で、指先に小さな火を回している。取り巻きの二人もこちらを見た。一人が肘で加納を突いた。
「煙霧、おはよう。今日も避ける練習か?」
加納の指先の火が、ふわりと俺の方へ浮いた。小さな火種だ。二メートル、一メートル、五十センチ。指先に膜の感触がある。ずらせば、火は天井の蛍光灯の方へ逸らせる。もっとずらせば、加納の頬へ還せる。
俺は膜に触れなかった。
火種は、俺の左耳の横をかすめて、黒板の上の時計の下で霧散した。頬の産毛が焦げる。慣れた熱だ。加納が笑う。取り巻きも笑う。佐伯は教卓でボールペンをノックしている。
「反応、悪すぎんだろ」
俺は何も言わずに自分の席についた。鞄を机の横にかけ、ノートを引き出しに収める。窓の外、四月の曇天が、校庭のフェンスの影をぼんやりと溶かしていた。
膜は、指先に残っている。張りたければ張れる。俺を焦がしたこの教室の全員の足元に、逃げ場のない屈折の檻を張り巡らせることだって、たぶん、できる。冴木の言葉を信じるなら。
それでも、俺は張らない。
組織には入らない、と決めたのは昨日の夜、帰りの廃高架下でだった。冴木の手を取らなかった時点で、半分は決まっていた。残り半分は、家に帰って玄関の三和土に置かれた希のスニーカーを見たときに決まった。泥のついた、小さな白い靴。一年前の冬、希はこれを履いて倒れた。俺が加納の火球に焼かれている間に、希はこの靴のつま先を救急車の中に放り込まれた。
希を助けたいから、力を使いたい。力を使ったら、加納にも、佐伯にも、督促状の番号にも、俺の膜の角度を教えることになる。冴木の組織にも、国家にも、教えることになる。そして、教えた瞬間、俺のノートの余白は消える。
だから、今日は、張らない。昨日までと同じ顔で、席につく。誰にも、気づかれない。
一限、現代国語。配布プリントを指先で受け取った瞬間、紙の繊維が縦目か横目か、一瞬で判別できた。こういうことが、これから毎時間、積み重なっていく。俺は鉛筆の芯をノートの端に軽く擦り付けて、芯の粉が紙の繊維にどう絡むかを、意識の外に追い出した。膜は、意識しなければ、背景に沈む。背景に沈めている限り、誰にも気づかれない。
二限、三限。
黒板の白墨が、書き終わった文字の尾で光を一瞬曲げる。それを俺は見ている。見ていないふりをする。加納は俺を時々振り返ったが、火球は二限以降、飛んでこなかった。興味を失ったのか、別の遊びを思いついたのか。どちらでも構わなかった。
四限の途中、右の膝が小刻みに揺れていることに気づいた。制服のズボンの裏地が、膝の皮膚を細かく擦っていた。痛みというより、血行の滞り。足元の机の脚が、教室の床の傾き──古い校舎は全体で〇・三度ほど傾いている──を指先に伝えてくる。全部、雑音だ。こういうものに慣れていく過程が、たぶん「覚醒」なのだろう。
四限終了のチャイムで、鞄から財布を出した。昼は売店の菓子パン一個。今日もそのつもりだった。廊下に出た瞬間、鞄の内ポケットで携帯が震える、その直前の電流の揺れを、指先が拾った。膜は、もう着信通知の基盤レベルまで読んでいた。
取り出した画面に、市立総合病院、と表示されていた。
非常階段の踊り場まで歩いてから、応答ボタンに触れた。看護師の声が出た。
「黒咲さんのご家族の方ですか」
「兄です。希の、兄です」
「落ち着いて聞いてください」
落ち着いている、と言おうとして、声が出なかった。非常階段のコンクリートに、俺の靴底の音だけが反響している。看護師の呼吸が、受話器の向こうで一度、整えられた。
「先ほど、ご家族を名乗る男性三名が、希さんのお見舞いにいらっしゃいました」
心臓が、一拍、遅れた。
「……どなたでした」
「お名前を伺う前に、一人の方が、廊下で指先に──小さな火を、お遊びで。すぐに消してくださいましたが、ナースステーションで騒ぎになりまして。希さんは今、面会謝絶にしています。警備にも連絡しました。ただ、お兄さんの耳にも入れておこうと」
炎使い。三人。希の病室に。
「希は、無事ですか」
「ええ、今はお眠りになっています。点滴の針を抜こうとした形跡も、ありません。……お兄さん?」
返事をしなかった。代わりに、指先が受話器のプラスチックの継ぎ目を、膜の縁として掴んでいた。病院の方角。地図で距離を測った覚えはない。それでも、指先は知っていた。ここから病院までの直線距離、途中にある全ての街灯の屈折率、信号機の赤と青の比率、まで。
「お兄さん、電話、聞こえてますか」
「……すみません、今から、行きます」
「今は面会できません。警察の方も来ていますので」
「顔を見せるだけでも」
看護師は少し迷って、「受付で身分証を見せてください」と言った。
通話を切る。スマホの画面に、希の退院予定日のメモが一行だけ残っていた。先週から更新されていない行。画面を閉じた。
非常階段から教室へ戻る廊下で、三年の先輩が一人、肩にぶつかりそうになった。俺はとっさに膜を張った。張らないと決めていたのに、指先が勝手に働いた。先輩の肩は、俺の肩の三センチ手前で、空気の段差に沿って滑るように逸れた。先輩は気づかずに通り過ぎた。俺は壁に片手をついて、息を整えた。
握った拳の中で、爪が掌に食い込んだ。痛みがあった。痛みだけは、膜の向こう側ではなく、こちら側にあった。
午後の予鈴が、教室に戻る前に鳴り終わった。
俺は鞄を肩に引っ掛け直し、ノートを引き出しから抜き、机の上に教科書を一冊だけ置いた。午後、ここの席には誰も居なくなる。佐伯が教室の前方で、俺の方を一度見た。目が合った気がしたが、佐伯はすぐに出席簿へ視線を落とした。見なかったことにすれば、見なかったことになる。いつも通りだった。
教室の扉に手をかけたとき、廊下の端から加納の笑い声が聞こえた。空耳ではない。加納は今、この学校にいる。俺の膜がそう告げている。ということは、病室の三人は、加納の知り合いか、加納が別口で手配した炎使いか。
どちらでもいい。
扉を、いつもの力加減で開けた。普段通りだ。だが廊下の蛍光灯の光の角度は、今、俺の指先で、二度だけ傾いている。誰にも気づかれない程度に。病院までの最短経路の上で、俺を映す監視カメラのレンズが、順番に、一つずつ、微かに曇っていく。
昇降口の自販機の前で、百円玉を二枚、ポケットから掘り出した。投入口に落とす。微糖のボタンを押した。ガコン、と缶が落ちる。プルタブを引く。
今日は、飲んでから、行く。
この一本が、ノートの余白を、まだ一行だけ、守っている気がした。