第3話
第3話
ランタンの芯が、油の表面で一度、大きく揺らいだ。
ユウトは掌に残る紋様の冷たさを握り込み、一歩、また一歩と、漆黒の奥へ踏み出した。結界に縫い止められた三匹の鱗蜘蛛が、背後で赤い結晶の眼だけを動かしている。視線が、首の後ろをねっとりと這ってくる。振り向いてはいけない、と理屈ではないところで理解していた。振り向けば、あの結界は緩む。そんな確信があった。
石畳の継ぎ目が、歩を進めるほどに深くなっていく。靴底が溝を拾い、つま先が何度も引っかかった。足元の紋様は、広間の中央に向かって、渦を巻くように延びていた。角ばった古い文字が、円を描き、その中心へ。ランタンの光が届くぎりぎりのところで、紋様の線は薄く青く灯り、ユウトの歩調に合わせて息をしていた。歩を止めると、線の明滅もまた、止まる。まるで足裏から心拍を読み取られているかのようで、ユウトは意識して、呼吸を遅くした。
肺の底に、乾いた鱗の匂いが降りてくる。さっきより濃い。口を閉じていても、鼻腔の内側に焦げた革の粒子が貼り付く感覚があった。舌先の甘苦さは、もう舌全体に広がっている。喉仏が、何度も空振りのように上下した。
「……息、してる」
呟きが、天井の高さに吸い込まれる。反響が、返ってこない。この広間の奥は、音を吸う。自分の声が、自分のものでなくなったような錯覚があった。
もうひとつ、鎖の鳴る音。
今度は、すぐそこだった。
ユウトはランタンを、震える手で、高く掲げた。
✳︎
光の輪が、一拍遅れて、それを照らし出した。
最初に見えたのは、黒だった。
岩陰のような、井戸の底のような、深い黒。ランタンの火が、その表面に吸い込まれ、散らばり、ごく小さな鱗の一枚一枚で、鈍く濁って跳ね返ってきた。鱗だと気づくのに、ユウトは三呼吸かかった。
大きすぎたのだ。
ひとつの鱗の幅が、ユウトの掌ほどもある。その鱗が、広間の奥の壁に沿って、うねり、折り畳まれ、何層にも連なって、ひとつの巨躯を成していた。胴体の太さは、家一軒分。首は蛇のように長く、岩盤にぐったりと横たえられている。翼の骨が、折れた傘の骨組みのように片側に崩れ落ち、先端が石畳に触れて、わずかに擦れていた。擦れる音が、かさ、かさ、と、紙をめくるように繰り返されていた。
そして、鎖。
漆黒の胴体を、何重にも、絡めるように這っている。腕ほどの太さの、くすんだ銀の鎖。鎖の継ぎ目一つ一つに、あの角ばった古語が刻まれている。鎖は、広間の四方の壁、さらには天井から、幾本も伸びて繋がれ、巨躯の動きを封じていた。鎖の先端が、鱗と鱗の隙間に、深く食い込んで——肉へ、めり込んでいた。食い込んだ箇所からは、黒い血の粒が、ゆっくりと、雫のように石畳へ落ちて、乾いた床に吸われていった。
ユウトの膝が、勝手に折れた。
「……竜」
膝頭が石畳を打つ音が、やけに乾いていた。
協会の魔物図鑑、序文の一行目を、ユウトは思い出していた。『竜種——伝説級。四百年前を最後に、生存個体の確認なし』。祖父が寝物語に語った、古い時代の話。祖父の祖父の、そのまた祖父の世代に、世界の地図を塗り替えた災厄。
その、伝説級が。
「……生きて、いるのか」
問いかけた瞬間、長い首が、ゆっくりと動いた。
鎖が軋んだ。鉄錆と、焦げた鱗と、古い血の匂いが、一息に広間に満ちた。ユウトは吐き気に似た衝動を、奥歯で噛み殺した。頬の内側を噛んで、血の味で、意識をかろうじて手前に繋ぎ止めた。指先は、まだ震えていた。ランタンの把手が、汗で滑りそうになるのを、もう一方の手で押さえた。
岩盤から、竜の頭部が、持ち上がる。
眼が、開いた。
琥珀色だった。
濁っている。白い膜がかかり、左の眼は、明らかに焦点を失っていた。右の眼だけが、ランタンの光の中で、ユウトを捉えた。その視線は、熱くもなく、冷たくもなかった。ただ、ひどく、疲れていた。長く眠れずにいた者が、ようやく訪れた誰かを、ぼんやりと見上げるような、そんな眼だった。
『——見えておるのか』
声は、耳ではなく、胸の内側に直接、落ちてきた。
ユウトは口を開けた。声は出なかった。代わりに、掌の契約書が、痙攣するように脈打った。熱が、指の節から肘へ、肘から肩へ、肩から胸の奥へと、血管を逆流していった。肋骨の裏側で、何かが、呼応するように、とく、とく、と鳴った。
『小さき者よ。この薄闇で、よくぞ、儂の形を捉えた』
竜の吐息が、ユウトの前髪を、またひと撫でした。
ランタンの炎が、その吐息で、消えかけて、戻った。
✳︎
「あ、あなたは……」
舌が、ようやく動いた。
『問うな。まず、答えよ。お前は、何を携えておる』
ユウトは、懐から契約書を引きずり出した。獣皮は、もう赤く発光していた。古語の呪文が、紋様のように、表面一面に浮かび上がっている。ランタンを石畳に置き、両手で、恐る恐る、差し出した。差し出す手が、震えているのを、止めることはできなかった。指先が、獣皮の縁を、ぎこちなく挟んでいた。
竜の右眼が、ゆっくりと、瞬いた。
『……そうか。あの爺の、血か』
「……じっちゃんを、知って」
『顔は覚えておらぬ。手の匂いだけだ。似ておる』
鎖が、また軋んだ。
竜の首が、石畳に、どさりと下ろされる。重い音が、広間の床を震わせた。ランタンの油が、容器の中で小さく波立った。竜は、呼吸を整えるように、長く、深く、息を吐いた。その吐息の一つ一つが、ユウトの全身の産毛を逆立てた。吐息は温かいのに、芯は凍えるように冷たかった。
『儂は、四百と、十七年、ここにおる』
「四百、十七年……」
『この迷宮を設えた者に封じられ、脚を縛られ、翼を折られ、記憶の半分を、喰われた。もう、もたぬ』
竜の鱗の一枚が、ぽろりと、剥がれ落ちた。石畳に当たり、乾いた音を立てて、砕けた。中から、黒い粉末が零れた。鱗の崩壊。命の、尽きかけ。
ユウトは、膝をついたまま、動けなかった。
『小さき者よ。お前の携えるそれは、契約の古形だ。儂の世代より、さらに古い。ひとつだけ、問う』
竜の右眼が、まっすぐに、ユウトを射抜いた。
『——なぜ、ここへ来た』
口の中が、からからだった。唇が、上手く開かない。それでも、ユウトは、ひとつだけ、答えを持っていた。
「妹の、薬代のために」
声が、裏返った。
「足りないんです。銀貨三十枚じゃ、全然、足りない。だから——未踏層に、何か、落ちていないかと」
竜が、息を吐いた。
笑った、のかもしれなかった。濁った喉の奥で、ごろ、と低い音が鳴った。その音が、胸郭のどこかに触れ、ユウトは思わず、肩を縮めた。
『……薬代、か。四百年を待った末に、薬代の話を聞くとは』
「……すみません」
『謝るな。儂は、安堵しておる』
竜の右眼が、ふと、細められた。
『世界を変えたい、でも、強くなりたい、でもない。妹の、薬代。——そういう者の方が、契約には、向いておる』
✳︎
鎖が、ゆっくりと、鳴いた。
竜の前脚——鱗の下に、鎖が食い込んだその脚——が、ほんのわずかに、持ち上げられた。持ち上げるというより、ユウトの方へ、差し出された。爪先が、石畳に、重く触れる。その爪の一本一本が、ユウトの身長ほどもあった。
『小さき者よ。儂と、契れ』
「——契る」
『儂の名と、お前の名を、結ぶ。儂が狩ったものは、お前の手に落ちる。お前が歩いた道は、儂の眼に映る。ただし』
竜の右眼が、一度、伏せられた。
『この鎖は、解けぬ。儂の身体は、この岩盤から、動かせぬ。お前が手に入れるのは、主ではなく——遠くで息をする、半身だ』
ユウトは、掌の契約書を、強く握りしめた。獣皮の熱が、指の関節を、じゅう、と焼いた。それでも、離さなかった。
三年間、契約線が繋がらなかった指先が、今、焼けるほどに熱い。
妹の、紙のような唇が、脳裏をよぎった。紙のような唇と、枯れ枝の指。そして、祖父の、節くれだった手。「これが熱を持つ日が来たら、迷うな」。あの日の祖父の、澄んだ瞳。
ユウトは、顔を上げた。
「……名前を、教えてください」
竜の右眼が、ゆっくりと、見開かれた。
『ほう』
「契る相手の名前も、知らずに、手を出すのは、失礼です」
『——ふ』
広間の空気が、震えた。それは、四百十七年ぶりに、この竜が、笑った音だった。
✳︎
『——ヴェルガリオン』
竜は、名乗った。
その名が、広間に落ちた瞬間、天井の鎖のひとつが、甲高い音を立てて、軋んだ。壁の石柱の根元、あの古語の紋様が、一斉に、青白く灯った。ユウトの掌の契約書が、赤から白へ、色を変えて、脈打ちはじめた。
「——ユウト、です。テイマー、見習いの、ユウト」
名を返した瞬間、獣皮の表面が、焼けるように、燃えた。
ユウトは、声を上げなかった。
ランタンの火が、大きく揺れ、広間の奥で、鎖が一斉に、鳴いた。