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最弱テイマーと封印の黒竜

第2話 第2話

第2話

第2話

鎖の音は、一度きりだった。

ユウトは石段の縁で、息を止めた。漆黒の向こうから届いたその金属音は、耳の奥で何度も反響し、やがて湿った空気に溶けて消えていった。幻聴ではない。岩肌を舐めるランタンの光が、崩れた石段の先で、吸い込まれるように途切れている——その向こうの闇に、確かに、何かがいる。

足場を確かめながら、ユウトは半歩だけ後退った。靴底が崩れた石の粒を踏み、ぱら、と小さな欠片が闇へ落ちていく。落下音が、返ってこない。ひと呼吸、ふた呼吸待ってもだ。底が、恐ろしく深い。

「……降りるのか、俺は」

声に出してみて、自分でも驚くほど平坦な響きだったことに、乾いた笑いが喉でつかえた。胸元の契約書は、もう熱いなどという生ぬるい温度ではなかった。獣皮が、内側から薪を焚かれたように脈打ち、時折、針で突くような短い痛みが親指の腹に走る。痛みというより——せっつかれている、と感じた。行け、と。

一度だけ、後ろを振り返った。

自分がくぐってきた亀裂は、もうランタンの光の届かない遠さに薄れ、通路の記憶すら曖昧だった。ここから《赤翼》の十字路まで、どれくらい歩いただろう。時間の感覚が、石壁の冷気と一緒に麻痺している。脳裏に、妹の紙のような唇がちらついた。イリス。金貨五枚。足りない。

ユウトは崩れた石段の縁に腰を下ろし、両手で縁を掴み、そのまま下へ身体を滑らせた。

✳︎

踵が石畳を打つのと、ほぼ同時に、膝を折って衝撃を逃がした。

ランタンが手の中で一度大きく揺れ、光の輪が、ぐるり、とこの空間の輪郭を舐めた。

広い。

横幅は十数メートル、天井は光が届かないほど高い。円形の広間のようだった。壁際には朽ちた石柱が等間隔に並び、柱の根元に、何か黒ずんだ紋様が刻まれている。見たことのない文字だった。協会の基礎講習で習った古代語とも、祖父の手帳の隅に残された古語とも違う。もっと角ばった、もっと鋭い——まるで、刃で石を削り込んだような線。

空気が、違った。

灰銀坑の湿った鉱脈の匂いではない。鉄錆でもなく、苔でもない。古い革と、乾いた鱗と、そしてごく微かに——焦げた髪を一本だけ灯したような、焼け跡の匂い。肺の底に、じわりと沈み込む。喉の奥が痺れ、舌先にあの甘苦さが戻ってきた。唾を飲み込もうとして、口の中がからからに乾いていることに気づく。喉仏が、空振りのように上下した。

「これは……」

ランタンを前に差し出したとき、光の外側で、かさ、と乾いた音がした。

ユウトの全身が硬直した。

二度目の音は、違う方向からだった。左、石柱の陰。三度目は、背後。四度目は、頭上。心臓が一拍、跳ねるのを通り越して、胸骨の裏側で凍りついたように止まった。次の鼓動が、やけに重く、のしかかってくる。

振り仰ぐより早く、天井から何かが落ちてきた。

「っ——!」

咄嗟に身体をひねる。右の二の腕に、鋭い痛みが走った。布越しに、皮膚が裂ける感触。熱と冷たさが同時に走り抜けた。黒い影が、ユウトの肩口を掠めて石畳に叩きつけられ、ずぐ、と湿った音を立てて這い起きる。ランタンの光がそれを照らした瞬間、ユウトは息を呑んだ。

蜘蛛、ではない。だが、似ていた。全長は犬ほど。八本の脚は蜘蛛のそれだが、胴体に生えているのは鱗だった。背面には細かな石の破片が苔のように張り付き、眼の位置に当たるはずの場所には、赤く濁った結晶が六つ、不規則に埋まっていた。結晶の表面に、ランタンの炎が歪んで映り込み、まるで内側で小さな火が燃えているように揺れた。

協会の魔物図鑑に、こんな個体はない。

「……未踏層の、固有種」

絞り出した瞬間、石柱の陰から同じ形のものが二匹、ずるりと這い出てきた。合わせて三匹。脚が石畳を擦る音が、ばらばらに、しかし輪唱のように重なって、広間に満ちていく。耳の奥で、自分の血の流れる音が、その輪唱と混ざり合って区別がつかなくなった。

ユウトは腰の短刀を引き抜いた。日雇いに支給された、刃こぼれだらけの鉄の短刀だ。握りは汗で滑り、指先は冷え切って感覚が鈍い。それでも、握り直す手つきだけは、震えなかった。三年、荷物持ちとして死線の外周を歩いてきた身体が、勝手に構えを作っていた。腰を落とせ、重心は前足、視線は相手の脚の付け根——先輩の探索者が酒場で繰り返した呟きが、こんなときに限って、鮮明に蘇ってきた。

一匹目が、跳んだ。

ユウトは身を沈め、短刀を下から斬り上げる。刃が鱗に弾かれ、嫌な反響が手首まで抜けた。当てた場所が悪かったわけではない。魔物の脚の付け根、鱗の薄い部分を、確かに掠めた。黒緑の体液が一筋飛び散り、石畳に落ちて——じゅう、と焦げた音を立てた。

酸。

「——冗談、だろ」

二匹目が側面から飛びかかってきたとき、ユウトの胸元で契約書が、爆ぜるように熱を放った。

✳︎

視界が、一瞬、白く飛んだ。

閃光ではない。契約書そのものが光ったのではなく、ユウトの網膜の奥で、誰かに強引に道を指し示されたような、そんな光だった。後ろに下がれ、と声にならない声が言った気がした。柱の、三本目の裏へ。

身体が考えるより早く、動いていた。

右へ跳び、二本目の石柱を回り込み、そのまま三本目の柱の裏まで走り込む。二匹の鱗蜘蛛が、ユウトのいた場所に折り重なるように落下し、己同士で脚を絡ませて這いずった。耳障りな、金属を引っ掻くような鳴き声が、初めて魔物の口から漏れた。その隙に、ユウトは三本目の柱の根元に刻まれた紋様——あの角ばった文字列を、ランタンの光で照らした。

文字の一つが、ごくわずかに、青白く、灯った。

「……反応、している?」

指先で、恐る恐る触れる。石の表面は、氷のように冷たかった。だが、紋様の線に沿って、熱が走った。契約書の脈動と、同じ拍子で。——これは、連動している。この広間の何かと、祖父の遺した契約書は、繋がっている。指先から肘までを伝う、規則正しい鼓動。それは、まるでもう一つの心臓が、自分の腕の中で目覚めようとしているような、奇妙な確信だった。

三匹目が柱の向こうから回り込んできた。ユウトは咄嗟に紋様から指を離し、契約書を懐から引きずり出し、掌に握り込んだ。熱い。火傷しそうに熱い。だが、離せなかった。掌の皮が、じりじりと焼かれる感覚に、奥歯を噛み締める。血の味が、舌の上に滲んだ。

「じっちゃん、どうすればいい」

問いかけに、答えはなかった。けれど、手の中の獣皮が、ある方向へ——広間の奥、ランタンの光がまだ届かない暗闇の方へ——微かに引かれる感触があった。糸で、そっと誘われるように。逃げろ、ではなかった。来い、だった。

鱗蜘蛛の脚が、石畳を叩いて近づいてくる。

ユウトは契約書を懐に押し込み、ランタンを左手に、短刀を右手に握り直して、引かれる方向へ走り出した。背後で三匹の鱗蜘蛛が追ってくる。脚の摩擦音が、耳のすぐ後ろで渦を巻いた。息が上がる。肺が冷たい空気で引き攣れる。途中、石畳の下から伸びた何かに足を取られ、前のめりに転倒した。膝頭が石を打ち、しびれが太腿の付け根まで突き上げる。ランタンが手から離れかけ、慌てて握り直すと、油の中で芯が大きく揺らいだ。

掌をついた先、石畳の表面に、新しい紋様があった。

柱の根元に刻まれていたものと、同じ形。そして——その紋様が、ユウトの掌に押されて、淡く光った。

同時に、背後の鱗蜘蛛の追跡音が、ぴたりと止んだ。

振り返ると、三匹の魔物は、広間の中ほどで身体を凍り付かせたように動かなくなっていた。見えない何かに、押さえ付けられているように。赤い結晶の眼だけが、ぎょろりと、ユウトを追って動いていた。粘ついた敵意が、視線を通じて、皮膚の表面をなぞっていく感覚があった。

「結界……?」

広間の奥から、ふたたび、鎖の擦れる音がした。今度は、さっきより、ずっと近い。

✳︎

ユウトは立ち上がった。

膝が、笑っている。右腕の傷から血が細く垂れ、石畳に落ちて小さな赤い斑点を作る。それでも、足は止まらなかった。止まれなかった。契約書が、強く、強く、奥へと引いていた。

ランタンの光の外側、漆黒の先。

そこに、何か、途方もなく大きなものが、息をしていた。

ゆっくりと、長い、ひとつの吐息。

空気が揺れた。ユウトの前髪が、額に貼りついていた汗ごと、その吐息に撫でられた。熱を帯びた、焦げた鱗の匂い。肺の底まで、埃のように沈んでいく。

そして、鎖が、もう一度、鳴った。

今度は、ため息のような、長さで。

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