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最弱テイマーと封印の黒竜

第1話 第1話

第1話

第1話

荷物の重みで、ユウトの肩紐が鎖骨に食い込んでいた。

二十四キロの携行糧食、予備の松明、塩漬け肉、そして末端ハンターの証である粗末な銅札。灰銀坑、第七層。Cランク適性のこの洞窟型迷宮に、日雇いのテイマー・ユウトが戦力外として押し込まれてから、もう四時間が経とうとしていた。

ランタンの油煙が湿った空気に絡み、甘い鉄錆の匂いと、どこか別の層から漂ってくる苔の青臭さが入り混じる。壁面を滴る水滴が、頭巾の襟首にぽとりと落ちた。冷たかった。首筋を伝って背中まで降りていく冷たさは、まるで細い針で皮膚を撫でられるようで、ユウトは小さく身をすくめた。

「おい、荷物持ち。後ろ、ちゃんとついてこいよ」

前方を歩く剣士ガルドが振り返らずに吐き捨てた。返事を待つ声ではない。ユウトは「はい」とだけ答えて、擦り切れた革ブーツをさらに一歩、深く踏み込んだ。足裏に伝わる石畳の冷気が、布越しに骨まで染みてくる。ブーツの底はとうに薄くなっていて、小石の一粒一粒の形さえも、足裏の神経に直接刻まれるようだった。

十七歳、身長百六十八センチ、体重五十二キロ。ハンター協会の適性試験で三度、テイマーの契約儀式に失敗した。契約線が繋がる瞬間、魔物が必ずユウトの手元から逃れるのだ。五級のゴブリンですら、最下層のホーンラビットですら。

「契約すらできない無能」——そう呼ばれて、もう三年になる。

✳︎

灰銀坑、第八層分岐。Cランクパーティ《赤翼》の隊長シャノンが、松明を頭上に掲げて号令を飛ばした。

「第十層の主狩りに向かう。荷物持ちは撤退路確保班。この十字路でじっとしてろ」

ユウトは無言で頷いた。『撤退路確保』とは名ばかりの見張り番だ。奥から敵が逆流してきた時、最初に殴り殺されるポジションでもある。シャノンの視線は、ユウトを一度も正面から捉えなかった。まるで、通路の染みを確認するような、形式的な一瞥。その視線の冷たさは、もう慣れたはずなのに、胃の底に薄く澱のように溜まっていく。

「おいユウト、お前、契約魔物は今日も無しか?」

斥候のカイルが笑いながら覗き込んできた。背負子の上、ユウトの首元からは一本の古びた羊皮紙が覗いている。祖父から譲られた契約書だ。ひび割れた獣皮に、擦れかけた古語の呪文が這っていた。

「……祖父の形見です」 「そんなボロきれ、魔物なら鼻で嗅ぎ分けて逃げるぞ。お前の荷物の中で一番重いのは、その自尊心じゃねえのか」

どっと笑い声が上がった。洞窟の天井に反響して、笑い声は何倍にも膨らみ、石壁の隙間から這い出てくる影のように、ユウトの周りに絡みついた。ユウトは爪を掌に食い込ませて、口の端だけで笑い返した。奥歯を噛み締めて、血の味がじわりと広がる。鉄の味が舌先に触れた瞬間、ふいに妹の熱のある頬の感触が蘇った。それでも、笑顔の形だけは崩さなかった。崩した瞬間に、明日の仕事が消えることを、三年で嫌というほど学んでいた。

——妹のイリス。九歳。肺を病んで三年。治療薬《銀霜露》は一月分で金貨五枚。今回の討伐隊に戦力外として同行する報酬は、銀貨三十枚。足りない。絶望的に足りない。

朝、家を出るとき、イリスは薄い肩掛けにくるまって、寝台から手を伸ばしてきた。「おにいちゃん、気をつけて」——その声は咳でかすれていて、唇は紙のように白かった。痩せた指がユウトの袖を掴んだ感触が、今も腕に残っている。枯れ枝のように細い指だった。握り返せば折れてしまいそうで、ユウトはただ、その手の甲をそっと撫でることしかできなかった。

それでも、今日ここに立っている理由は、妹の薬代のためだった。

《赤翼》の四人が奥の回廊へ消えていく。足音が遠ざかり、松明の灯りが石壁の角を折れて見えなくなる。ユウトはランタンの柄を握り直した。掌に、じわりと汗がにじむ。

——さて。

一人きりの十字路。湿った石壁に背を預け、ユウトは小さく息を吐いた。吐いた息が、ランタンの光の中で薄い白煙になって漂い、ゆっくりと闇に溶けていく。胸元の契約書を取り出し、親指でそっと撫でる。獣皮の表面はざらついていて、三年前に死んだ祖父の皺くちゃの手を、なぜか思い出させた。節くれだった指で、幼いユウトの頭を撫でていた、あの手。

「じっちゃん」

小声で呟く。

「俺、今日もまた、何も出来ない側だ」

古びた羊皮紙は何も答えない。ただ、指先に伝わる獣皮が、ほんのわずか——気のせいでなければ、確かに。

温かかった。

✳︎

最初の異変は、匂いだった。

それまで通路に澱んでいた鉄錆と苔の匂いに、ふいに別のものが混じった。古い、乾いた、紙をくべて焚いたような匂い。ユウトは眉をひそめ、ランタンを掲げて周囲を見回した。光の輪が、石壁の凹凸を舐めるように這い、影を揺らす。その揺れ方が、どこか、普段の迷宮の空気と違っていた。影は生き物のように、一拍遅れてユウトの動きを追いかけ、壁の裂け目に吸い込まれるように集まっていく。

十字路の右奥、岩壁の根元——。

「……亀裂?」

そこに、縦に走る細い割れ目があった。幅は人一人がようやくくぐれる程度。壁の凹凸に紛れて、じっと見ていなければ見過ごすような細さだった。ユウトは協会配布の迷宮地図を懐から引き出した。震える指でページを捲る。羊皮の乾いた音が、静まり返った十字路に、やけに大きく響いた。

灰銀坑、第八層、北東十字路。地図には『行き止まり』とだけ書かれていた。亀裂の記載など、どこにもない。

心臓が、一度、大きく跳ねた。次いで、二度、三度。胸郭の内側を拳で叩かれているような鼓動が、耳の奥にまで響いてくる。

「……未踏層」

灰銀坑は既知の迷宮だ。初探索から七十年以上、数え切れないハンターが踏破してきた。その地図に、記載のない亀裂がある。普通ならここで引き返すべきだった。報告して、記録して、より高位のパーティに譲るべきだ。ユウトの立場は戦力外。装備は粗末。契約魔物はゼロ。

だが——。

亀裂から、ひゅう、と微かな風が吹いてきた。冷たい。氷の刃で頬を撫でられたように冷たい。そしてその風に乗って、さっきの乾いた匂い。紙ではなく、もっと重い何か。革。鱗。古い鉱石の錆。それらが混じり合って、肺の奥に沈み込んでくる。吸い込むたびに、喉の奥が痺れるような、奇妙な甘さがあった。舌の根が、ほんのわずかに甘苦い。まるで、深い井戸の底から汲み上げた水を、初めて口に含んだときのような。

胸元の契約書が、はっきりと、熱を帯びた。

「……これは」

親指の腹が、焦がされそうに熱い。ユウトは反射的に羊皮紙を引きずり出す。擦れかけていた古語の呪文が、針先ほどの光を纏い、羊皮紙の縁でちりちりと脈打っていた。蛍のように、息をするように、光は明滅していた。ユウトの鼓動と、奇妙なほど、同じ拍子で。指先に伝わる熱は、もう気のせいでは済まなかった。掌全体が、内側から炙られるように熱を持ち、それは不思議と、痛みではなく——懐かしさに近かった。

「じっちゃん、これ、一体——」

祖父は死ぬ間際、病床の枕元で一度だけ言ったのだ。「これが熱を持つ日が来たら、迷うな」と。迷うな、とだけ。あの日の祖父の目は、死の淵にいるとは思えないほど澄んでいて、まるで遠い場所を見据えているようだった。

ユウトは亀裂を見つめた。《赤翼》が戻るまで、少なくとも二時間はかかる。その間、誰にも気づかれずに戻ってくる事ができる。それに——妹の薬代は、今日の報酬では到底足りない。未踏層に入って、もし、小さなドロップの一つでも持ち帰れれば。

イリスの、紙のように白い唇が脳裏をよぎった。

足が、一歩、踏み出していた。

壁の亀裂に肩を差し入れ、身体を斜めに捩じる。岩の冷たさが頬をこすり、獣皮の匂いが鼻腔に押し寄せた。亀裂の奥は、思ったより深かった。三歩。五歩。十歩。背負子が岩に擦れる度に、ざりざりと乾いた音が鳴り、その音がやけに大きく、自分の耳の内側で反響した。

ランタンの灯りが、ふいに、広い空間に吸い込まれた。

✳︎

階段は途中で途切れていた。

ユウトはランタンを掲げ、足元を照らす。自分が立っている石段の先、足場は不自然に半ばで崩れ、その向こうに漆黒の空間が口を開けていた。冷たい空気が頬を撫でる。微かに、何か古いものの匂いがした。千年、あるいはそれ以上、誰にも嗅がれずに澱み続けた空気の匂い。

「……これは、聞いていない」

既知のはずのこの迷宮に、未踏の層が隠されているなど、誰一人語っていなかった。協会の記録にも、祖父の手帳にも。

そして、ランタンの光が届かないその漆黒の奥で——。

鎖の、擦れる音が、一度、鳴った。

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