第3話
第3話
正午の鐘が、山寺の梢を縫って三たび響いた。
本営・榛名の幔幕には、風見家の直臣と寄騎衆、合わせて十七将が揃っていた。卓を囲むというより、卓の周りに重い甲冑を纏ったまま佇立している——という方が正しかった。炭火は昼のうちに一度落とされ、火鉢の灰の中央に細く熾火が残るだけであった。その熾の赤が、諸将の面を下から照らし、頬の皺の一本一本を深く刻み込んで見せていた。誰の息も、白くは濁らぬが、幽かに湿っていた。山の湿気が、具足の札板の隙間に染み入って、革紐の匂いを一層濃くしていた。
末席の貞景は、白い裃のまま、腰に小刀だけを差して座していた。卓の中央には、榛名から瑠璃野、蓮坂、霧隠に至る広域の絵図——父・頼定が存命の頃に幾度も墨を入れ直した「風見国縮図」——が広げられていた。絵図の朱い筆跡は、父が己の手で山襞を辿った痕である。少年は、その朱線に指を置かず、ただ目で辿った。指を置けば、父の筆致が崩れる気がした。
堂島三左衛門が、咳ひとつで口火を切った。
「赫羅帝国、三万。先鋒一万は、黒蛇なる将。本日中に、瑠璃野へ布陣する由」
諸将は頷いた。誰も、すぐには次を言わなかった。磯部が壁際に立ち、貞景の背後にだけ影を落として控えていた。沢から吹き上がる山気が、幔幕の裾を細かく揺らし、絵図の端を、指で押さえねば飛びそうな具合に震わせた。
「——籠城以外に、道はあるまい」
最初に声を上げたのは、古参の武将・郡代の西尾光房であった。赤銅の頬に、幾本もの古傷が走る男である。
「榛名の本郭は堅固。兵糧は蓄えてある。三万が攻め寄せても、二十日は保つ。二十日の間に、南方の四家に援軍を請えばよい」
「西尾殿」
別の老将が、低く遮った。寄騎衆を束ねる片岡兵庫である。
「四家が動くか。頼定殿が在りし日ならば、動きもしよう。だが——」
そこで、男は言葉を呑んだ。諸将の目が、一斉に貞景に落ち、そして逸らされた。十六の少年が、頼定の名の代わりになると、誰も思っていなかった。少年の細い肩に、その沈黙が、鎧よりも重くのしかかった。視線を逸らすその所作の、気遣いとも憐憫ともつかぬ柔らかさが、かえって少年の胸を深く刺した。憐れまれる——それは、頼られぬということであった。
「援軍、来ぬ」
片岡は続けた。「来ても、半月後。二十日のうちに、榛名の兵糧は尽き、半月のうちに、兵の士気は崩れる。籠城は、地獄を長引かせるのみにござる」
「では、打って出るか」
誰かが呟いた。応える者はいなかった。二千で三万と野戦——それは兵書を読まぬ者でも、悪手と知る。
幔幕の端で、恰幅のよい武将が、ついに口を開いた。風見家譜代、伊那郷の地頭・工藤図書助である。頭髪の半ばが白く、父と同年の古武士であった。
「——降る、という道も、ある」
場が、一瞬で凍った。
「工藤殿!」
堂島が目を剥いた。工藤は動じなかった。その目は、卓の上の絵図ではなく、幔幕の隙間から覗く山嶺の煙を見ていた。
「勝てぬ戦で、兵を磨り潰すは、将の器に非ず。我が伊那には、九百の民がおる。その民を、灰にしてよいか。黒蛇は、降将には寛いと聞く。——若君の御身、御安泰のままに、赫羅の客将として迎えられる道もあろう」
「黙られよ」
堂島の声が、低く吠えた。「頼定殿の御骸が、まだ温みを残しておる。その御前で、降の字を吐くか」
「温みだけでは、民は食えぬ」
工藤は動かなかった。顎を引き、床几に据えた両の拳は、微かに震えていた。震えながら、それでも、男は言い切った。「堂島殿。御恩と、民の命と、天秤に掛ければ——」
「工藤殿」
西尾も声を荒げた。「お主、血迷うたか」
諸将の間で、籠城派と降伏派に、声が分かれ始めた。怒号に近い応酬が、幔幕の布を幾度も打った。甲冑の金具が鳴り、鞘と鞘が触れ合う硬い音が、卓の端で鋭く走った。幔幕の柱が、幾度も軋みを重ねた。誰かが床几を蹴り、別の誰かが拳で卓を叩いた。絵図の端が浮き、父の朱線が、微かに揺れた。怒号と怒号の合間に、伊那から従ってきた若侍が袖で目を拭う気配があり、別の老臣は数珠の房を無意識に握り潰していた。誰もが、己の正しさを叫びながら、その声の底に、同じ一つの怯えを抱えていた。——主を失った家は、何処から崩れるのか、と。
卓の末席。
貞景は、動かなかった。
諸将の怒号は、耳に届いていた。届いていたが、少年の意識は、その声の波の、さらに下——卓上の絵図の、朱線と墨線の交点に、深く沈んでいた。
霧隠の嶺。蓮坂。瑠璃野。そして、その背後を北に遡る、一本の細い墨線——赫羅帝国から三万を運ぶ、唯一の兵站路であった。父の筆は、その路の要所要所に、小さな朱点を打っていた。朱点は、三箇所。峠、峠、峠——いずれも山襞が最も細く絞れる隘路である。
父は、知っていたのだ。
——地形は兵に非ず、兵の延長なり。
昨夜、「地の部」の余白で読んだ朱墨が、胸の奥で再び立ち上がった。その声は、諸将の怒号を貫いて、少年の耳の奥に直に注がれた。貞景は、絵図の朱点を、一つ、二つ、三つと目で辿った。辿り終えたとき、少年の指先は、ごく自然に袖の下で結ばれ、掌の爪が、昨日と同じ位置に食い込んだ。爪の痕は、まだ癒えぬまま、同じ皮膚の同じ場所を、再び薄く裂いた。小さな痛みが、かえって、少年の背筋を一本の柱のように立たせた。
——三万を食わせるのは、誰だ。
胸の中で、小さく問うた。答えは、絵図の墨線が語っていた。兵ではない。民でもない。糧秣を担ぐ輜重隊だ。その輜重隊が越える峠は、三つ。三つの峠を、同時に抑えれば——三万は、戦わずして、飢える。
呼吸が、すっと深くなった。夜の間、兵法書の冷たさを胸に抱いて失神のように眠った少年の内側に、今、父の朱墨と、卓の絵図が、一本の線で繋がった。紙の角が胸を押した痛みが、まだ、肋の下に残っていた。その痛みが、もう怯えではなく、一つの確信の在り処として、少年の内に据わっていた。
「——補給線を、断てば」
少年の声は、小さかった。
だが、幔幕の中の怒号が、一瞬、奇妙に凪いだ。末席からの、変声を終えたばかりの細い声——それを、諸将の耳は、ほとんど反射のように捉えた。
「補給線を断てば、三万は、自ら崩れ申す」
貞景は、ゆっくりと顔を上げた。
瞳の底には、昨夜の涙も、朝の煤けた赤みもなかった。代わりに、父が戦図の上に打った朱点の、あの鋭い赤だけがあった。十六の眼は、卓の中央の絵図を、静かに指し示した。
「赫羅より三万を運ぶ兵站路、ここ——天堂峠、狼牙峠、岩倉峠。三つの隘路が、三万の喉笛にございます。いずれも山襞が細く、大勢を展開できぬ地形。少数で、抑えがききまする」
諸将の視線が、一斉に少年の白い指先へ落ちた。工藤が、声を失った。西尾が、唇を半開きにしたまま動かなかった。片岡の喉仏が、ひとつ、音もなく上下した。
「籠城に非ず。降伏に非ず」
貞景は、父の朱線の上に、そっと己の指を添えた。朱線の冷たい温度が、指の腹に伝わった。その冷たさの芯に、昨夜と同じ熱が、微かに脈打っていた。父の筆致は、もはや崩れなかった。少年の指が触れたことで、かえって、その朱は、生者の指と共に、もう一度立ち上がったように見えた。
「三万を、我らが斬る要はありませぬ。三万は、己の腹が、己を斬り申す」
幔幕の中が、長い、異様な沈黙に沈んだ。
誰も、すぐには応えなかった。炭火の熾が、ちり、と小さく爆ぜた。
最初に動いたのは、工藤図書助だった。恰幅の良い老武将は、重い息を、胸の底から吐いた。その息は、降伏の二文字を呑み込む息であったのか、少年の策を嘲る息であったのか——この時、誰にも、判じがつかなかった。
西尾光房が、口の端を歪めた。嗤った、と見えた。
「……若君」
西尾の声は、低かった。「兵書を読まれたは、結構。なれど、三つの峠を同時に抑えると仰せか。二千の兵で。三万を前に。——童の戯れ言にも、程がござろう」
嘲笑が、籠城派の幾人かから、低く漏れた。幔幕の隅で、若い磯部が、拳を強く握ったのが見えた。磯部の肩が、細かく震えていた。それは憤りの震えであって、怯えの震えではなかった。
貞景は、動じなかった。まだ動く段ではないと、自ら己の背を押し戻していた。嘲笑の一つひとつが、小刀の先で皮膚を撫でるように少年の頬を掠めたが、少年は、その感触を、ただ受け流した。父が朱点を打った夜、父もまた、誰かに嗤われたやもしれぬ——そう思えば、嘲笑は、父との距離を縮める音にさえ、聞こえた。
堂島三左衛門だけが、微動だにせず、卓の絵図の、少年の指先を、じっと見つめていた。白い髭の先が、ほんの一度、深く縦に揺れた。
山の上で、鴉が、もう一声鳴いた。