第2話
第2話
朝は、来なかったように思えた。
霧隠の山嶺が燃え尽きるまで、一夜があった。山襞の向こう、赤い光はやがて黒い煙の柱へと変わり、朝陽がその煙を斜めに貫くころ、本営・榛名の兵は皆、無言で甲冑を外した。葬儀の支度である。
御遺骸は、帰らぬ。遺髪も、遺品も、ことごとく炎の中に失われた。代わりに、父・頼定が馬を繋いだ手綱の切れ端、軍配の柄、出陣前夜に書き残した書簡の束——それらが小さな白木の櫃に納められ、山裾の古き社の前に据えられた。香木が焚かれ、煙が幔幕の入口から細く立ち上り、沢の湿った風と混じって、山全体を薄青く染めた。香の匂いの奥には、まだ焼け野の匂いが残っていた。風向きが変わるたび、兵らの鼻腔を焦げた木の苦い香りが撫で、その都度、誰かが小さく咳き込んだ。その咳の音さえ、葬列の静寂の中では、刃物のように鋭く響いた。
貞景は、白い裃に着替えていた。肩の線が、昨日より一段と細く見えた。副官・磯部が袖の皺を整え、家老・堂島が鞘の位置を直す。そのどちらの指も、微かに震えていた。
「若」
堂島が、声を落として囁いた。「無理を、なさいますな」
貞景は小さく頷いた。頷く、という動作だけで、夜の間に溜まった疲れが滲み出た。瞼の底は煤けて赤く、唇は色を失っている。昨夜、兵法書「陰陽万機」の一巻目を胸に抱いたまま、少年はほとんど眠らなかった。炭火の灰が白く変わるまで、朱墨の八文字だけを何度も目で追っていた。指先は冷え切り、紙の端を捲るたびに微かに音が立った。その乾いた音だけが、父のいない幔幕で、少年の傍らに残された唯一の音であった。
風が、社の幟を揺らした。山桜の花弁が一枚、櫃の上に落ち、そのまま動かなかった。花弁は、父の筆致のように、白木の天に儚く貼り付いた。
読経の声が、松の梢を抜けて空へと吸われていった。低い声の束が、時折、風の切れ目で揺らぎ、また整う。貞景はその波の中で、父の低い咳払いの癖を一瞬、思い出した。
諸将が、ひとり、またひとりと櫃の前に進み、香を供えた。直臣の列が尽きると、寄騎の国人衆、さらに百姓役、炊きの女——身分の順を越えて、山裾の石畳に長蛇の列が伸びた。列の末尾は、まだ山の中腹にあった。
「頼定さまの御恩を、忘れはしませぬ」
泥のついた掌を合わせ、老農が呟いた。その背に、十ばかりの若者が続いた。どの目も赤かった。どの肩も震えていた。父が三十年、この国境を守り続けた歳月が、その涙の数だけ積み上げられているように見えた。
貞景は、櫃の脇に立って、ひとりひとりの顔を目で追った。顔、顔、顔。鍛冶の女房、炭焼きの爺、弓を引かぬ百姓の子ら——父が、その生を賭して守ってきた「民」が、そこにあった。鍛冶の女房の掌には、鉄を打つ豆があった。炭焼きの爺の爪の奥には、黒い煤が染み付いていた。百姓の子の頬は日焼けて、鼻先だけが、泣いたあとの紅色に腫れていた。それらの掌が、一つずつ、櫃の前で合わされる音——乾いた、小さな、無数の掌の音——が、少年の耳の奥に、雨のように降り積もった。
胸の奥で、昨夜の朱墨の文字が、再び立ち上がった。
守るべきは、民。勝つべきは、策で。
八文字が、今度は意味の全てを伴って、少年の内側を貫いた。刃のようであった。刃であるのに、不思議と熱かった。涙が、ふいに瞼の縁に盛り上がった。だが、こぼさなかった。こぼせば、列の末の百姓が見る。家臣が見る。敵方の間諜が、万が一にでも紛れていれば——見る。少年は歯を食いしばり、涙を顎の内側へ呑み込んだ。舌に、鉄の味がした。頬の内側を、奥歯が知らず噛み切っていた。その痛みを、少年は、むしろありがたいと思った。痛みが、今は、背筋を立てる支柱だった。
葬儀の終わり、櫃は白布で覆われ、社の奥に納められた。諸将は幔幕へ戻り、卓を囲んで黙々と粥を啜った。貞景は、粥椀に箸をつけなかった。代わりに、再び長櫃の前に座した。
「天の部——虚実」 「地の部——形勢」 「人の部——心略」 「時の部——機変」 「命の部——生死」
五巻を改めて並べた。昨夜は「天の部」の余白にのみ目を奪われた。しかし、父の朱墨は——全ての巻の、全ての余白に、血のごとく細く、密に、書き込まれていた。
「地の部」の注釈で、指が止まった。 ――地形は兵に非ず、兵の延長なり。谷を知る者は谷で戦え。川を知る者は川で戦え。知らぬ地で戦うは、素手で火を握るに等し。
「人の部」には、こうあった。 ――兵は数に非ず、意志の総和なり。千の意志を一つに束ねる者、これを将と言う。
「命の部」の余白で、少年は再び息を呑んだ。 ――兵書は、敵を殺すためにあらず。味方を生かすためにあり。将の功は、斬り捨てた首の数にあらず、連れ帰った兵の数にあり。
父の筆は、一貫していた。少年は、紙の冷たさの奥で、父の掌の温度をまた思い出した。「お前は、お前の器で戦えばよい」——幼い頃、そう言った父の、節くれだった大きな掌。その掌は、剣胼胝で硬く、指の付け根に古傷があった。幼い貞景が、その傷の凹みを指でなぞると、父は決まって黙って笑い、頭の天辺に重い掌を載せた。掌の重みは、今、兵法書五巻の重みと、不思議に重なっていた。
少年は、五巻を胸に抱いた。涙は、やはり出なかった。出してはならぬ、と己に命じた。
夜半、幔幕の炭火はすっかり白い灰に変わっていた。
貞景は、兵法書を胸に抱いたまま、卓に突っ伏して眠っていた。眠り、というより、失神に近かった。磯部が気を遣って毛布を掛けようとしたとき、少年の頬に、ひとすじの細い痕があった。乾いた涙の跡だった。磯部は何も言わず、毛布を掛け、静かに幔幕を退いた。幔幕の外で、老副官は天を仰ぎ、口の中で小さく念仏を唱えた。星は、薄い雲の向こうで、瞬くのを忘れたように、ただ凍っていた。
やがて、遠くで、鈴の音が鳴った。
早馬の鈴である。山道を駆け下りる馬蹄の音が、沢音を裂いて近づいてくる。蹄が小石を蹴散らす乾いた音、鈴の金属が喉を引き攣らせるような甲高い連打——それらは夜気を破り、眠る兵らの脊髄を一人ずつ叩き起こした。物見の兵の叫ぶ声が、幔幕を揺らした。
「急使! 国境より急使!」
貞景は目を覚ました。頬を濡らしていた涙は、すでに乾いていた。裃の胸元で、兵法書の角が、少年の胸を押していた。心の臓の位置に、固い木の角が当たっていた。その痛みが、少年を一気に現実へと引き戻した。
幔幕の外で、男が馬から転げ落ちるように降り、地に片膝をついた。全身が泥と血に塗れていた。頬に深い裂傷があり、血が顎を伝って赤い玉を作っていた。風見家の早馬足軽——志野と名乗る若者であった。肩で荒く息を吐くたび、胸当ての金具が、かちゃ、かちゃ、と乾いた音を立てた。
「申し上げます——」
志野の声が、震えていた。喘ぎながら、両手で地を掴んで、なお言葉を絞り出した。指先は泥に食い込み、爪の間に血の筋が入っていた。
「赫羅帝国、本隊三万——霧隠の嶺を越え、国境の蓮坂を突破。一昨日夜、蓮坂城が落ちました。守将・佐久間四郎兵衛殿、御首級、敵方の槍に晒されておりまする」
卓の上の湯呑が、かたりと音を立てた。磯部が息を呑んだ。堂島の顎の髭が、細く震えた。誰も、すぐには口を開かなかった。幔幕の隙間から流れ込む夜気が、急に冷たく感じられた。
蓮坂。本営・榛名から、わずか二十里。三万の大軍が、地平の向こう、もう手を伸ばせば触れる距離まで来ている。
「先鋒は、何処まで」
貞景が、低く問うた。自分でも驚くほど、声は静かだった。その静けさに、自分で耳を疑った。心の臓は早鐘のように胸の骨を打っているのに、喉から出る声だけが、別人のように凪いでいた。
「先鋒一万、黒蛇なる将が率い、今宵にも瑠璃野の平原に布陣する由にござる」
黒蛇——名を耳にした瞬間、堂島の眉がひくりと動いた。赫羅帝国の悍将にして、奇策をもって鳴らす男。霧隠城を落としたのも、この男の手であった、と巷間に囁かれている。鞭のような冷笑で兵を動かし、敗将の首を旗の先に晒して悦ぶ、という噂も、風に乗って幾度か山を越えて来ていた。
「二千対、三万」
堂島が呟いた。その声には、呻きが混じっていた。「しかも、黒蛇」
幔幕の中に、沈黙が落ちた。諸将は互いの顔を見た。勝ち目はない。誰の目にも、そう書かれていた。籠城すれば兵糧は二十日と持たぬ。打って出れば、一日で磨り潰される。降伏——それを口にする者は、まだいない。だが、胸の底では、皆、その二文字を思い始めていた。幔幕の柱が、風に微かに軋んだ。その軋みが、誰かの喉の奥で呑み込まれた唾の音のように、長く尾を引いた。
貞景は、兵法書を卓の上に置いた。五巻の重みが、木の卓に低く響いた。
少年は、目を上げた。その瞳の奥に、昨夜の涙と、朝の日差しが、同時に宿っていた。
「堂島。諸将を集めてほしい。本日、正午、軍議を開く」
風が、幔幕の布を強く打った。
山の上から、鴉が一羽、声を落としながら西へ飛んだ。西——赫羅の先鋒が、今、布陣へ向かっている方角であった。
貞景は、早馬の志野に水を運ばせ、手ずから椀を差し出した。若い足軽は、少年の白い指を見て、一瞬、椀を受け取るのを躊躇った。その躊躇の奥に、驚きと、怯えと、何か拝むような光が、同時に揺れていた。
「飲め。働きに、まず水だ」
志野は頭を下げ、椀に口をつけた。水が顎の裂傷に沁み、男は身を震わせたが、一息に飲み干した。空になった椀を両手で捧げ返す、その手の震えを、貞景は目の端で確かに捉えた。捉えたまま、表情を動かさなかった。動かしてはならぬ、と己に課した。この若者の命を、次の戦で、自分は使うことになる。使う者が、揺れていてはならぬ。
幔幕の奥で、堂島が諸将の名を一つずつ呼び出している。古参の武将たちが、重い甲冑を纏い直し、卓の周りに集まり始めた。甲冑の擦れる音、草摺の金具が触れ合う澄んだ響き、革の軋み——それらが幔幕の中に、戦の匂いを少しずつ連れ戻した。皆、少年の顔を見て、それから兵法書を見て、言葉を呑んだ。
正午の鐘が、遠く山寺で鳴り始めた。
軍議の火蓋が、静かに、切られようとしていた。