第1話
第1話
烽火は三度上がって、そのまま途絶えた。
北辺の山嶺を這う霧の向こうで、赤い光が明滅し、やがて闇に呑まれた。霧隠城の陥落を知らせる合図は、最後の一報を残す前に消えたのだ。本営・榛名の仮陣に詰めた物見の兵たちは、遠い山の稜線を見つめたまま、しばらく言葉を失った。誰ひとり、息を継ぐことさえ忘れていた。
風が変わった。北から吹き下ろしていた乾いた風に、血の匂いに似た湿りが混じる。雪解けの水が岩を伝い、沢を膨らませる季節——この山国では毎年巡ってくる春の景色だが、今年の春は重かった。
「将軍は……」
若い伝令が掠れた声で問うた。返答はなかった。老いた物見頭が、ただ首を横に振る。その指先は、まだ微かに震えていた。歯の根の合わぬ音が、冑の下でかちかちと鳴っていた。
本営の幔幕の中、諸将が卓を囲んだまま凍りついていた。炭火の爆ぜる音だけが、幔幕の内を小さく穿つ。誰かの湯呑が、卓上で震え、茶の表面に細い波紋が立った。
「頼定殿が、城と共に……」
誰かが呟いた言葉が、湯気の立ち上る茶釜の上で散り、溶けた。風見頼定。北辺の守将にして、武勇をもって鳴らした風見家当主。寡兵わずか八百で、赫羅帝国の先鋒一万を二日食い止め、城と共に斃れた。
卓の末席で、少年が膝の上の拳を固く握っていた。
風見貞景、十六歳。白皙の頬はこの数日ですっかり削げ落ち、唇の端が小刻みに震えている。鎧を纏った肩が、実の父の訃報を受け止めきれずに、かろうじて骨を立てている——そんな痩せ方をしていた。
「若。お下がりください」
背後から副官・磯部が押し殺した声で言った。貞景は動かない。動けなかった、というほうが正しい。膝の上の拳の爪が、己の掌を割いていることにも、少年は気づいていなかった。掌に滲んだ熱い滴が、袴の膝に小さな染みを作っていた。
幼少から病がちの体だった。弓を引けば肘が痛み、槍を振れば肩を外す。武門の家に生まれながら、父の背中を戦場で守る将にはなれぬと、幼い頃から諦めていた。代わりに、父は少年に書を与えた。漢籍、地理書、暦、そして一族に伝わる兵法の写本——紙の海で育った少年に、父は言ったものだ。
「戦は、剣だけで決まるものではない。お前は、お前の器で戦えばよい」
そう言った父の掌の温度を、貞景はまだ覚えている。大きく、節くれだって、剣だこが幾重にも重なった、しかし不思議と柔らかい掌だった。
「若」
磯部が重ねて言った。「御遺骸は戻って参りませぬ。城と共に、炎の中に」
貞景は頷いた。頷いただけで、声が出なかった。喉の奥に、熱い鉄の塊が詰まっているようだった。
幔幕の外で、ざわめきが広がっていく。風見家の直臣、寄騎の国人衆、兵糧を運ぶ百姓役。報せは瞬く間に全軍に広がり、夜営の篝火が一斉に揺れた。泣く者がいた。拳で柱を打つ者がいた。老兵が無言で甲冑を脱ぎ、土間に正座して黙祷を始めた。
貞景は幔幕を出た。
夜気が顔に当たった。山気は冷たく、吐く息が白く尾を引く。沢の水音が遠く、近く、繰り返し響く。地に伏した兵のひとりが、貞景の足元で突っ伏したまま動かなかった。死んでいるのではない、泣いていた。三十年、頼定に仕えた老兵だった。その肩が、寒風の中で小さく波打ち、声にならぬ嗚咽が、土に吸われていく。
——守るべきは、この男たちか。
ふと、そんな考えが胸をよぎった。父の遺した兵。父の遺した民。父の遺した、家。十六の少年が背負うには、あまりに重すぎる。肩の鎧が、ずしりと骨に食い込んだ。
「貞景さま」
家老・堂島三左衛門が闇の中から姿を現した。五十を越えた老将で、父が最も信頼していた男である。顎に白いものが混じった髭を湛え、その目はまだ湿っていた。足音もなく近づいたその老将の甲冑には、夜露が細かな粒となって貼り付き、篝火の明かりに小さく金色に光っていた。
「御先代より、預かっておるものがござる」
堂島の手には、漆塗りの長櫃が抱えられていた。黒漆に朱で描かれた風見の家紋——両輪に月。少年はそれを見た瞬間、胸の奥が冷たく縮んだ。
「陰陽万機。一族伝来の兵法書にござる。御先代は出陣の前夜、これを若様に渡せと、そう仰せでござった」
幔幕に戻り、卓の上に長櫃を置いた。蓋の合わせ目に、父の直筆で封がしてあった。墨の滲みが、少し歪んでいる。戦支度の夜、急いて書いたと見えた。筆を握る手が、どれほど休まぬ疲れに震えていたか——その歪みが、そのまま父の最後の息遣いを伝えてくるようで、貞景は一瞬、指を引きかけた。
爪の下まで冷えた指先で封を剥ぎ、蓋を開く。中には、古びた和綴じの巻が五冊、麻紐で束ねてあった。表紙の紙は黄ばみ、角が擦り切れ、何代にもわたって読み継がれた書物の匂い——墨と膠と、微かな白檀の香が漂った。その香は、幼い頃、父の書斎で嗅いだ香と、寸分違わぬものだった。
最初の一巻を手に取った。思ったより重い。紙の重みではなく、積み上げられた時間の重みだった。表題「天の部——虚実」。指が紙を送る。一行目から、見慣れぬ古い字体で兵の理が説かれていた。風林火山、奇正、五事七計。孫子を下敷きにしながらも、風見家歴代の実戦で彫琢された独自の注釈が、細く、密に、朱の墨で書き込まれていた。
その、朱墨の中に——
少年の指が止まった。
ひときわ新しい墨の色があった。他の朱よりも艶やかで、まだ乾ききっていないような、生き生きとした字体。父の筆だ。見間違うはずがない。幼い頃、手習いの横で何度も眺めた、あの伸びやかな払い。「虚実」の章の余白に、父は書き込んでいた。
「守るべきは民。勝つべきは策で」
貞景の呼吸が、止まった。
胸の奥で、何かがゆっくりと崩れ落ちる音がした。炭火の爆ぜる音さえ、遠のいて聞こえた。紙の上の八文字が、ふいに立ち上がり、少年の耳許で父の声となって囁いた——あの、諭すような、低く深い声で。
堂島が覗き込むのを、少年は制した。頁を繰る。次の章、また次の章。父の新しい注釈は、至るところにあった。曰く——「寡兵が大兵と戦うは、天の理に反するに非ず。地の利と人の和を掴めば、理は傾く」。曰く——「兵を損ずることなかれ。一人を失えば、一家が欠ける」。
少年の目が、文字の行間を走った。一字一字が、父の声で読み上げられるようだった。低く、静かで、諭すような、あの声で。
これは、教えだ。父が、自分に宛てて遺した教えだ。戦場に出れぬ病弱な我が子が、いつか家を背負わねばならぬ日のために——父は戦の合間に、灯火の下で、一字一字、書き遺していたのだ。紙の端に残る微かな蝋の跡が、その夜々の灯火を物語っていた。指先でそっと撫でると、その蝋の粒は乾いた冷たさの中に、父の徹夜の影を宿しているようだった。
「……父上は」
貞景が、呻くように言った。
「父上は、御自身が戻られぬことを、御存じだったのですか」
堂島は答えなかった。答えられなかった。老将の喉が、ひとつ、音を立てて動いた。それが、答えだった。白い髭の先が、震えてひとすじの涙を受け止めていた。
少年は、巻を胸に抱いた。紙の冷たさが、胴に沁み込んだ。冷たかった。だが、その冷たさの芯に、微かな熱があった。父の指が、この紙を繰った熱だ。父の筆が、この朱を置いた熱だ。
涙は、まだ出なかった。出すわけにはいかぬ、と歯を食いしばった。父の掌は大きかった。父の声は低かった。父の馬は駆け、父の槍は閃き、父の鎧は泥と血で黒かった。そのすべてを、十六の少年は、胸の内側に畳み込んだ。
「堂島。明朝、諸将を集めてほしい。父上の御遺志を、お聞きせねばならぬ」
老将は瞠目し、それから、深く頭を下げた。その背が、微かに揺れていた。
風が、幔幕を揺らした。沢の音が、やや強くなっていた。山上からの雪解け水が、夜の闇を縫って下流へ下っていく。その水は、いずれ川となり、野に出て、畑を潤し、民の暮らしを支える——父が守ろうとしたものの、その底を流れる水だ。
遠くの山嶺で、また一度、赤い光が明滅した。
今度は、烽火ではなかった。炎だった。霧隠城の残り火が、まだ燃えているのだ。山襞の向こう、夜気を赤く染めながら、城のかたちを最後まで保っている。
貞景は幔幕の外に出て、その炎を見た。
北辺の煙の下には、父の骸がある。そして、その煙の向こう——嶺を越えた先には、赫羅帝国三万の本隊が、今まさに国境へと殺到している。明朝、最初の早馬が届くだろう。そのあと、少年は、父の遺した二千の兵を率いる者として、生涯で初めての軍議に臨まねばならぬ。
胸に抱いた一巻は、まだ冷たかった。
だが、その冷たさの芯で、父の朱墨が、微かに熱を持って脈打っていた。