第2話
第2話
松明の光は、岩肌を一筆ずつ舐めるように這ってきた。
ベオは息を殺し、鶴嘴の柄に指を絡めた。坑道の天井から落ちる雫が、首筋に冷たい筋を引いた。火薬の匂いに、油と鉄の匂いが混じる。新しい鎧の油だ。鉱夫が纏う革鎧の獣脂とは、明らかに違う。
「殿下、お下がりを」
マルシスが潰れた左耳を岩壁に当て、足音の数を数えていた。一、二、――一。やはり一人だった。だが軽い。鎖帷子を着ながら、靴底で岩の凹凸を読み、踵を浮かせて歩く者の足取りだった。
ベオの記憶が、痺れた。三年前、王都陥落の夜、玉座の間に駆け込んできた簒奪将軍の親衛隊長。あの男も、こうして靴底で石廊を読みながら、近衛の屍を踏み越えた。
レオニスは、錆びた剣を抜いた。刃の欠けが、松明の光を捉え、冬の坑道に鈍い線を引いた。獅子の柄頭が、掌の汗を吸う。
「ヨルン」ガレンが、低く呼んだ。偽名であった。「殿下、ではない。ヨルン」
老騎士の意図は、瞬時にわかった。――もしこの追っ手が、ただの巡察隊ならば、王子の名を呼べば終わる。坑夫ヨルンであれば、まだ生き延びる目がある。
レオニスは、頷いた。剣を背に隠した。ベオが闇の奥から、低い口笛を返した。男の歩みは、止まらなかった。
そして、岩の角を曲がり、松明の主が、姿を現した。
二十代後半。長身。黒い鎖帷子の上に、土と血で汚れた外套を羽織っている。腰の長剣は、王都流の細身の片刃。鞘の革に、簒奪王家の蛇の紋が、半ば擦り消されていた。男は松明を頭上に掲げ、坑道の闇を見渡した。視線は、岩壁に並ぶ十四人の影を、一人ずつ数えた。
「――ファルスヴェルン王家の、生き残りだな」
男の声は、低く、息は乱れていなかった。だが外套の裾には、新しい返り血が、朝露のように散っていた。
ヨハンが、剣を引き抜いた。錆の刃が、空気を裂いた。
「動くな」マルシスが、潰れた左耳でヨハンを止めた。「一人だ。一人で坑道の裏口を抜ける者は、相応の事情を抱えておる」
「一人で来るほど、馬鹿か」ヨハンが、唇の端を歪めた。
男は、両手を広げて見せた。長剣は鞘に収まったままだった。指は、関節の節々に古い切創が残り、爪の根に乾いた血が黒く溜まっている。最近、剣を振った手だった。
「カイゼル・フォン・ラスベルグ」男は名乗った。「ラスベルグ将軍の、長子だ」
坑道の空気が、止まった。
ベオの口の中に、鉄の味が湧いた。三年前、王都の城門を破り、近衛を屠り、玉座の間に蛇の旗を立てた男。父王クライドの首を斬り、レオニスの母を石廊で害した将軍。その男の――息子。
ヨハンの錆剣が、震えた。マルシスの手が、腰の短剣にかかった。ベオの指が、火薬樽の導火線を、無意識に手繰った。
ガレンだけが、動かなかった。老騎士は、石壁を背に座したまま、皺の奥の瞳でカイゼルを見据えた。三十年、王旗を掲げ続けた男の視線だった。
「――何の用じゃ」ガレンの声は、低く、湿っていた。
カイゼルは、松明を岩棚に置いた。両手を、もう一度広げた。
「同じ穴に、逃げ込んだだけだ」
「逃げ込んだ、と申すか」
「俺の首にも、賞金がかかっている。三日前から、銀貨二百枚で」
カイゼルは、外套を僅かにめくった。脇腹に、新しい刺し傷があった。応急の麻布が、黒く染まっていた。鎖帷子の腹の環が、二輪、断ち切られていた。長剣ではない。短弩の矢じりに抉られた跡だった。
「父が、枢機卿に切られた」カイゼルは、静かに言った。「先月の宮中宴で、飲み物に毒。三日と保たずに死んだ。今は枢機卿派が、王宮を握っている。――俺は、父の遺領を継ぐ前に、家臣ごと焼かれかけた」
マルシスが、潰れた左耳を、僅かに傾けた。男の話の節々に、嘘の節がないかを聞き分ける耳だった。
「証は」マルシスが訊いた。
カイゼルは、外套の内から、一通の書状を取り出した。蝋封は、枢機卿庁の鷲の紋。封は、既に破られていた。文面は短い。――ラスベルグ家、領地没収、当主処断。家名の下に、カイゼルを含む親族六名の名が、列記されていた。
ヨハンが、書状を奪い、松明の光に翳した。文字を一行ずつ追い、最後に、低く息を吐いた。
「本物だ」ヨハンが言った。「枢機卿庁の書記の、癖の強い跳ねがある。三年前、降伏勧告状で何度も見た筆だ」
カイゼルは、書状を取り戻し、外套の内に戻した。それから、レオニスを真っ直ぐに見た。
「ファルスヴェルンの王子よ」カイゼルは言った。「俺は貴殿の父を殺した男の、息子だ。貴殿が俺をここで斬っても、誰も咎めぬ。――だが、斬る前に、聞け」
「……聞くものか」ヨハンが呻いた。
「貴殿の敵は、もう俺の父ではない」カイゼルは言った。「枢機卿だ。あの男が、塩税を課した。徴兵を倍にした。三領主を黙らせた。父の名で、すべてを布告している。父の死は、まだ国に伏せられている」
レオニスは、黙っていた。錆びた剣の柄が、掌の汗で滑った。胸の奥、父王の印章が、肋骨の内側で重さを増した。
ガレンが、ゆっくりと立ち上がった。
革鎧の関節が、軋んだ。老騎士は、杖代わりに錆びた剣を地に突き、一歩、カイゼルに歩み寄った。坑道の天井から落ちる雫が、ガレンの白髪の上で、一滴、跳ねた。
「ラスベルグの倅よ」ガレンの声は、掠れていた。「儂は、お主の父の顔を、よう覚えておる。三十年前、戴冠式の隊列で、儂の三歩後ろにおった。槍術の腕は、近衛で五指に入る男じゃった」
カイゼルは、視線を逸らさなかった。
「あの男が、王都の石廊で、何をしたか」ガレンは言った。「儂の腕の中で、王妃様が息を引き取られた。その間際、何と仰せられたか――お主に教えてやろうか」
カイゼルの喉が、動いた。
「『この子を、頼む』と、それだけ仰せられた」ガレンは言った。「殿下の御名を、最後まで口にされなんだ。そうすれば、敵に聞かれずに済むと、思し召されたのじゃ。――その『この子』が、今、お主の眼前に立っておる」
坑道の闇に、誰かの息を呑む音だけが、響いた。
カイゼルは、目を閉じた。それから、ゆっくりと、片膝を岩の上に落とした。鎖帷子が、岩を擦り、鈍い金属音を立てた。
「許しを請うのではない」カイゼルは言った。「父の罪は、父の罪だ。俺の手に贖えるものではない。――だが、俺の差し出す手の意味を、聞け」
「手、と申すか」ガレンは、錆剣を握る指に、力を込めた。
「枢機卿を、斬る」カイゼルは言った。「あの男が、父を毒で殺し、俺の家臣を焼き、王国の塩を握っている。俺が斬るには、兵が要る。貴殿らに玉座を取り戻させる。俺は枢機卿の首を貰う。――それで、貴殿らの家門の仇は、俺の父までで終いだ。俺は、終いの始末を、自分の手でつける」
「玉座を、儂らに、と」マルシスが、潰れた左耳を、僅かに動かした。
「俺は王にはならぬ」カイゼルは言った。「父の血で、玉座は穢れた。俺はラスベルグの家名を、自分の代で閉じる。それで、構わぬ」
ヨハンが、錆剣の切先を、カイゼルの喉元に突きつけた。刃の欠けが、男の咽喉の皮膚に、薄い赤い線を引いた。カイゼルは、瞬きもしなかった。
「殿下」ヨハンが、振り返らずに言った。「こやつの言うこと、一語たりとも信じてはなりませぬ。仇の息子が、易々と手を差し出す。裏が、ないはずがない」
「裏は、ある」カイゼルは静かに言った。「俺は、貴殿らを利用する。貴殿らも、俺を利用すればよい。同盟とは、信義ではなく、利の符合じゃ。それだけのことだ」
ガレンの皺の奥で、瞳が湿った。三十年前、王妃の最期の息を聞いた老騎士の瞳だった。その瞳が、レオニスを見た。
「殿下」ガレンは言った。「最後の御判断は、殿下に」
レオニスは、錆びた剣を、ゆっくりと鞘に納めた。胸の奥、父王の印章が、肋骨の内側で熱を持った。獅子と麦穂の紋。――民の塩を、民に。
「カイゼル・フォン・ラスベルグ」レオニスは言った。「貴殿の手の意味は、今宵、儂は聞き届けた。だが、握るかどうかは、明日の朝、ここで答える。それまでは、貴殿は捕虜だ。剣を、置け」
カイゼルは、ゆっくりと頷き、長剣を鞘ごと外し、岩の上に置いた。鞘の革に擦り消された蛇の紋が、松明の光に、赤く滲んだ。
その夜、ベオは坑道の入口に身を伏せ、外気の匂いを嗅いだ。
霜の匂いに、馬の汗の匂いが、僅かに混ざっていた。一頭ではない。十数頭。蹄鉄に布を巻いた、忍びの行軍だった。簒奪政権の巡察隊ではない。もっと小さく、もっと速い――暗殺者の足取りだった。
カイゼルの首を追ってきた、枢機卿庁の追手か。それとも、ラスベルグ家の残党が、主君を奪い返しに来たのか。
ベオは、坑道の闇に走り戻り、レオニスの足元に膝をついた。
「殿下」ベオは囁いた。「外に、十二、いや十四。馬を捨て、徒歩で坑口に近づいております」
レオニスは、岩棚で眠るカイゼルを見た。男の脇腹の刺し傷から、麻布の血が、静かに闇に滴っていた。明朝の答えを待たずに、運命の方が、坑道の入口に立っていた。
ガレンが、立ち上がった。錆びた剣の柄を、もう一度、掌で握り直した。