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灰狼の雷筒―観察者、旗を掲げる

第3話 第3話

第3話

第3話

雑木林の朝霧が、馬車の傾いだ車軸の影を長く伸ばしていた。

ガイウスは短剣を逆手に持ち替え、まず御者の骸の懐を改めた。羊皮紙の折り目は四つ。汗で湿り、端が黒く焦げている。矢を受けたあと、御者は一瞬だけ羊皮紙を懐に押し込もうとしたらしい。指の腹に、押し込んだときの皺が残っている。指の力みの方向と、矢の刺さった角度を見比べた。背を射抜かれてから死ぬまでに、半呼吸ほどの間があった。その半呼吸を、男は積荷の正体を隠すことに使った。

それだけで、積荷の値が知れる。

ガイウスは羊皮紙を開かず、まず馬車の周囲を一巡した。轍は雑木林の入り口で乱れ、車輪の片方が太い樹根に乗り上げて止まっている。御者は林の中で逃げ場を失ったのだ。蓋布の留め紐は、矢を受ける前に既に半ば解かれていた。襲撃者は荷を改めようとして、改めた途端に手を引いている。砂州で見た足跡の三人が、改めた末に何かを諦めたか、あるいは改めたうえで〈奪うな〉という命に従ったか。雇い主の指示は荷の中身まで見越していた、と読むのが筋だった。

馬車の後輪を肩で押し、半歩ぶん雑木の奥へ寄せた。腰の傷が裂け、革胴の内側に血が滲む。痛覚は別の部屋に置いて、手だけを動かした。蓋布の油紙を引き剥がす。油紙は朝露を吸って重く、剥がすたびに霜に似た微かな音を立てた。鋳鉄の筒は、二枚目の油紙の下にも、三枚目の下にもあった。並びは三門。間に薄板の仕切り。仕切りには藁が敷かれ、藁の隙間に細い陶壺が三つ寝かされていた。藁は新しく、穂先の乾いた匂いが立ち、陶壺の肩には麻紐で番号札が結わえてある。一、二、三と、律儀に順を振ってある筆致は、製造元ではなく、運ぶ者の手だった。

陶壺の口を、麻栓の上から指で押した。栓の弾力で、中身の粒の細かさが指の腹に伝わってくる。ひとつ抜き、掌に零した。黒い粉だった。

粒の角は鋭く、湿りを含まず、わずかに光を吸う黒だった。鼻先に近づける。硫黄、木炭、それに知らぬ何かが噛み合った匂い。鍛冶場の匂いではない。火薬職人が嗅いだら、何かを言うだろう種類の匂いだった。

舌先で、ほんの粒一つを試した。

苦みが舌の奥でひとつ跳ね、すぐに塩気に似た酸が立った。火薬。だが粗末な狼煙のそれではない。粒の角が立っているのは、押し固めて崩した粒火薬――工部の新式と聞いていたものに、形だけ似ている。舌の根の奥で、苦みは一度引いてから、もう一段深い鉄錆のような後味を残した。粒を噛み砕いたのは、粉のままでは測れぬものを測るためだった。十年前、狼煙筒の黒粉を舌に置いたときの酸とは、明らかに違う階層の酸だ。工部の新式は、ただ強いのではない。焼ける順を組み替えている。

掌の粉を風下に払い、ガイウスは筒の方へ視線を戻した。

筒の後端の小穴。火縄の通り穴とは違う。穴は浅く、外から内へ斜めに切ってあった。点火の炎を、筒の腹の中に走らせる細工だ。穴の縁にだけ、薄く煤の輪が残っている。試し撃ちを一度、ここで行った跡だった。撃った者は、撃った直後に煤を拭き忘れている。慌てて拭こうとして、間に合わなかった――矢が来たのは、その瞬間だ。

筒の内壁に指を入れ、滑らせた。指の腹に油と粉の混じった膜が薄く残る。鋳肌は思ったより滑らかではない。鋳造直後にざっと削いだだけで、最終仕上げを諦めている。試作。間違いない。試作を野に出し、野で運用試験をしている段階だ。帝国は、これを城攻めではなく野戦で使う気でいる。

ガイウスは筒の腹の銘文を、もう一度なぞった。〈雷〉の文字、〈陸〉の半字、それから三桁の番号。三桁ということは、少なくとも数百門単位で番号が振られている。数百は鋳られているか、鋳られる予定がある。試作の段階で、それだけの数の番号を打つ国は、本気だ。

「……野で動かし、野で並べる」

声に出した。声は雑木の幹に吸われ、すぐに消えた。

野で並べるなら、三門で一組ということになる。藁仕切りも、陶壺の数も、三という単位で組まれている。三門を一斉に火を噴かせるか、あるいは交互に撃たせるか。交互ならば、装填の隙を別の門が補う。歩兵の前列は崩れ、騎兵の突撃は間合いを詰める前に折れる。槍衾は意味を失う。城壁は要塞として残るが、野戦の主役はもはや人ではなくなる。

予感が背骨を撫で上げた。

それは、戦が変わる、という予感ではなかった。戦の変わり方を、自分が選べるかもしれぬ、という予感だった。観察者は予感を持たぬ。観察者は事実を測るだけだ。だが今、指の腹に残る黒い粉の重さが、観察者の眼を別の場所へ押し出そうとしていた。指先の粉は、皮膚の溝にわずかに食い込み、払っても払いきれぬ黒を残した。その黒を見ていると、自分が長く守ってきた〈測る者〉の立ち位置が、じわりと端から欠けていくのが判った。欠けた縁の向こうに、〈測った先に動く者〉の輪郭が立ちかけている。

ガイウスは羊皮紙を開いた。

四つ折りの内側に、走り書きの線が幾本も交わっている。一番上に〈雷筒運用試案〉と擦れた墨で書かれ、横に〈三列〉〈交互〉の二語。三列を縦にずらした図と、装填と射撃の番手を示す矢印。線は迷いながら引かれていた。書いた者が、書きながら考えていた手だ。設計者ではない。運用を任された軍人の筆跡。下のほうに、火薬一発分の重量、点火から発射までの拍数、再装填に要する拍数。拍数の数字は、ガイウスが知る火縄式の倍以上の速さだった。

数字を二度、口の中で繰り返した。三列で交互に撃てば、敵の前列は連続して圧を受ける。装填の隙が消える。隙が消えるなら、騎兵の突進は最前列で止まる。止まれば、二列目が間合いを保ったまま撃ち続ける。三列目が次の弾を装填する。頭の中で、かつて自分が指揮した騎兵の隊列が、その見えぬ壁の前で一列ずつ崩れていくのが見えた。突き出した槍の穂先が、届く前に宙で止まる。馬は胸を撃たれ、膝を折り、後続の蹄がその背を踏み越えて倒れる。想像の中の騎兵は、どれもガイウスが名を覚えている顔をしていた。

「……三段、撃ち」

舌の上で言葉を作った。作った瞬間に、舌の根が冷えた。十年戦場を渡った男の舌が、初めて触れる種類の冷えだった。冷えは恐怖ではなく、別種の、ひとつの形を見つけたときの冷えだった。発語した言葉が、口の外へ出たのではなく、胸の奥へ逆流して落ちていく感覚があった。言葉は一度外に出れば、もう取り消せぬ。知ってしまった手順も、また同じだった。

羊皮紙を四つ折りに戻し、革胴の内側に押し込んだ。

馬車を残してはいけない。だが、三門を一人で運ぶのも無理だ。ガイウスは雑木の幹の太さと根の張りを見渡し、御者の骸が握っていた斧鉈を抜き取った。刃は欠けていたが、まだ枝は払える。馬車の後ろ半分を切り落とし、軽くする。残った前半分の荷台に三門と陶壺を積み直し、折った枝で隠す。馬は二頭、轡が外れて散っていた。一頭でも捕まえられれば、川沿いを下って隊商路の分岐まで運べる。

そこまで運べば、誰かに預ける必要が出る。一人で抱えるには、この三門は重すぎた。重さは鉄の重さではなく、知ってしまった者の重さだった。

陶壺の栓を一つだけ抜き、粉を指先に取った。今夜のうちに、無人の谷で一度、火を点じてみる。轟音が出るか、煙だけで済むか。鋳鉄が割れるか、保つか。試さねば判らぬことが、十も二十もある。試した先に、〈灰狼〉の焼印を裏返す道筋があるかどうかも。

風がまた逆巻いた。

南南東へ抜けるはずの風が、雑木林の屋根の下でひと巻きして、硫黄の匂いと血の匂いと、煤の匂いを、ガイウスの鼻先に同時に運んでくる。三つの匂いは、谷底で焼かれた仲間と、川下で射られた御者と、これから自分が点ずる未だ見ぬ火を、ひとつの線で結んでいた。匂いの線は、過去から現在を貫き、まだ来ぬ夜の谷底まで伸びていた。線の先端が自分の指先に繋がっているのを、ガイウスははっきりと感じた。

遠く、川上の方角から、馬蹄の音が一頭ぶん、間遠に近づいてきた。

ガイウスは陶壺の栓を戻し、革胴の留め金を留めた。蹄の音は、軍の早馬のそれだった。ノルデンか、帝国か。あるいは、雇い主の側の使い番か。蹄は四拍の刻みで揃っていた。疲れていない馬、鍛えられた脚。乗り手は単騎で、躊躇いなくこちらへ向かってきている。それは、この馬車の位置を既に知っている者の足取りだった。

短剣の柄を、掌の中で一度だけ、強く握り直した。

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