Novelis
← 目次

観測座標・審判

第3話 第3話

第3話

第3話

エレベーターの扉が開いた瞬間、肺の奥まで、腐肉の匂いが落ちてきた。鉄錆と、夏に死んだ蝉の腹を踏み潰したときのあの甘い匂い。人差し指の腹で軽く鼻を擦ると、それだけで指紋の溝に匂いが染みつく感触があった。擦った指を鼻先から離しても、匂いは指紋の奥に居座り続けて、まるで自分の皮膚の一部になろうとしているみたいだった。

新宿地下三層。旧都営線の未成トンネル。コンクリートの天井から、剥がれかけた防水シートが舌のように垂れ下がっていて、足元の冠水した排水溝は、靴底を浸す程度に黒い水を湛えていた。一歩進むたび、ぴちゃ、と音が立つ。その音が天井のドーム形の構造に反響して、自分の足音だけが二重三重に、追いかけてくる。懐中電灯の光が水面に落ちると、光は拡散せずに、油膜の上でぬるりと滑った。その滑り方が、普通の水ではないことを、理屈より先に皮膚が教えていた。

「散開」

黒木課長補佐の指示は短かった。息の継ぎ方すら省略したような、硬い一音節。鷹見先輩が懐中電灯の角度を一段下げ、左の旧プラットホーム跡へ滑り込んでいく。黒木は反対方向、左翼の点検通路へ。俺は地図で叩き込んだ通り、右翼の保線トンネルへ足を向けた。

一本道。十二メートル。

頭の中で、その十二メートルを、一メートルずつ数えた。そうしないと、距離の感覚が、湿った空気にどんどん吸われて曖昧になっていく気がした。

通路の入口で、一度だけ振り返った。鷹見先輩はもう、こちらを見ていなかった。懐中電灯の光が、彼の靴のかかとだけを照らしていて、それが俺の視界からゆっくり離れていく。黒木は、振り返らないどころか、入った瞬間、無線のヘッドセットを首から外した。耳に入れたまま、スイッチだけ切ったのが、横顔の指の動きで分かった。指の動きは、慣れた手つきだった。初めての動作ではない、と俺の目は見抜いていて、見抜いたその事実を、脳がまだ処理しきれていなかった。

胸ポケットの呪符が、シャツの内側で、汗を吸って少し重くなっていた。九枚。祖父の形見を含めて、九枚。一枚一枚の厚みを、左の乳の上に感じる。祖父の形見だけが、他より半紙一枚ぶん厚い。

俺は右翼トンネルへ踏み込んだ。

天井が低い。手を伸ばせば、配管の冷たさが指先に当たる。三歩進んだところで、背中の縫合部の糸が引きつれる感覚があって、深く吸えない呼吸を一度、浅く整えた。檜の発動体を握り直すと、祖父の親指の窪みに、俺の親指がすとんと収まる。その一点だけが、今、自分のものだった。木の柄は、何十年ぶん祖父の手脂を吸っていて、握るたび、死んだ人間の体温が指の腹に還ってくるような錯覚があった。

無線が、鷹見先輩の声で短く鳴った。

「七号、右翼の最奥、確認頼む」

「了解」

声を出した瞬間、自分の声が湿った空気に吸われて、語尾が消えた。返事の語尾を、相手が聞き取ったのかも分からないまま、俺はもう一歩踏み込んだ。踏み込むたび、足首のあたりに、黒い水が、今までより一センチ深く絡みついてきた。地図では、ここは乾いているはずの区画だった。

最奥には、行き止まりの隔壁があるはずだった。地図ではそうだった。

実際には、隔壁の下半分が、内側から食い破られていた。コンクリートの破断面が、白く新しい。指先で触れると、粉が皮膚にざらりと残る。最近——たぶん、昨日か今日。誰かが、あるいは、何かが、ここを内側から開けた。破断面の縁には、何かを引っ掻いたような、細かい平行の筋が無数に走っていた。爪だ、と気づいた瞬間、喉の奥で、呑み込みそこねた唾が鳴った。

——内側から。

無線に手をやった。

「黒木さん、隔壁が——」

報告の途中で、肩越しに、湿った息がかかった。

人の息ではなかった。

体温より一段低い、内臓を直接温風機にかけたような、生臭い熱。振り向く前に、俺は本能で発動体を肩越しに突き上げ、《呪縛・十字》の起動句を半分まで唱えていた。

唱え終わらなかった。

胸を、内側から殴られたような衝撃が来た。違う。外側からだ。鉄の管のような何かが、背中から胸へ、シャツごと、皮膚ごと、貫通してきた。呼吸が、肺ではなく、胸郭の外側で勝手に行われている感じがした。空気が、肋骨の隙間から出ていくのが分かった。肋骨の内側で、肺が袋として機能することを諦めて、ただの濡れた布のように垂れ下がっていくのが、感触でわかった。

視界の下半分、自分の胸の真ん中から、灰色の長い指が一本、突き出ている。爪が、黒い。爪の根元に、俺の縫合糸の青い断片が、絡みついている。青は、昨日、鷹見先輩が処置室の白い蛍光灯の下で結んでくれた糸の色だった。その青が、今、俺の外側にある。

「あ、」

声にならなかった。喉の奥が、血で詰まる前の、独特の甘い味で満たされた。鉄の錆びと、果実が熟れすぎて腐る直前の、あの甘さ。

屍喰鬼は、俺の背後に立っていた。隔壁の向こうじゃない。最初から、俺の入ってきた通路を、ゆっくりと付いてきていた。誰も、それを無線で報せなかった。黒木の指が、ヘッドセットのスイッチを切った、あの一瞬の横顔が、遅れて脳裏に貼り付いた。

指が引き抜かれる。引き抜かれる方が、刺された瞬間より痛かった。背中側の傷口から、鷹見先輩に縫ってもらったわけでもない、ただの裂け目から、温いものが、ベルトの内側を伝って太腿まで流れていく。太腿の内側の皮膚が、自分の血で、初めて自分の体温を確認するような、倒錯した温かさだった。

膝が、勝手に折れた。

冠水した排水溝の黒い水に、俺は顔の半分から落ちた。水は、冷たくなかった。自分の体温と、もう、ほとんど同じだった。それは、俺の血で水が温まったのか、俺の体温が水まで下がったのか、判別がつかなかった。水面に浸かった側の耳の中に、ごぽり、と、自分の鼓動に似た音が一つだけ入ってきて、それきり、その耳は何も拾わなくなった。

「七号、応答しろ」

無線の中で、黒木が言った。落ち着いた声だった。彼は、この距離の悲鳴を、聞いていないはずがなかった。

「七号」

と、もう一度。

二度目の「七号」は、一度目より、ほんの少しだけ、台詞めいていた。誰かに聞かれたときのための、アリバイの声。その薄さを、俺の濡れた耳は、正確に聞き分けてしまった。

返事を返そうとして、口を開いたら、口の中から、舌の代わりに、ぬるい血の塊が一つ、こぽりと落ちた。

腹の上に、屍喰鬼が乗ってきた。重さは、人間二人分。あばら骨が、内側から、外側に向かって順番に折れていく音を、俺は自分の耳で聞いた。鶏の骨をペンチで折る音に、よく似ていた。折れる順番は、下から上へ、律儀に一本ずつで、まるで誰かが俺の体を、正しい解体手順に従って開いていくみたいだった。

奴の指が、俺の腹の傷口に、もう一本、入ってきた。今度は、肝臓の右の縁を、爪の先で軽く弾かれる感触があった。痛みは、ある臨界を越えると、もう痛みではなくなる。代わりに、自分の体の地図を、奴の爪先が一筆ずつ書き直していくような、奇妙に静かな感覚だけが残った。自分という輪郭が、内側から外側へと、ゆっくり裏返されていくのが、他人事のように観察できた。

胸ポケットに、まだ呪符が残っている。指は、もう、動かなかった。九枚のうち、一枚も、使い切れない。祖父の形見の一枚だけが、血を吸って、シャツの内側で、ふやけていくのを、左の乳のあたりで感じていた。

意識が、上から順に、薄い紙を一枚ずつ剥がすように、剥がれていった。最後に剥がれそうになった一枚に、母が「悠吾」と語尾を伸ばす音が、薄く印刷されていた。七つの夏、縁側で、スイカの種を吐き出す俺を呼ぶ、あの語尾。

——ここで、終わるのか。

その問いに答える代わりに、俺の眼球の奥で、突然、何かが灼けた。

熱ではなかった。冷たさでもなかった。ただ、視神経の根元のあたりに、誰かが古い銀の針を一本、ゆっくりと差し込んでいくような、鋭い、鋭い、鋭い感覚。その針は、刺さった後、内側で小さく回転した。回転するたび、俺の知らない記憶のような映像が、一瞬、網膜の裏で閃いて消えた。知らないはずの光景なのに、懐かしいと感じる自分が、自分の中にいた。

排水溝の黒い水面に、自分の片目が映っていた。

その瞳孔の奥で、見たことのない金色の点が、ひとつ、灯った。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!