第1話
第1話
掌に押しつけられた査定板が、三百十二度目の沈黙を続けていた。
指先に伝わるのは、冷えた硝子の表面と、その奥で微かに震える術式回路の振動。本来なら刻印ランクを検出した瞬間、板は熱を持ち、掌へ数値を焼きつけるはずだった。だが今日も、硝子は冷たい。十八歳の誕生日から数えて、もう三ヶ月が経つ。
「──藤代、またかよ」
査定官が鼻で笑った。屋上のフェンス越しに十一月の風が吹き、彼の制服の紺が翻る。国家査定機構地方派遣課、バッジには初等査定官の印。十五の時はまだ駆け出しだったこの男も、今では俺の再測定の担当だ。通算三百十二回。向こうも嫌気が差しているらしい。
「欠格者の測定に立ち会うの、うちの部で俺が最多記録なの知ってる?」 「ご愁傷様です」 「皮肉言えるだけの余力があるんなら、もう来なくていいよ。時間の無駄だし」
査定官は板を俺の掌から引き剥がした。その瞬間、板の表面に走る術式線が、ほんの一瞬、糸がほつれるように滲んだ気がした。気のせいだ、と俺は言い聞かせる。三百十二回、同じ錯覚を見続けている。
「ねえ藤代くん、もう諦めなよ」
隣で付き添っていたクラス委員が、作り笑いを浮かべた。彼女の掌にはB+ランクの青い刻印。風を操る術式型で、先月の模試では全国五十位。俺を励ましにわざわざ屋上まで付き添ってくれるのは、委員長としての義務感と、ほんの少しの憐れみだ。
「Fランク落ち、でも生活はできるじゃん。特例措置があるんだし」 「そうだな」 「うん、だから、無理しないで」
無理しないで。その四文字が、三ヶ月前から俺を追いかけ続けている。無理するなと言いながら、周囲は俺を無理の塊として扱う。腫れ物と憐憫のあいだを行ったり来たりする視線。どちらも俺という人間そのものを見ていない。俺を通り抜けて、俺の背後にある「Fランク落ち」という記号だけを見ている。
俺は掌を握った。爪が食い込み、鈍い痛みが走る。その痛みの底で、銀色の細い線が一瞬、皮膚の下を通った気がした。
──錯覚だ。
屋上を降りると、廊下は蛍光灯の白さに満ちていた。
「おい、藤代落ちてきたぞ」 「また駄目だったのか?」
囁きは足音より少し遅れて追いかけてくる。俺はポケットに両手を突っ込み、視線を床に落として歩いた。この姿勢を覚えてから、たぶん百日は経つ。足元のリノリウムの継ぎ目、同じ位置で二ミリ浮いたタイル、その上を踏まずに越える癖がついた。視界を限定するためのささやかな技術だ。
教室に戻ると、机の上に紙切れが一枚載っていた。『Fランク税、払っといたよ(笑)』。筆跡はクラスの誰のものでもない――匿名を装った既知の誰か。俺はその紙を二つに折り、筆箱の下に滑り込ませた。丸めて捨てる動作は、向こうに満足感を与えるから避ける。この三ヶ月で学んだ、もうひとつの技術。
六時限目の現代社会、教師が黒板に書いたのは「査定制度と社会階層」。異能覚醒年齢は十五歳。国家査定機構が刻むランクがその者の生涯所得、就労権、婚姻条件を定義する。Fランク落ち、いわゆる欠格者は社会的扶助を受ける権利はあるが、労働契約における正規雇用資格を失う。教師は俺の方をちらりとも見なかった。見ないことが配慮だと、この国の大人はみな知っている。
放課後、俺は古書店へ向かった。駅前の路地を三本奥へ入った雑居ビルの一階、〈夜泉堂〉。店主の久瀬さんは七十過ぎの老人で、俺が欠格者だろうがなんだろうが一切気にしない。気にしないというより、気に留めるほどの関心がない。それが一番ありがたい。
「藤代くん、今日は蔵の方、頼めるかい」
カウンターの奥から久瀬さんの声。声の低さに、店の古い紙の匂いが混ざる。黴びた紙と木の埃、それから微かな墨の残り香。俺はエプロンを締めながら「はい」とだけ答えた。
「査定制度、ね」
久瀬さんが呟いたのは、俺が蔵へ向かう廊下を歩き出した時だった。
「制度ってのは、誰かが決めた線だ。線の内と外を分けるだけで、線そのものを疑う奴はいない。君は、線の外だと言われている。だが、線を引いた奴らが間違えている可能性は、誰も検討していない」
返事ができないうちに、蔵の扉が目の前に来ていた。
蔵の扉を開けると、埃が床から舞い上がり、裸電球の下で金色に揺れた。空気は紙と木と鉄錆が混ざった古い匂いで、喉の奥にうっすら苦みが残る。蔵の中は夏でも冬でも温度の変わらない場所で、今日は外より少しだけ暖かい。呼吸するたび、白い息が電球の光にぼんやり滲んで消えた。俺は手袋を嵌めて、指定された棚へ向かう。今日の仕事は明治期の文書整理。久瀬さんがまた、学者からの依頼で古い査定関連の資料を探していた。
棚の三段目に、見覚えのない箱があった。蒔絵で桐の文様、蓋の隅に赤い封印札。箱自体が古いのに、札の朱だけが妙に新しい。俺はためらいながら蓋に手をかけた。
桐材そのものは軽いはずなのに、掌に伝わってくる重みは金属に近かった。蒔絵の表面は思ったよりも冷たく、指の腹で文様をなぞると、漆の盛り上がりが細い溝になって続いている。封印札の朱は、近づいて見ると表面に細かい罅が走っていた。百年近い年数を、この札だけが持っていない。不自然だ、と頭のどこかが警鐘を鳴らしたのに、手は止まらなかった。
指先が札に触れた瞬間、朱の線が白く褪せた。
一秒、二秒。封印札の文字が糸屑のように解け、札そのものが紙粉に変わって箱の表面を滑り落ちた。俺は呼吸を止めた。指の触れた部分に、かすかに痺れのような感覚が残っている。電気とは違う、もっと柔らかい何かが皮膚を撫でて去った後の余韻。
箱の中には小さな査定板が入っていた。現行のそれより二回り小さい、昭和初期の試作品らしい硝子と銅線の組み合わせ。掌に載せると、銅線が弱く光った。そして、光はゆっくり滲み、形を失い、硝子の奥で溶けていった。
──また、錯覚か。
三百十二回目と、同じ種類の。
俺は板を箱に戻した。戻した箱の底で、銅線が完全に黒く焼け焦げているのに気づいたのは、蓋を閉めてからだった。焦げ跡からは、糸の燃えた後に似た、細い煙が一筋立ち上っている。気づかなかったのではない。気づきたくなかったのだ、と自分で分かってしまう程度には、俺はもう正直さを失いかけている。
「藤代くん、もう上がっていいよ」
久瀬さんの声が蔵の外から届いた。掛け時計が七時を指している。冬場の日暮れは早い。俺は手袋を外し、掌を見た。右手の人差し指の付け根、皮膚の下を、銀色の細い線が三本、今度はゆっくり流れていた。消えるまで、十秒。
十秒のあいだ、皮膚の内側を流れるそれは、水でも電気でもない、何か別の質感を持っていた。温度だけは確かにあって、体温より少しだけ高い、発熱した指先に似た熱。線が消えた後、人差し指の付け根には、押された跡のような薄い痕がうっすらと残っていた。親指で撫でると、それも数秒で消えた。まるで皮膚そのものが、見せてはならないものを慌てて隠した後のような、取り繕い方。
俺は誰にも話さない、とだけ決めた。話しても誰も信じない。信じてくれる人間が欠格者の話を聞く理由がない。三ヶ月でその計算を済ませている。
店を出ると、路地はすでに薄暗かった。駅前の雑居ビルの裏、三方を建物で囲まれた細い通り。蛍光灯のひとつが切れかけて、青白い光が点滅している。コンビニの看板が遠く滲んで、空気は冷えて、排気口からの油の匂いが鼻を撫でる。
──三人。
靴音で分かった。前に二つ、後ろに一つ。歩幅はどれも俺より大きい。
「藤代蓮、十八歳、Fランク落ち。合ってる?」
前方の男が言った。男の吐く息が白く伸び、目隠し布の端で小さく乱れた。路地の壁に挟まれた空気は動かず、その白さだけがゆっくりと俺の方へ流れてくる。後ろの一人の靴音は、さっきから同じ歩幅で距離を計っている。素人の詰め方じゃない。訓練された、こういう場所に慣れている者の動きだと、本能の方が先に理解した。背広の下に国家査定機構の補助員バッジ、だが顔を半ば覆っているのは民間の取立てが使う型の目隠し布。公務と私腹を往復する連中が使う、一番たちの悪い組み合わせだ。
「税、払ってないだろ」 「……払ってます」 「欠格税の方じゃない。別のやつだ」
別の、と繰り返す俺の声が、自分でも情けないくらい細い。男が一歩、距離を詰めた。後ろの一人が肩に手を伸ばしてくる。指が制服の肩に触れる、その数ミリ前で時間の密度が変わった。その動きを横目で確認した瞬間、俺の右手の皮膚の下で、銀の線が、今度は熱を帯び始めた。