第1話
第1話
朝七時四十二分、通学路の裏路地、俺の鼻腔は腐った杏の甘い匂いを拾った。
人間の汗でも生ゴミでもない。結界の継ぎ目が緩んで、そこから染み出してくる瘴気の匂いだ。陰陽師の家系に生まれた人間にしか嗅げない、日常に混じり込んだ「表の側」の腐敗。
「……また、崩れてる」
制服のシャツの袖で鼻を覆いながら、俺──桐生蓮は、路地の奥へ一歩踏み込む。自販機の裏のアスファルト、継ぎ目に、うっすらと紫の染みが滲んでいる。一般人には見えない。小学生の子供でも、血筋さえあれば見える。
見えるのに、撃てない。
鞄から札を一枚抜いた。祖父の代から受け継いだ桐生家の型版、九字の略呪。指先に霊力を集める、はずが、掌の中で札は冷たいままだ。印を切る。銅の匂いがするはずの霊力は、今朝もどこからも流れてこない。
「……くそ」
呪文は口の中で回る。式は諳んじている。教本で言えば『陰陽師初等第一巻』三十七ページ、十二歳で撃てなきゃおかしい基礎呪だ。俺は十七歳で、本家の末席で、今朝もそれが撃てない。
紫の染みが膨らんだ。アスファルトの下から、ぬるい粘膜のようなものが這い出してくる。顔のない、半分液体の、低級の「ぬらり」。こちらに向かって這ってくる速度だけは、妙に生々しい。
背後で、軽い足音がした。革靴の硬い音ではない。走り慣れた人間の、踵を落とさない足音。
「蓮、どけ」
声が耳元で落ちる前に、俺の肩はすでに横に払われていた。
白峰伊織。二十二歳、白峰家から桐生本家に預けられている兄弟子。俺より頭ひとつ高い背中が、俺と瘴気の間に割り込む。指が三本、空中で印を切る。それだけだ。
「急々如律令」
言葉の尾が消えないうちに、路地の紫は、灰に変わっていた。瘴気の甘い残り香が、風に洗われて、鉄錆の匂いに戻る。俺の鞄の紐を握る指は、爪が掌に食い込んで、半月の跡を残していた。
「朝飯は」
伊織は振り向かずに聞いた。
「……まだ」
「じゃあコンビニ寄るぞ」
短い背中。俺はその背中について、通学路を歩き出す。おにぎりを一個買ってもらうのが、今朝も先に撃ってもらったお礼だった。
午前中の授業、黒板、教科書は現代文、夏目漱石『こころ』。先生が板書する『Kの自殺』という四文字を、俺はノートに写す。俺の右手は普通にシャーペンを握れる。札は、握れない。
昼休み、屋上。
伊織は近くの大学の二年だが、俺の通う附属に用があればよく立ち寄る。フェンスに寄りかかって、ペットボトルの水を半分だけ飲んでいる。
「桐生、本家から連絡あった」
「……何」
「おまえ、今夜空けておけ」
咀嚼していたメロンパンを、俺は飲み込んだ。喉が一瞬詰まる。
「任務、ですか」
「護衛。俺の」
屋上のフェンスの向こう、遠くに新宿の高層ビル群が、春霞の底に霞んで見えた。
「……新宿?」
「歌舞伎町。裏の、地下」
俺は頷いた。頷くしかなかった。撃てない俺が本家に許されている役割は、伊織の影として、鼻として、耳としてついていくことだけだ。
「相手は」
「上物の呪物オークション。無許可。買い手も売り手も堅気じゃない」
「陰陽師庁は」
「黙認。触れると政治家の首が三つ飛ぶらしい」
伊織の薄い唇が、皮肉な形に歪む。フェンスの金網が、春の風で低く鳴った。俺は制服のブレザーの裾を掴み、ネクタイを直す。緑と紺のストライプ、入学式に父が一本だけ選んでくれたネクタイ。本家の色──深紅──が入っていない、市販品の廉価ネクタイだ。
「……俺が、行っていいんですか」
「嗅げ」
伊織は言った。
「俺の霊力は、強いぶん鈍い。細かい瘴気の違いは嗅げない。おまえは、撃てないが、嗅げる。封印紋の異臭、おまえが嗅ぎ分けろ」
撃てない俺を、伊織は「嗅げる」と言う。
『出来損ない』という、本家の人間が俺に与えた言葉を、伊織だけが一度も使ったことがない。屋上の鉄柵の錆に、俺の指は気づけばまた力を込めていた。爪の下に、錆の苦みが、薄く広がる。
「いけます」
俺は答えた。答えが先で、覚悟は後から追いついた。
伊織はペットボトルの蓋を閉じ、軽く頷く。
「九時、区役所通りの裏。黒いコートで来い。制服で来たら殴る」
「……殴らないでください」
「冗談だ」
伊織は笑わない。ただ、口角の片側だけを一瞬上げて、階段へ背を向けた。その背中を見送るときだけ、俺の内側の「撃てない」という事実が、少しだけ柔らかい別の感情に置き換わる。
守られている、という事実。
それが、屈辱でもあり、救いでもある。
夕方六時、本家の裏門。
桐生本家の屋敷は、世田谷の住宅街に埋もれた三百坪の日本家屋で、表通りからは看板ひとつ見えない。裏門からしか入れないのは、末席の人間と使用人と、出入りの業者だけだ。俺は裏門を使う。
土間で靴を脱ぐ。古い木の匂い、微かな墨と香の匂い。俺の鼻は、家の中に満ちている霊力の濃度を、いつも勝手に確かめてしまう。
「蓮」
玄関先の暗がりで、兄の声がした。長兄・桐生一葉、二十五歳、桐生家次期当主、霊力値は本家歴代でも上位五本に入る。
「今夜、白峰についていくんだってな」
「はい」
「足手まといになるなよ」
「はい」
「撃てなくていい。だが、札を構えるだけの真似事もするな。おまえが札を握っただけで、家の恥が外に漏れる」
「……はい」
兄の革靴の先が、土間の三和土を小さく鳴らして、離れていく。俺は靴を揃え、自分の部屋──西翼の、物置に一番近い四畳半──に戻った。
押入れから、黒い桐の木箱を出す。祖父の形見の札入れ。中には、俺が撃てないと知りながら、祖父が遺してくれた四十八枚の護符。一枚一枚、手書きの朱墨、祖父の筆跡。もう五年前に亡くなった人の、まだ乾ききらないようにさえ見える墨色。
「……今夜も、持っていきます」
俺は木箱に向かって、声に出さずに告げた。唇の内側が乾いていた。札は、撃てなくても、匂いを覚える触媒にはなる。祖父は、それを知った上で、俺に遺してくれた。
夜九時、歌舞伎町。
区役所通りから一本奥に入った裏路地、俺と伊織は黒いコートで並んで歩いていた。ネオンの赤とピンクが、水たまりに滲んでいる。客引きの声、韓国料理屋の換気扇、タバコとドブの匂い。その全ての下に、もう一層、別の匂いが確かに層を作っていた。
腐った杏。朝の低級妖の、十倍。
「……伊織さん」
俺は足を止めた。
「嗅げたか」
「ここから先、全部、臭いです」
伊織は頷いた。コートの内側に手を入れ、短刀らしき形を確認する。
「聞け、蓮」
路地の中央で、伊織は振り返った。俺より頭ひとつ高い視線が、俺を見下ろす。ネオンの赤が、伊織の頬を不自然に染めていた。
「今夜、俺の背中から三歩以上離れるな」
「はい」
「俺が撃つ、おまえは嗅ぐ。それ以外はするな」
「……はい」
「返事が重いぞ」
「怖いんです」
俺は言った。言ってしまった。伊織の前でだけは、強がらなくていいと、いつの間にか思っている自分がいる。本家の誰にも言えないことが、この人の前では、なぜか息をするように出る。
伊織は、薄く笑った。ほとんど口角だけで。
「怖いのは、嗅覚が生きてる証拠だ」
そして、俺の肩を、一度だけ、掌で軽く叩いた。手のひらの熱が、コート越しでも分かる温度だった。
「行くぞ」
路地の突き当たりに、古い雑居ビルがあった。看板は剥げ、『第三金龍ビル』とだけ、かろうじて読める。伊織は慣れた手つきで地下階段を下りていく。踊り場、壁にかけられた非常用消火器のパネルを、伊織は指先で二度なぞった。かちり、と低い音がして、パネルの裏から鉄の扉が現れる。
扉の向こうから、甘い匂いが、濃く、吹き上げてきた。
朝の低級妖の、十倍では足りない。百倍。
俺の喉が、一瞬、詰まる。
「……伊織さん、これ」
「嗅げてるな」
「封印、一個じゃない。──複数、もう、ひびが入ってます」
伊織は、ほんの一瞬だけ、眉を寄せた。それだけだった。鉄の扉の取っ手に手をかけ、ゆっくりと、引いた。
隙間から漏れ出した熱気の中に、俺は、本家の禁書でしか名前を見たことがない上位妖の気配を、確かに一つ、嗅ぎ取った。
「行くぞ、蓮」
伊織の背中が、地下へ消える。俺は、撃てない札入れを胸元で握り直し、その背中を追って、最初の一段に、足を下ろした。