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最弱の殺し屋と停律の家族

第3話 第3話

第3話

第3話

獅堂の掌の熱が、俺の指先にじんわりと移ってくる。その一点から、止まっていた世界が少しずつ解凍されていくのを、俺は他人事のように眺めていた。

雨漏りの雫が、ぱたぱたと連続して落ちる。外れかけのトタンが軋み、遠くで地下鉄の唸りが復活する。処分班の五人が、引き金にかけた指のまま、何が起きたのかわからないという顔で立ち尽くしていた。床に散らばった分解された銃の破片を見下ろし、誰か一人が、掠れた悲鳴じみた息を漏らす。もう、俺を撃てる人間は、この廃倉庫に一人もいなかった。

「行くぞ」

獅堂は俺の肘のあたりを軽く支え、ゆっくり立たせた。膝が笑って、一歩目でよろけた。十七年間ずっと力んでいた膝裏の筋が、急に役目を終えて弛んでしまったみたいだった。支えるその手は意外なほど乾いていて、体温だけが高い。煙草の匂いと、ほんの少しだけ、柑橘のような香りがした。

「……先輩たちは」

振り向こうとした俺の頭を、獅堂の掌が軽く押さえた。振り向くな、という仕草だった。

「お前がもう戻らねえってことが、あいつらにとっての処分だ。銃は直せる。でも『取り逃がした』って事実は、もう直らねえ」

廃倉庫を出ると、夜風が頬を撫でた。外気は湿っていて、それでも中よりずっと生臭くなかった。遠くに走る車のヘッドライトが、濡れたアスファルトに長い尾を引いて消えていく。路地裏に古い国産車が停まっている。白いセダン、傷だらけのバンパー、どこにでもある型落ちの車体。獅堂は後部座席のドアを開け、俺を押し込むように乗せた。革のシートに沈み込んだ途端、膝から下の感覚が、一気に遠くなる。

エンジンがかかる。街灯の光が、流れる川のように車窓を滑っていった。光と光の間の短い暗闇が、瞬きのたびに、俺の呼吸の拍子とずれていく。

「しばらく目、瞑ってろ」

運転席の獅堂が、前を向いたまま言う。

「俺の家は、お前にとっちゃ、ちょっと眩しすぎる」

車が停まったのは、都心から少し外れた住宅地の、細い路地の奥だった。目を開けた俺の視界に飛び込んできたのは、格子戸のある古い町屋だった。瓦屋根、磨かれた沓脱ぎ石、玄関脇に小さな鉢植えのユズ。生活の匂いがした。裏社会の俺が、十七年間ずっとガラス一枚の向こう側に見てきた、あの明かりの側の匂いだ。

獅堂は格子戸を滑らせた。中から、湯気と、味噌と、昆布出汁の匂いが、どっと俺の鼻に流れ込んでくる。その匂いは、鼻の奥から眉間を通って、こめかみまでを、じんわりと痺れさせた。

「ただいま」

獅堂の声は、廃倉庫で俺を呼んだ時とは別人のように、間延びして、柔らかかった。

「おかえり、コウちゃん。遅いよ、鍋冷めかけてる」

奥から出てきたのは、小柄な女だった。年は俺と同じくらいだろうか。黒髪を耳の上で短く切り揃え、首筋に細い鎖の刺青がうっすら見える。袖をまくった腕に、注射痕みたいな小さな点がいくつか並んでいた。彼女は俺を見て、眉を少しだけ上げた。驚きじゃない。確認するような目だった。

「へえ、連れてきた」

「ナギ、毒は仕舞っとけ。今夜の客は、まだ震えてる」

「最初から仕舞ってるよ、コウちゃん」

女——ナギは、俺に近づき、細い指で俺の手首を一瞬だけ握った。脈を取っている、と気づくのに三秒かかった。指先は冷たく、けれど乾いていて、医者のそれにも、殺し屋のそれにも似ていた。彼女は小さく頷いて、俺の靴紐をしゃがんで解き始めた。

「自分で、できる」

「震えてる手で解いたら結び目になるよ。兄さん」

兄さん、という呼び方が、喉の奥のどこかに引っかかった。その一言だけで、俺の呼吸が半拍、遅れた。

居間には、すでに卓袱台が出ていた。土鍋から白い湯気が立っている。鍋の縁には、痩せた眼鏡の男と、白髪の老婆が座っていた。眼鏡の男は携帯を耳に当てたまま俺を見て、片手を挙げた。挨拶、ではない。「見たぞ」というサインだ。情報屋の目だった。老婆は湯呑みを両手で包み、細めた目で俺を一瞥した。その目の奥に、昔どこかの交番で見たような、懐かしい凄みがあった。

「シン、仕事は後。老婆さまも、鍋伸びる」

獅堂が上着を脱ぎながら言う。

俺は、玄関の框の手前で立ち尽くしていた。靴下の裏が、磨かれた木の床に触れるのが怖かった。血の匂いを、持ち込んではいけない気がした。

「座れよ、トウヤ」

獅堂が、卓袱台の、自分の隣の席をぽんと叩いた。空いている、一人分の席だった。まるで最初から、そこに俺の椅子があったかのようだった。座布団はうっすら日向の匂いがして、誰かが今日の昼に干したのだと、すぐにわかった。

鍋の中身は、鶏と白菜と、豆腐と、しらたきだった。ナギが椀に取り分け、「熱いよ」と言って差し出す。湯気が、俺の前髪を濡らした。

箸を、持たされた。指が上手く動かない。白菜の一切れを摘んだだけで、汁が震えて胸元に落ちた。誰も笑わなかった。老婆が、布巾を無言で差し出しただけだった。皺の寄った指先が、布巾の端をきちんと折り畳んでから、俺の膝の上に置いた。その動作のひとつひとつが、まるで長年繰り返してきた作法のように静かだった。

一口、口に入れた瞬間、俺の喉は完全に詰まった。

温かい、としか形容できなかった。昆布と鶏の脂の、ほんの少し甘い汁が、舌の上で溶けて、喉の奥の、ずっと乾いていた何かを濡らしていく。奥歯で噛みしめる白菜の繊維の、くたくたに煮えた柔らかさ。それだけのことが、どうしてこんなに、胸の内側を抉るのか、自分でもわからなかった。舌の奥で、鶏の脂が、甘いとも塩辛いともつかない記憶のかたちをしていた。母の、とは言えない。母の味など、俺はもう覚えていない。それでも、その汁は、忘れていたはずの何かを、勝手に呼び戻そうとしていた。

俺は、息を止めた。

泣くわけにはいかなかった。泣けば処分される——その反射が、まだ身体の奥に残っている。声を出さないように、奥歯で頬の内側を噛む。鉄錆の味が、舌の端にじわりと滲んだ。それでも、涙だけが、勝手に椀の中に落ちていった。一滴、二滴、三滴。鍋の湯気に混じって、塩辛い粒が、鶏の脂の上に小さな波紋を作った。

誰も、俺を見なかった。

ナギは新しい白菜を鍋に足し、シンは携帯を切って湯呑みを傾けた。老婆はただ、俺の椀に、出汁をもう一杯、静かに注ぎ足した。獅堂は、煙草を口の端に挟んだまま、火はつけず、ただ窓の外の夜を眺めていた。

「ゆっくり食え」

獅堂が、誰にともなく呟いた。

「ここじゃ、息継ぎに許可はいらねえ」

その言葉を聞いた瞬間、俺の喉の、最後の栓が抜けた。声は殺した。けれど肩が、みっともなく揺れた。両手で椀を持ったまま、俺は十七年ぶんの呼吸を、この湯気の中で取り戻そうとしていた。吸って、吐いて、吸って、吐いて。生きる、というのは、本来、これだけ単純な作業だったのか。椀の縁を握る指の関節が、白く浮いて、やがてゆっくりと色を取り戻していった。

ナギが、俺の隣に座り直した。肩と肩の間に、指一本ぶんの隙間を空けて。触れもせず、離れもしない。その距離の取り方が、たぶん、この家のルールだった。触れないことで、壊さない。離れないことで、見捨てない。そのあいだに、ちょうど一人分の息ができる空間があった。

夜が更けて、シンと老婆が二階に上がった。ナギは台所で洗い物をしている。水音の向こうに、彼女が小さく鼻歌を歌っているのが聞こえた。音程は、少しだけ外れていた。外れているから、余計に、耳の奥にやさしく残った。

獅堂は縁側に出て、ようやく煙草に火をつけた。マッチの硫黄の匂いが、一瞬だけ夜の空気を刺して、すぐに煙の匂いに溶けた。俺は、借りた厚手のシャツの袖を指先で握ったまま、その背中の少し後ろに座っていた。庭には小さな南天の木があって、赤い実が常夜灯の光に濡れていた。

「トウヤ」

獅堂は振り向かなかった。煙を、夜気に流しながら言う。

「明日の朝までに、答えろ」

背骨が、すっと冷えた。

「俺の弟子になるか。——元の夜に、戻るか」

選べ、とは言わなかった。答えろ、と言った。その違いが、胸の奥で重たく沈んだ。弟子、という言葉の輪郭を、俺はまだ上手く掴めない。けれど、「元の夜」の意味だけは、痛いほどわかった。弾切れの拳銃と、祈りと、処分班の足音。あの夜に、戻ることは——できる。できてしまう。それが一番、怖かった。戻れてしまう身体を、俺はまだ、この十本の指に飼っている。

煙草の火が、ちりちりと短くなる。赤い点が、七歳の冬に握っていた柿の実の、裏側の色にだけ似ている気がした。

「朝まででいい」

獅堂は、ようやく俺を振り向いた。

「その椀を、明日もここで持ちたいか。それだけを、考えろ」

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