第2話
第2話
「引き金を引く瞬間に、祈ってるな」
男の声は、低くて、どこまでも静かだった。
止まった世界の中で、その一言だけが確かな体温を持って俺の耳に届いた。雨漏りの雫は天井と床の中間で凍りつき、処分班の五人の指はまだ引き金の一歩手前で固まっている。鉄骨の軋みも、外れかけのトタンの音も、地下鉄の唸りも、全部が薄い水の膜に閉じ込められていた。唯一動いているのは、男の歩みと、煙草の先から立ち昇る灰色の糸と——そして、俺の心臓だけだった。
鼓動が、さっきから耳の内側で狂ったように鳴っている。どくん、どくん、と。止まった世界の静けさの中では、自分の血液が自分を殴っているようにしか聞こえない。汗が、こめかみを伝って顎の先まで降りる。その一滴が床に落ちる音さえ、やけにくっきり響いた。ぱた、と。——それだけが、この止まった世界で俺に許された、たった一つの音だった。
男は、瓦礫を踏む音さえ立てずに近づいてきた。年の頃は、三十代半ばか、もう少し上か。痩せ型、黒いスーツの袖口に覗くシャツは染み一つなく白い。整った顔立ちだが、目の奥だけが異様に深く、底が抜けているようにも見えた。右手に挟んだ細い煙草の、赤く燻る先端だけが、止まった空間の中で生き物のように揺れている。
「祈り癖のある殺し屋なんざ、久しぶりに見たぜ」
革靴がコンクリートを鳴らす。煙草の灰が、ゆっくりと——しかし確かに——落ちていく。止まっているのは世界のほうで、この男だけが、時間の正しい側に立っている。そう錯覚させる歩き方だった。
俺は膝をついたまま、男を見上げることしかできなかった。口を開こうとして、喉の奥が張りつく。質問が百通り浮かんで、百通り消えた。あんた、誰だ。何をした。なぜ、俺に話しかける。——どの言葉も、唇の内側で崩れて、ただ熱い息になって喉の奥に戻っていく。視線だけが、男の革靴の爪先から、折り目の正しいスラックス、細い指、煙草の火先、そしてその奥の昏い瞳へと、吸い寄せられるように這い上がっていった。
「動くな」
男は俺じゃなく、止まっている処分班の方を一度だけ見た。
「こいつらが先だ」
◇
男の指が、また一度、ぱちんと鳴った。
乾いた音。それだけだった。
次の瞬間、止まっていた世界の中で——処分班の五人が持っていた武器だけが、カラン、と音を立てて床に落ちた。短機関銃が四挺、拳銃が一挺。ボルト、撃針、弾倉、スライド。すべての可動部が分解され、ばらばらの金属片となってコンクリートの上に散らばっていた。それぞれの破片の縁に、薄い霜のようなものがうっすらと張りついている。まるで、時間から剥がされた金属が冷気を帯びてしまったかのようだった。指先に触れたら、きっと凍傷になる——そう思わせる、青みがかった冷たさだった。油とコルダイトの匂いに、ほんのわずか、雪原のような乾いた匂いが混じっている。それが何の匂いなのか、俺の知っている言葉では名付けられなかった。
五人の男たちは、まだ引き金に指をかけたままの姿勢で固まっている。眼球だけが、薄紙一枚ぶんだけ、揺れた気がした。意識は、ある。世界から切り離された檻の中で、彼らは確かに「今」を目撃している。だからこそ余計に、立ち昇る恐怖の匂いが、俺の鼻先までじわりと届いてくる。
「止めた」
男は煙草を口の端に挟み直し、俺に視線を戻した。
「銃の撃発機構だけな。人間は生かしたままだ。お前が死にたくねえだろうと思ったから」
死にたくない——その言葉が、胸の奥で歪な形の反響を起こした。俺は、死にたくなかったのか。ずっと死にたがっていた気がするのに、今この瞬間、確かに指先が温かい。銃把を離した掌のぬめりだけが、まだ生きているという証拠として残っている。呼吸が、自分の意思と関係なく、少しだけ深くなった。肺の底で、冷たい空気が熱をもらって、また出ていく。その当たり前のことが、今夜初めて、当たり前じゃないもののように感じられた。
「あんた、何を」
声がやっと出た。掠れて、みっともなく裏返る。
「術式とか結界とか、そういうのとは違う」
男は煙草をひと吸いした。紫煙が、止まった世界の中で、ゆっくりと螺旋を描いて天井へ昇っていく。その煙だけが、この廃墟で唯一、重力と時間に従って動いているもののように見えた。
「俺のは、もっと物騒で、もっと地味でな。——停律(ていりつ)、とでも呼んでおけ」
テイリツ。
聞いたことのない言葉だった。けれど、その二音は俺の身体の奥にすうっと落ちていった。法を止める、と書くのだろうか。それとも律動を止める、か。たぶん、どちらでも正しいし、どちらでも足りない。舌の裏で、その音を一度だけ転がしてみる。鉄の味がした。血の味に似ていた。
「ルールが一つだけある」
男は指先で、自分の胸の左側を軽く叩いた。とん、と、控えめな音。けれどその一打は、止まった世界の中で妙に強く響いて、俺の心臓まで一緒に揺らした気がした。
「心臓が動いてる奴の時間は、止めきれねえ。お前みたいに、祈りながら引き金を引くような半端者の時間は、特にな」
彼は屈んで、俺の弾切れの拳銃を拾い上げた。スライドが後ろに下がったまま固定された、役立たずの鉄の塊。それを男は手のひらで一度だけ弾ませ、それから俺に差し出した。銃口は、きちんと床を向いていた。素人にはできない、身についた所作だった。その一点だけで、俺は悟った。——この男も、同じ側の人間だ。少なくとも、かつては。
「受け取れ。空でもいい」
理由を聞く前に、俺の手は勝手に動いていた。指が銃把の溝に戻る。冷えた金属が、逆に俺の体温を奪わず、むしろ掌の熱をそっと預かってくれるように感じた。十七年間、俺を縛ってきたはずの鉄の重みが、この瞬間だけ、なぜか味方の側にいた。
「いいか、黒鐘トウヤ」
名前を呼ばれて、息が止まった。烏合ですら、俺の本名を呼ぶ者はもう誰もいなかったのに。その三文字は、ずっと昔、誰かが優しい声で呼んでくれたときの響きをほんの一欠片だけ残して、俺の鼓膜に触れた。
「お前が撃てねえのは、腕が悪いからでも、根性がねえからでもねえ」
男は煙草を唇の端で転がし、俺の目を覗き込んだ。その瞳の奥には、怒りも憐れみも映っていなかった。ただ、俺自身がずっと見ないふりをしてきた何かを、淡々と見透かしている眼だった。
「お前の心臓が、引き金より先に祈ってるからだ。それを矯正しなきゃ、お前、次の夜は越せねえぞ」
◇
どこかで、ぽたり、と雫が落ちる音がした。
止まっていた世界が、ほんの一拍、軋む。天井から落ちていた雨漏りの雫が、男の肩をかすめてコンクリートに弾けた。世界が再生ボタンを押されかけている。五人の処分班の呼吸が、まだ凍りついたまま、けれど微かに胸を膨らませ始めた。時間が、戻ってくる。
「選べ」
男は煙草を人差し指と中指の間に挟み直した。火先が、俺のすぐ目の前に差し出される。
「このまま蹲(うずくま)って、もう一度死ぬ覚悟を決めるか。——それとも、俺と来るか」
「……どこへ」
喉の奥で、声がつっかえる。
「お前が『おかえり』って言われる場所だ」
その一言が、心臓の裏側に刺さった。
七歳の冬、焼け落ちた孤児院の庭で握っていた、青い柿の実。あの鮮やかな緑が、男の煙草の赤い火先の向こうに、錯覚のように重なって見えた。どうして、と聞きたかった。なぜ俺なんかに、そんな言葉をくれるのか。けれど、男は答えを待たなかった。
煙草の火越しに、男は空いている方の手をこちらへ差し出した。節の目立つ、長い指。銃を扱い慣れた者の掌だ——それでいて、傷跡のない、奇妙に清潔な手だった。
「俺は獅堂(しどう)。獅堂コウガ」
差し出された手の、指先の熱が、止まりかけた世界の縁でゆらりと揺れる。
「俺と来い、トウヤ」
俺の指は、もう震えていた。けれど、その震えは恐怖じゃなかった。十七年で初めて、祈り以外の何かに向かって伸びていく、自分の指の震えだった。
震える指先が、獅堂の掌に触れた瞬間——止まっていた世界が、ゆっくりと、息を吹き返した。