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最弱の殺し屋と停律の家族

第1話 第1話

第1話

第1話

引き金を引く瞬間、俺はいつも祈っていた。

どうか、この弾が逸れてくれ。どうか、この男が死にませんように——と。

殺し屋が祈るなんて、笑い話にもならない。けれど俺は十七年間、その祈りだけを拠り所に生きてきた気がする。祈りは声にならない。息にも乗せない。ただ喉の奥で、指先から銃把へ抜けていく一瞬の熱として、確かにそこにあった。

廃倉庫の天井から落ちる雨漏りが、コンクリートの床に黒い染みを作っていた。剥き出しの鉄骨、割れた蛍光灯、錆びた機械の影。都心の再開発区画に取り残された、忘れられた肺のような場所だ。腐った水と油の匂いに、火薬の臭いが混じる。踏めば靴底に貼りつく粉塵、どこかでカタカタと鳴る外れかけのトタン、割れたガラス片が足の下で砂のように軋む。遠くで地下鉄の低い唸りが、骨まで響いてきた。

俺の前には、先ほどまで同僚だった男が倒れていた。

烏合(うごう)の古参、三十代半ば。名前は確か——いや、名前なんて最初から聞かされていない。裏社会で生きる者に本名はいらない。必要なのはコードネームと、引き金を引く指だけだ。

その男の腹には、俺の弾が一発だけ浅く入っていた。致命傷にはならない。なるはずがなかった。俺はわざと急所を外した。弾道を逸らすために、撃つ直前に半歩だけ足を開き、銃口を三ミリだけ上へ跳ね上げた。誰にも気づかれないための、十七年かけて身につけた小さな嘘だ。

「……黒鐘、お前」

血を吐きながら、男が笑う。

「やっぱり撃てねえのか、臆病者」

弾切れの自動拳銃を握る手が、みっともなく震えていた。スライドが後ろに固定されたまま、マガジンは空。これで撃てないことすら、裏社会では「処分」の理由になる。指の腹に残った硝煙の熱、掌に滲んだ汗が、銃把の溝にぬるりと絡みつく。

組織は失敗を許さない。失敗した奴の後始末をするのは、たいてい、失敗した奴自身の同僚だった。

俺の背後から、革靴の音が四つ、五つ、近づいてくる。

——孤児院を焼かれたのは、七歳の冬だった。

そこから先の記憶は、全部、誰かの銃の重みで塗りつぶされている。戸籍がない俺を拾ったのは、烏合という名前の組織だった。教育と称して渡されたのは、分解清掃された中古の拳銃と、標的のリスト。失敗すれば飯抜き、三度失敗すれば指の爪。

最初に人を撃ったのは九歳だった。その時も、俺は祈っていた。どうかこの人が死にませんように、と。

だが現実は祈りを聞かない。人は撃てば死ぬ。血は流れるし、目は開いたまま動かなくなる。俺は泣かなかった。泣けば次は自分が処分される。泣く代わりに、毎晩布団の中で拳を噛み、歯形の痕で朝を数えた。奥歯の裏側で舌を噛み切らないように、呼吸だけをゆっくり数えて夜をやり過ごす——それが俺の育ち方だった。

「撃てよ、黒鐘」

倒れた男が、口の端から血を垂らしながら言う。

「お前が俺を仕留めりゃ、組織はお前を許すかもしれねえぞ」

嘘だ。そんなものは嘘に決まっている。烏合は一度「使えない」と判断した駒を、二度と駒には戻さない。処分するか、実験材料にするか、もっと酷い場所に流すか——選択肢は三つで、どれも同じ結末に繋がっていた。

それでも俺は、弾切れの拳銃を男の額に向けようとした。撃つふりだけでも、背後の処分班に見せつけられれば、あと数秒は生きられる気がしたから。

「……構えるな」

男の声は、意外なほど静かだった。血の泡を噛み潰すような笑みの底に、なぜか兄のような、呆れたような響きが混じっていた。

その響きに、俺は一瞬だけ引き金を引けない理由を見失いかけた。殺したくない——そう念じ続けてきたはずなのに、この男の目の奥に沈んだ諦めと、微かな憐れみのような何かが、逆向きに俺の胸を抉った。お前のような奴を、こっち側に残したくねえ——そう言われている気がして、喉の粘膜がざらりと乾く。舌先が上顎に貼りつき、唾を飲み込む音だけが、やけに大きく耳の内側で響いた。

「お前はもう、こっち側に立ってちゃいけねえ」

視界の端で、破れた窓ガラスの向こうに都心の夜景が滲んでいた。遠くのビル群、赤いランプ、コンビニの看板。全部、別世界の明かりだ。あの光の下には、今夜も誰かの「ただいま」と「おかえり」があるのだろう。湯気の立った味噌汁、玄関で脱ぎ散らかされた靴、抱きしめられる小さな背中——そういう当たり前の温度が、ガラス一枚の向こうに確かに存在している。

俺はそれを、生まれてから一度も知らなかった。

誰にも愛されず、誰も愛せず、それでも心の奥では誰かと繋がりたいと願う——そんな矛盾した祈りだけが、十七年の夜を支えてきた。

足音が止まった。

「時間だ、黒鐘」

低い男の声が、背中の十メートル先で響く。処分班のリーダー、俺がまだ「訓練生」と呼ばれていた頃、拳銃の握り方を教えてくれた先輩だった。

「武器を捨てて、こっちを向け」

俺は拳銃を握ったまま、ゆっくり振り向いた。

逆光の中に、黒いスーツを着た五人の男が立っていた。全員が短機関銃を構えている。一人だけ、先頭の先輩が拳銃を俺に向けていた。無表情だった。昔、バランスの取り方を褒めてくれたあの顔が、今は完全に他人のものだ。頬の古い傷、眉間の浅い皺、煙草で黄ばんだ指——懐かしいはずの細部が、どれも薄い膜の向こうにある。

「悪く思うな」

先輩が言った。

「お前、最初から向いてなかった」

知っていた。俺自身、一番知っていた。

撃てない殺し屋なんて、穴の開いたバケツと同じだ。役に立たないくせに、秘密だけを抱えている。処分して当然なのだ。

俺は弾切れの拳銃をそっと床に置いた。カン、と乾いた音が、廃倉庫の天井に反響する。鉄骨の梁に弾かれ、割れた窓へ抜け、やがて夜の底へ吸い込まれていった。

両手を挙げる。膝をつく。祈るような姿勢のまま、俺は目を閉じた。コンクリートの冷たさが膝頭から這い上がり、背骨を伝って後頭部で止まった。

最後に見たいものは、何もなかった。

誰かの顔を思い出そうとしても、浮かぶのは標的の目ばかりだ。九歳で撃った男、十二歳で撃った女、十五歳で撃ち損ねて逃げられた子供。全員、俺の祈りを裏切って、あるいは祈りの通りに、等しく俺の記憶に焼き付いている。

——ああ、一つだけ、思い出せることがあった。

孤児院の庭に、小さな柿の木があった。七歳の冬、焼け落ちる建物の影で、あの木だけは奇跡的に燃え残った。翌朝、瓦礫の中から引き出された俺の掌には、まだ青い柿の実が一つ、握られていた。誰にもらったのか、なぜ握っていたのか、今でもわからない。煤で真っ黒になった指の間で、その実だけがやけに鮮やかな緑をしていたのを、今も覚えている。

けれどその実の重みだけが、ずっと俺の心臓の裏側に残っていた。

「撃て」

先輩の声が、冷たく命じる。

銃の安全装置が外れる、五つの金属音。

俺は思った——もし、もう一度だけ祈ることが許されるなら。

どうか、次に生まれ変わったら、誰かに「おかえり」と言える人間でありますように。

——ぱちん。

指を鳴らす、乾いた音が一つ。

廃倉庫の空気が、止まった。

文字通りの意味でだ。天井から落ちる雨漏りの雫が、空中で静止していた。埃の粒が、光の筋の中で凍りついたように浮いている。処分班の五人の指が、引き金の一歩手前で固まっていた。呼吸の音さえ消えて、耳の奥にだけ、自分の心拍がやけに大きく響いていた。

雨漏りの雫は、半透明の涙粒のように、天井と床のちょうど中間で浮かんでいた。指を伸ばせば触れられそうな距離にあるそれは、けれど確かに重力を忘れていて、触れた瞬間に砕ける予感だけが指先を痺れさせる。短機関銃の銃口から滲み出した熱気も、空気中で薄い紗となって停滞し、まるで誰かが世界の再生ボタンを押し忘れたかのようだった。唯一、自分の皮膚を伝う汗だけが、やけに生温かく、生きている証拠として額の端を流れ落ちていく。鼻の奥に残っていた硝煙の刺激も、時間から剥がされたまま、薄膜の向こうに閉じ込められているようだった。

俺は目を開けた。

瓦礫の向こう、倒れた鉄骨の影から、誰かが歩いてくる。革靴の音、スーツの裾が揺れる気配、そして——煙草の匂い。止まった空気の中で、その匂いだけがゆっくりと広がっていく。まるで、時間から除外された者の特権のように。

その香りは、俺が裏社会で嗅いできたどの煙草とも違った。湿った夜の土と、遠い日の焚き火が混じったような、妙に懐かしい匂い——けれど、どこで嗅いだのか、記憶の底をいくら探っても輪郭が掴めない。ただ、七歳の冬に握っていた青い柿の実の、あの鮮やかな緑だけが、不意に瞼の裏へ蘇った。

その男は、なぜか笑っていた。

止まった世界の中で、ただ一人、自然に呼吸をしながら。

「お前」

男の声が、俺の鼓膜を撫でる。

「引き金を引く瞬間に、祈ってるな」

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