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解式のランクZ――最弱退魔師、階級を喰い上がる

第3話 第3話

第3話

第3話

紺色の輪郭が、俺を見返している。  目はなかった。けれど、見られている、という確信だけが、みぞおちの裏側で冷たい玉になった。墨色の縄束の奥——幾重にも巻き取られた呪の芯の、一番深い場所。誰かの顔のような輪郭が、「あぁ」と、声にならない声の形で、ゆっくりと口を開けた。  開いた口の中に、俺の名前があった。  佐伯蓮、と呼ばれた気がした。呼んだのは、俺の知らない誰かだった。知らないのに、その呼び方だけは、どこかで聞いたことがあった。生まれる前の、どこかで。  指先が、結節点の継ぎ目から、さらに深く沈んでいく。  手順書が、脳の奥で次のページをめくった。最初の結び目を外した。次は、その結び目が固定していた三本の糸を、外側から順に、張力を抜きながら逆走させる。三本のうち、真ん中の一本には「鉤」が仕込まれているから、その鉤だけは、ほどく前に反転させなければならない。反転させないと、鉤が俺の指ごと引きちぎる。  知っている。知らないのに、知っている。  右手の人差し指が、中指と組み合わさり、縄束の継ぎ目の中で、小さな円を描いた。円の内側で、糸が逆向きに一度だけ脈打ち、鉤の向きが、くるりと反転した。  縄束の全体が、ぐらりと傾いた。  傾いた反動で、荷台の天井板が、めきめきと軋む。檻の中で封印された残り二体の呪物も、つられて振動している。紙垂が鈴のように鳴った。御厨さんの五芒星の、光り損ねた五つ目の頂点が、俺の足元で、ぱちりと音を立てて消えた。

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 縄束が、逃げようとした。  初めて、はっきりと、そう思った。「逃げようとしている」と、視界の構造図の上で、流路の先端が、俺の指から離れる方向に折れた。いままで獲物を引き寄せていた鉤が、内側に畳まれ、縄束の中心に、小さな種のような核が引っ込んでいく。核さえ残せば、また芽を出せる——そういう類の、生き汚い設計だった。  させるか、と、口の中が勝手に動いた。  右手の甲の紋様が、さらに一段、濃くなった。鎖骨の下まで届いていた線が、首を回り込み、左の耳の裏まで這い上がった。耳の奥で、御厨さんの指先の温かさが、燃料として、ちりちりと燃えていくのが分かった。ごめんなさい、と、声に出さないまま、もう一度だけ謝った。  縄束の縁を、左手の掌でつかんだ。  つかんだ、というより、構造図の上で、「ここを押さえる」と指示された場所に、ただ手を置いた。置いた瞬間、縄束の表面の糸が、俺の手のひらの皮膚と、ひとつながりになった。皮膚の上に、縄束の流路が、赤い線として浮き出る。俺の血管の上を、縄束の呪が、すいすいと泳いでいる。気持ち悪いはずだった。けれど、気持ち悪さよりも、構造が読める快さの方が、先に立った。  ——逆流させる。  手順書の、一番最後のページの、一番下の行が、勝手に読み上がった。  右手の人差し指を、縄束の継ぎ目から、ゆっくりと引き抜く。引き抜きながら、指の先にかかった、一番奥の糸を、指の腹に巻きつける。巻きついた糸は、細いのに、異常に冷たかった。冷たさの奥に、誰かの嘆きの温度があった。その嘆きごと、俺は指を、手首を、肘を、反時計回りに回した。  縄束の内側で、呪の流路が、全部、逆を向いた。  さっきまで先輩たちの水分を吸い上げていた鉤が、いま、自分の中身を吐き出している。吐き出された呪が、流路を逆走して、核に向かって集中していく。核は、膨らんだ。膨らんで、歪んで、ひびが入った。  荷台の照明が、一度、完全に落ちた。  真っ暗な中で、俺の右腕の紋様だけが、薄く発光していた。その光に照らされて、縄束の輪郭が、自分の重みを支えきれずに、内側からめくれ返っていく。めくれた縄の裏側は、剥き出しの、生々しい、呪の臓腑だった。  核が、最後に一度、俺の名前を呼んだ。  今度は、はっきりと、「母さんの子」と呼んだ気がした。  聞き返す前に、核は、自分の張力で、自分を引きちぎった。

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 荷台の爆発は、音より先に、光として来た。  紺色の閃光が、真っ暗だった荷台の内側を、一瞬だけ昼にした。昼の光の中で、御厨さんの倒れた体と、先輩二人の縮んでしまった輪郭と、檻の中の残り二体の呪物の木箱と、俺自身の右腕と——全部が、同じ明るさで、白く浮かび上がった。  次の瞬間、光は内側に畳まれ、代わりに、荷台の鉄板が、外側に向かって吹き飛んだ。  横倒しになったトラックは、首都高の側道の縁石を削りながら、ガードレールに腹を擦り付けて止まった。荷台の屋根は、半分が空に向かって開いていた。開いた空から、四月の湿った夜風が、真っ直ぐに吹き込んできた。風に混じって、遠くのパトカーのサイレンが、薄く聞こえた。  俺は、ひしゃげた荷台の真ん中で、膝をついていた。  右手は、まだ空中の、ありもしない継ぎ目をつかんだままの形で、固まっていた。指の腹に、糸の冷たさが、まだ残っている。手の甲の紋様は、ゆっくりと光を落としていた。けれど、消えない。消えずに、皮膚の下に、しっかりと根を張ったまま、そこに居座っている。  荷台の床に、紙垂のついた木箱が二つ、転がっていた。檻は原形を留めていたが、中身の一つは——さっきの縄束の本体だ——跡形もなかった。残り二体は、封印札がまだ効いていて、大人しく呻いている。  先輩たちは、戻ってこなかった。  御厨さんの体のあった場所には、御厨さんの形をした、乾いた灰の層があった。灰の中から、右手の人差し指の骨だけが、ちゃんと結界の頂点を指し示す形のまま、突き出ていた。俺は灰の上に、掌を置いた。まだ、ほんのりとあたたかかった。あたたかさは、しばらくしたら消えるだろう。消える前に、俺の喉から、声が出た。 「……ごめん」  誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。  御厨さんにか、鳴海さんにか、先輩二人にか、妹にか、母にか、それとも、今夜、最弱のランクZだけが生き残ってしまった、という事実そのものにか。  たぶん、全部にだった。

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 サイレンの音が近づいてくる。黎明会のサイレンだ。パトカーのそれとは音色が違う。低く、一定の周波数で、結界を揺らさない種類の音。黎明会が現場に到着するまで、あと数分。  俺は、ひしゃげた荷台の縁に手をかけて、外に出た。出た、というより、転がり落ちた。脇腹の痛みが、ようやく、順番に戻ってきた。鳴海さんに殴られた痕、膝を打った痕、掌を切った痕——ひとつひとつが、別々のタイミングで、別々の痛みを、正直に主張しはじめた。  側道のアスファルトの上に、俺は尻をついて座った。缶コーヒーは、どこかで落としていた。右手の甲の紋様が、街灯のオレンジの光の下で、黒く、妙にはっきりと浮かび上がっていた。  サイレンが止まった。  黒いワゴンが二台、側道に斜めに停まる。スーツの男たちが、慣れた手つきで、爆発した荷台を囲い、結界の幕を張りはじめた。仕事が早い。先輩たちを灰ごと回収する袋も、もう用意されていた。  その中から、一人だけ、ワゴンを背にして、俺の方に歩いてきた者がいた。  査定官、と、黎明会の誰かが小さく呼んだ。  査定官は、四十前後の、背の高い、痩せた男だった。黒い手袋の指先だけが、奇妙に長く見えた。査定官は俺の前で足を止め、片膝を折り、俺の右腕の、肘のあたりを、覗き込むように見た。  俺は、慌てて袖を下ろそうとした。  下ろしかけた俺の手を、査定官は、黒い手袋の指先で、やんわりと押さえた。押さえる力は弱かったのに、指先の下で、紋様が、ぴくりと反応して、もう一度だけ、薄く発光した。  査定官は、発光を見逃さなかった。  見逃さないどころか、その光を、自分の目の奥に、丁寧に焼き付けるように、長く、長く、瞬きを止めた。  息を、吸う音が、聞こえた。  査定官は、俺の顔を見ない。紋様だけを見ている。見ながら、ごく小さな声で、独り言のように呟いた。聞こえるかどうか、ぎりぎりの音量だった。 「……生きて、戻ってきたか。ランクZが」  それから、もうひとつだけ、別の言葉を呟いた。今度は、俺には聞き取れない速さで、名前のような音が、唇の間を、するりと抜けていった。  査定官は立ち上がり、ワゴンの方を振り返って、誰かに指を二本、立てて見せた。  その指のサインが何を意味するのか、ランクZの俺には分からなかった。  ただ、査定官の後ろで、別のスーツの男が、俺の方に素早く視線を走らせたのは、見えた。視線の質が、鳴海さんや御厨さんのそれとは、はっきり違っていた。品定め、と呼ぶには、もう少し冷たい。値札を、付け替える前の、ひと呼吸の間の、あの目だった。  右手の甲で、紋様が、最後に一度、静かに脈打った。

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