Novelis
← 目次

解式のランクZ――最弱退魔師、階級を喰い上がる

第2話 第2話

第2話

第2話

ぷつり、と、何かが解ける感触が、指先を通り抜けた。  紙を裂くのとも、糸を切るのとも違う。もっと柔らかくて、もっと確信のある音だった。「ここを外す」と、自分より先に指が知っていた——そういう類の感触。  その感触の先で、天井の黒い影が、一度だけ大きく震えた。  影の表面に、ぴしりと細い亀裂が走る。亀裂の奥から、墨の色ではない、もっと深い紺色の光が、一瞬だけ漏れた。光は瞬きの間に引っ込み、代わりに、影は全体の輪郭を乱暴に作り直しはじめた。さっきまでの、形のない薄い膜のようだった姿から、太い縄のような束へ。束は荷台の天井にたっぷりと垂れ込めて、檻の上にとぐろを巻いた。  怒らせた、と、頭のどこかで冷静な声が言った。  俺の声じゃない。でも、俺の中にいる声だった。 「——佐伯」  御厨さんが、俺の名前を呼んだ。初めて「佐伯」と呼ばれた気がした。ずっと「ランクZ」だったから。  御厨さんは、自分の左肩を右手で押さえていた。押さえた指の隙間から、黒い煙のようなものが、じりじりと溢れ出している。さっき、鳴海さんの袖口が壁を滑り落ちた、あの一瞬の間に、御厨さんの肩の肉も持っていかれていたらしい。それでも御厨さんは、結界の印を、右手の人差し指だけで書き直しはじめた。指先が、床の埃の中に、細く短い線を何度も刻む。線はすぐに黒い煙で滲んで崩れ、それでも御厨さんは、崩れた線の上に、別の線を重ねて書いた。歯を食いしばる音が、荷台の床板を伝って、俺の踵まで届いた。

---

 後ろの扉の前で、他の二人の先輩が扉のロックを叩いていた。走行中のトラックだ、外から電子ロックが掛かっている。二人は同期らしく、揃って拳で扉を殴り、揃って肘で窓を砕こうとした。窓の強化ガラスは、先輩たちの肘を、ごく当たり前に跳ね返した。跳ね返された肘の骨が、服の内側でごりっと鈍い音を立てた。それでも二人は、殴るのをやめなかった。やめたら、たぶん、もう立っていられないからだ。 「開けろ、開けろ開けろ開けろ」  若い方の先輩が、呪符の束を扉に張り付ける。水色の線が、扉の継ぎ目に沿って走る。解錠の術式。俺でも知っている、黎明会の基本呪符だ。指先が震えていた。震える指先でも、呪符の順番だけは、体に染み付いた手癖で間違えなかった。一枚、二枚、三枚——四枚目を貼ろうとした先輩の手首を、もう一人の先輩が掴んだ。掴んだ手の甲に、冷や汗が粒になって浮いていた。  その術式が扉に届く、ほんの一瞬前に、天井の縄束が、ぱしゃ、と床に落ちた。  落ちたというより、重力を思い出した、と言う方が近い。水銀みたいな重みを持って、縄束は先輩二人を押し潰した。悲鳴はなかった。潰れた先に、悲鳴を出すための肺がなかった。潰された体からは、血の匂いさえ上がってこなかった。代わりに、乾いた紙を握り潰したような、ぱきぱきとした音だけが、数秒だけ続いて、やんだ。  黒い縄束の下で、呪符だけが、水色の光を一瞬だけ瞬かせて、消えた。  俺の目には、全部が、見えていた。  先輩たちの体が、縄束に触れた瞬間、何が起きたのか——その「術式の手順」が、順番に脳の奥で再生される。縄束の表面に並んだ、細かな鉤。鉤が先輩の皮膚に刺さった瞬間、皮膚から体温を媒介として、内側の水分を引き抜く呪。引き抜かれた水分が、縄束の内側を通って、天井の結節点——ほどかれる前の、あの結び目——に還流する仕組み。  見えた。見えた、というより、手順書を読まされたようだった。知りたくもない工程が、一行ずつ、勝手にめくられていく。止める方法は、俺にはなかった。  御厨さんが、左肩の煙を無視して、荷台の床に掌を押し付けた。床に、水色の大きな五芒星が描き出される。俺が今まで見たことのある結界の中で、一番でかい。五芒星の線は、御厨さんの掌の熱で床板を焦がしながら、自分で伸びていくように広がった。 「佐伯、伏せろ」  五芒星の頂点が、順番に発光していく。攻性結界ではなく、内向きの——つまり、荷台ごと封じ込める結界。御厨さんは、自分ごと、この影を閉じ込める気だ。  五芒星の四つ目の頂点が光ったところで、天井の縄束の一本が、獲物を探すようにしなやかに伸びた。御厨さんの首筋に、針のように細く、深く、刺さった。  光りかけていた五芒星が、内側から萎んでいく。御厨さんの膝が床についた。それでも御厨さんは、五つ目の頂点を指差して、最後の印を完成させようとした。人差し指の骨の形が、皮膚の下で、はっきりと浮き上がるほど強く。唇が、声にならない音の形に、何度か開いて閉じた。たぶん、誰かの名前を、呼ぼうとしていた。  五つ目の頂点は、光らなかった。  御厨さんの指先が、光り損ねた頂点の手前で、ぱさりと床に落ちた。結節点の呪が、御厨さんの水分を吸い上げはじめた音だ。肩の煙だったものが、いまは体ぜんたいから吹き出していた。  荷台の中で、立っているのは、俺だけになった。

---

 右腕の紋様が、制服のブレザーの袖を黒く透かした。  線は肘を越え、肩を越え、鎖骨の下まで這ってきていた。痛みはない。ただ、紋様が走った場所から、皮膚の下の血管が、血ではない何かを流している感覚があった。冷たくもなく、熱くもない。ただ、そこを「通っている」という手応えだけが確かにある。通っているのは、たぶん、俺ではない誰かの記憶だった。会ったこともない職人の、指の癖のようなもの。  頭の中で、知らないはずの文字が、勢いを増して並びはじめる。  さっき一つ目の結び目を解いたときは、目の前の糸だけが見えていた。いまは違う。荷台の天井から垂れ下がった縄束、その縄束を構成する数百本の糸、糸の一本一本に刻まれた鉤、鉤を通る呪の流路、流路の分岐、分岐の先にある結節点、結節点を固定する符号——全部が、俺の視界の上に、透明な三次元の図面として重なっていた。線の一本ごとに、太さと張力と、ほどく順番の番号まで、細かく振られていた。  構造、という言葉が、口の中に自然に浮かんだ。  これは、構造だ。  魔術でも、祟りでも、奇跡でもない。ただの、複雑に編まれた構造物。編まれているなら、ほどける。ほどくためには、編み目を、正しい順番で、逆から戻してやればいい。  右手の指先が、ほどき方を、すでに知っていた。  天井の縄束は、御厨さんの水分を吸い切って、満足そうに一度、脈打った。脈打った瞬間、俺には縄束全体の流路が、どこに詰まり、どこが弛み、どこが今まさに開こうとしているのかが、数値のように読めた。  俺は、床を踏んだ。脇腹の痛みが、初めて思い出された。それでも、膝は震えなかった。震えるべき神経が、どこか別の回路に繋ぎ変えられたみたいだった。 「——御厨さん」  御厨さんの、落ちた指先のそばまで歩いた。指先は、まだほんのりと温かかった。その温かさを、右手の甲の紋様が、光で拾い上げるように吸い込んだ。紋様が、一段だけ濃くなった。温度が、紋様の中で、呪の燃料に変わっていくのがわかった。申し訳ない、と思う前に、指が勝手に動いた。  縄束が、俺を見た。  目は、やっぱりなかった。でも、縄束の表面に走る無数の鉤が、すべていっせいに、俺の方を向いた。その「向き」は、視線よりも、もっと鋭い指向性を持っていた。  俺は、右手を上げた。  縄束の、一番太い結節点に、人差し指の先で、触れた。  触れた、というより、指先が先に、結節点の「継ぎ目」に吸い込まれた。指が入り込んだ継ぎ目の奥で、呪の流れが、逆向きに一度、脈打った。縄束全体が、びくり、と震えた。

---

 俺の喉から、俺の声ではない、低い声が漏れた。 「——ほどく」  それは、宣言ではなかった。もう始まっている作業の、手順書の最初の行を、口に出して読み上げただけだった。  縄束の結節点が、いま、俺の指先の動きに合わせて、一本ずつ糸をほぐしはじめている。  天井の照明の下で、影の中心に、初めて——「中身」が、見え始めた。  墨の色の奥に、紺色の光。紺色の光の奥に、もっと深い、誰かの顔のような輪郭。  その輪郭が、俺の名前を知っているみたいに、こちらを見返した。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ