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解式のランクZ――最弱退魔師、階級を喰い上がる

第1話 第1話

第1話

第1話

夜の首都高を走るトラックの荷台で、俺はまた殴られていた。 「鈍いんだよ、佐伯。札一枚もまともに張れねえのか、非才」  鉄パイプみたいな先輩の革靴が、俺の脇腹にめり込む。制服のブレザーの内側で、あばらが軋んだ音を立てた。口の中に鉄の味が広がる。それでも俺は、右手に握り込んだものを絶対に離さなかった。百二十円の缶コーヒー。微糖。冷えた缶の汗が、指の節を湿らせていく。  これが、今夜の俺の報酬だ。  ランクZ——裏組織「黎明会」の序列で、一番下。正社員にもアルバイトにもカウントされない、呪物運搬の下働き。高校生が夜中の十二時過ぎまで缶コーヒー一本で働かされる理由なんて、常識的に考えればひとつしかない。常識的じゃない、っていう一点に尽きる。 「黙ってねえでなんか言えよ、ランクZ」  先輩——名前なんて覚える価値もない、ランクCの鳴海さんが、俺の髪を掴んで顔を上げさせた。荷台の奥、金属の檻の中で、紙垂のついた木箱が鈍く発光している。封印札で目張りされた呪物。今夜の積荷は、それが三体。  俺は床に目を落としたまま、答えなかった。答えれば長引く。答えなければ、鳴海さんは次の積荷のことを思い出す。トラックが首都高を下りるまで、あと十五分。それだけ耐えればいい。  制服のポケットで、スマホが一度だけ振動した。病院からの定時メッセージだ。見なくても内容は分かっている。 「佐伯結衣さん、本日も状態に変化はありません」  ずっと、そうだ。妹が交差点で跳ねられてから、一年と四ヶ月。意識は戻らない。個室はとっくに追い出されて、今は相部屋の一番奥、カーテンの向こう側。そのカーテンの内側には、機械の呼吸音しか流れていない。  俺が黎明会に拾われたのは、事故から二ヶ月後のことだった。保険じゃ足りなかった。親戚は誰も払わなかった。父は最初からいなかったし、母は——母は、もっと前に失踪した。だから黎明会の担当者が病室のドアを開けて「月四十万、工面する方法がありますよ」と言ったとき、俺は未成年のサインを差し出した。  降りる道はない。缶コーヒー一本でも、殴られても、俺はここにいるしかない。

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 首都高を下りて一般道に入ったあたりで、空気が変わった。  いや、「空気」じゃない。もっと内側、鳩尾の奥にある、目に見えない器官みたいなものだ。その器官が、じりじりと焦げていた。焼けた針金を飲まされたような、痛みに似て痛みではない感覚。呼吸をするたびに、その器官のまわりの粘膜が、じくじくと膨らんでいくのが分かる。俺は無意識に、缶コーヒーを持った手を胸のあたりに押し当てていた。缶の冷たさだけが、かろうじて現実をつなぎとめていた。  耳の奥で、トラックのエンジン音が遠のいていく。それと入れ替わりに、聞こえるはずのない音が鼓膜を撫でた。細い、細い、鈴を振るような音。幼い頃、祭りの夜に神社の境内で聞いた音に似ている。けれど、もっと湿っていて、もっと冷たい。  鳴海さんが俺から手を離し、檻の方を振り返る。 「……おい、音、しないか」  鳴海さんの声は、さっきまでのふざけた調子とは明らかに違っていた。語尾が、ほんの少し、震えていた。  荷台にいる三人の先輩のうち、一番年嵩のランクBの男——確か御厨さんが、舌打ちして立ち上がった。御厨さんの背中に、水色の術式線が走るのが見える。攻性結界の展開前動作だ。俺ごときにも分かる、熟練の予備動作。指を三本、人差し指と中指と薬指だけ立てて、空中に印を切っていく。空気が、彼の指先を追いかけて、さざなみのようにたわむ。 「札、全部張り直せ。佐伯、お前がやれ」  俺は壁に手をついて立ち上がった。脇腹が熱い。差し出された予備の封印札の束——七十二枚——を、震える指で受け取る。紙の手触りが、いつもより重い。湿気を吸ったみたいに、ひとつひとつが呼吸しているようだった。  そのとき、ポケットの中で、別の振動が始まった。  スマホじゃない。  制服の左胸、内ポケットに隠していた、俺個人の封印札だった。黎明会に入ってすぐに、見習いの初月給から天引きで買わされた護符。普段はただの古紙みたいに湿っているだけの、なんの反応もしない札だ。  それが、心臓のすぐ横で、うねっている。  紙が紙じゃないみたいに、くねって、脈打って、熱を帯びている。薄いはずの一枚が、内ポケットの布越しに、まるで小さな生き物の背中を撫でているような感触を返してくる。熱は次第に上がり、乳首の下あたりの皮膚が、火傷の一歩手前で痺れはじめた。  ばくん、と。  俺の心臓より、その札のほうが大きく鳴った。 「……あの」  声を出した瞬間、檻の奥の木箱の一つが、ぱきり、と音を立てた。封印札の目張りが、真ん中から綺麗に裂けた。裂け目から、墨のような黒い蒸気が、ひと筋、細く立ち昇る。蒸気は天井に届く前に、空中でふっと方向を変えた。まるで意思を持った小さな蛇みたいに、荷台の照明へ向かって、するすると這い上がっていった。  御厨さんの水色の結界が、間に合う前に。  荷台の照明が一度暗転して、次に点いたとき、天井には黒い影が貼り付いていた。形は、ない。けれど確かに「居る」。通勤客もサラリーマンも、首都高の外の世界の誰も気づいていない、昼の日本の裏側。  見えてしまった、と思った。ずっと札の振動でごまかしてきたものが、今夜、はっきりと、俺の網膜に焼き付いた。  鳴海さんが、口を開けたまま、天井を見上げて固まっていた。唇の端から、言いかけた悪態が、途中で止まって凍りついている。目だけが、まばたきを忘れて大きく見開かれていた。

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 御厨さんの結界が展開しきる前に、天井の影が一度だけ、ゆらりと揺れた。  次の瞬間、鳴海さんがいない。  視界の端で、赤いものが壁を滑り落ちていくのが見えた。鳴海さんの、革ジャンの袖口だったものだ。袖口のファスナーの金具が、壁を引っ掻きながら、床まで転がってきた。チリン、と、その金具が俺の靴のつま先に当たって、小さく跳ねた。まるで、さっきまで人間だったものが、ただの金属片になった合図みたいだった。  他の二人の先輩が同時に叫んで、後ろの扉に向かって走る。靴底がリノリウムの床を蹴る音が、やけに大きく響いた。御厨さんだけが、俺の前に腕を伸ばして、 「逃げ——」  そこで、御厨さんの声も、途切れた。  俺は尻もちをつきながら、内ポケットの札を引き抜いていた。  熱い。札が、熱い。指の腹の皮が、紙に張り付きそうなほど熱い。けれど、離せなかった。離したら、自分の芯まで一緒に抜け落ちていく気がした。  握り込んだ右手の甲に、見たこともない黒い線が、すっと一本、走った。それから二本目。三本目。線が線を呼び、紋様が浮かび上がる。指の骨の上を這い、手首を越えて、制服の袖の下へ潜っていく。線は生き物のように分岐し、合流し、また分かれて、皮膚の下で勝手に設計図を描いていく。  痛みはない。ただ、頭の中に、知らないはずの文字が、勝手に並びはじめていた。知らないはずなのに、読める。読めるどころか、その意味が、母国語よりも深いところで、すでに分かっていた。  天井の影が、俺を見下ろしている。多分、見下ろしている。目なんて無いのに、視線だけははっきりと分かる。視線は、重かった。肩を、首を、背骨を、上から順番に押し潰してくるような重さ。それでも俺の膝は、不思議と折れなかった。  逃げろ、と声がした。御厨さんの、最後の声だ。  俺は、逃げなかった。  逃げたら、妹の医療費は止まる。逃げたら、鳴海さんを、御厨さんを、置き去りにしたランクZが、缶コーヒー一本の夜を、意味のない夜に変えてしまう。あのカーテンの向こうの呼吸音を、俺の代わりに止めてしまう誰かが、きっと現れる。それだけは、駄目だ。  震える手のひらを、影に向かって突き出した。  右手の甲の紋様が、一気に光った。

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 黒い影の「形」が、俺の目にだけ、ほどけて見えた。  糸だった。細い、細い、術式の糸の束。どこで結ばれ、どこで閉じているのか、その構造の全部が、俺の網膜に構造式として展開していく。  ——解ける。  確信だけが、妙に静かに胸に落ちた。  トラックの荷台で、ランクZの俺の指先が、空中の糸に触れる。ぷつり、と、一番外側の結び目が、素手でほどけた。

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