第1話
第1話
誰もいない訓練場に、術式の残響だけが反響していた。
午前二時。地下三階、特務機関「鬼灯」第七訓練場——正規隊員の使用予約が途切れる深夜帯だけが、俺に許された時間だった。
コンクリートの壁は結界術式の焼け跡で黒ずみ、天井の蛍光灯は三本に一本が切れている。正規隊員が使わない時間帯だから修繕の優先度も低いのだろう。足元には前の使用者が残した術式陣の粉塵がうっすらと積もっていて、踏むたびにじゃりっと音がした。
基礎術式・壱型。霊力を掌に凝縮し、的に向けて放つ。それだけの、入隊初日に習う最も単純な術式。右手に淡い光が灯る。豆電球みたいな、頼りない光。集中を研ぎ澄ませて——放つ。
光弾は三メートル先の標的に届く前に霧散した。
また、失敗。
額の汗を袖で拭い、息を整える。訓練場の空気は消毒液と埃が混じった独特の匂いがする。壁に埋め込まれた霊力計測パネルには「E」の文字が青白く点灯していた。観測史上最低。入隊してから九ヶ月、この表示が変わったことは一度もない。
九ヶ月。二百七十日以上、毎晩この場所に立ち続けている。壱型を何千回撃ったか、もう数えていない。数えることに意味がなくなったのは、百回を超えた頃だったと思う。
灰堂蓮、十七歳。特務機関「鬼灯」所属——という肩書きだけは、まだ残っている。
翌朝、地上階のオフィスに出勤すると、いつもの光景が俺を迎えた。
デスクの上に積まれた書類の山。任務報告書の転記、備品発注リスト、倉庫の在庫棚卸し表。術師としての仕事は何一つない。隣のデスクは空だ。同期の氷室凛は先月Bランクに昇格し、第三実戦部隊に配属された。今頃は都内のどこかで異能犯罪の鎮圧に当たっているのだろう。彼女の机にはまだ私物が少し残っていて、引き出しの隙間から淡い青色のお守りが覗いている。入隊式の日に二人で買ったものだ。俺の分は、制服のポケットの底で擦り切れかけている。
「灰堂、倉庫のB-7棚に昨日の押収品が届いてる。分類しといて」
総務の笹原さんが、こちらを見もせずに言った。悪意はない。ただ、それが俺の仕事だという事実があるだけだ。
「はい、すぐやります」
立ち上がり、地下倉庫へ向かう。薄暗い廊下を歩きながら、壁に掲示された組織図が目に入った。実戦部隊、情報部、技術開発部、対策本部——どこにも俺の名前はない。「総務部付・雑務担当」。正式な役職すらない。
すれ違う職員が軽く会釈してくる。顔は知っている。名前は知らない。向こうも俺の名前を知らないだろう。すれ違うだけの関係が九ヶ月分積み重なって、互いの存在が廊下の非常灯くらいの存在感に落ち着いている。
倉庫の重い扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。押収された異能関連の物品が無造作に段ボールに詰められている。呪符の残骸、壊れた結界装置、正体不明の霊装の欠片。本来なら技術部が分析するべきものだが、人手不足を理由に雑務扱いで俺に回ってくる。
黙々と仕分けを進める。手に取った呪符の断片から、微かに霊力の残滓を感じた。指先が痺れるような、冷たいような感覚。こういう時だけ、自分にも術師としての素養があるのだと思い出す。
呪符の切断面に指を滑らせると、込められていた術式の構造がぼんやりと伝わってくる。束縛系の呪符だ。霊力を編んで対象の動きを縛る、中級術式。構造は理解できる。頭では組み立て方も分かる。ただ、それを自分の霊力で再現する力がない。知識と実力の乖離が、いつも一番堪える。
昼休み、食堂の隅で定食を食べていると、大型モニターに速報が流れた。
『——新宿区で異能体の出現が確認され、特務機関による制圧作戦が展開されています——』
画面に映る戦闘映像。結界が展開され、術式の光が飛び交う。その中に、見覚えのある動きがあった。氷室だ。氷結術式で異能体の動きを封じ、後続の部隊が殲滅する。教科書通りの連携。綺麗な戦い方だった。
氷室の術式が画面越しにも分かるほど鮮やかに輝いていた。展開速度、収束精度、範囲制御——どれも訓練生時代とは別次元だ。実戦が術師を育てるというのは本当らしい。一方で俺は倉庫の埃を吸い込みながら、壊れた結界装置のシリアル番号を台帳に書き写している。同じ九ヶ月が、こうも違う場所に人を運ぶ。
周囲の職員たちが画面を見ながら話している。
「氷室、また活躍してるな」 「Bランクであの動き、すぐAに上がるだろ」 「同期の灰堂と比べると——まあ、比べるのも失礼か」
聞こえないふりをして、味噌汁を啜った。舌が熱さを感じるより先に、喉の奥が詰まるような感覚があった。
悔しくないと言えば嘘になる。でも、悔しがる資格があるのかも分からない。Eランク。それが計測された俺の全てだ。霊力量、術式適性、戦闘予測値——すべての数値が最低域。入隊できたこと自体が奇跡だと、何度も言われた。
入隊試験の日のことを思い出す。実技で壱型すらまともに撃てなかった俺に、試験官が首を傾げながら言った。「霊力感知だけは異常に高いな」。それが唯一の合格理由だった。感知能力だけが突出していて、他の全てが底辺。歪な才能——いや、才能と呼べるかすら怪しい。
それでも俺は、毎晩あの訓練場に立ち続けている。
基礎術式すらまともに撃てない自分が、なぜそうするのか。理由は単純だった。術式を練る時、右手に光が灯る瞬間——ほんの一瞬だけ、胸の奥で何かが応える感覚がある。計測器に映らない、数値にならない、けれど確かにそこにある「何か」。それを手放したくなかった。
自分の力を、自分だけは信じていたかった。
その日の夜も、訓練場に降りた。
午前一時半。非常灯の薄明かりの中、壱型の構えを取る。深く息を吸い、腹の底から霊力を引き上げる。掌に光が灯る。いつもと同じ、頼りない光——のはずだった。
不意に、指先の感覚が変わった。
霊力が掌の表面ではなく、もっと深い場所から滲み出してくる。骨の髄を通って、血管を伝って、皮膚の下で渦を巻く。普段とは明らかに異なる流れ。制御しようとする意識とは別に、身体が勝手に霊力の経路を組み替えていく。
熱い。腕の内側が灼けるように熱い。だが痛みではない。凍えた指先を焚き火にかざした時のような、巡りが戻る感覚。九ヶ月間ずっと細い管を無理やり通していた霊力が、本来の太さの経路を見つけたかのように、一気に流量を増した。
壱型の構えが、自分でも知らない形に変容していた。
指の開き方が変わっている。掌の角度が違う。霊力の出口が一点集中ではなく、五指の先端から螺旋状に収束していく。頭が理解するより先に、身体がその形を「正解」だと知っていた。
怖い、と思った。同時に、これだ、とも思った。
放った光弾は——標的を貫通し、背後の壁に亀裂を走らせた。
訓練場に衝撃波が残響する。耳の奥がきんと鳴り、空気が焦げた匂いが鼻を突いた。標的の中央に拳大の穴が開き、その向こうの壁にはクモの巣状のひび割れが広がっている。壱型の最大出力でも標的に命中させるのが精一杯のはずだ。壁を割るなど、B級術師の出力に相当する。
俺は自分の右手を見つめた。指先が小刻みに震えている。霊力計測パネルの数値は——Eのまま、変わっていない。あれだけの出力を出したのに。
「……なんだ、今の」
呟いた声が、無人の訓練場に吸い込まれた。
壁の亀裂を見上げる。あれは壱型じゃない。壱型の構えから入ったはずなのに、途中で術式の構造そのものが書き換わった。分解されて、再構築されて——まるで別の術式として再生したかのような。
もう一度、と構え直した瞬間、訓練場の扉が開いた。
「灰堂」
振り返ると、総務の笹原さんが立っていた。こんな時間に珍しい。その表情がいつもと違う——少しだけ、気まずそうな顔をしている。
「明日〇六〇〇、第二会議室に出頭。護衛補助任務の要員に選出された」
「——護衛補助? 俺がですか」
「人手が足りないんだよ。B区画で異能体の活性反応が出てて、正規の護衛チームだけじゃ頭数が足りない。お前は後方待機の補助要員だ。前には出るなよ、絶対に」
笹原さんはそこで一度言葉を切り、壁の亀裂に目をやった。眉がわずかに動いたが、何も聞かなかった。視線を戻し、「〇六〇〇だ、遅れるなよ」とだけ繰り返して、足早に去っていった。
護衛補助。後方待機。つまり荷物持ちか見張り番だろう。それでも、初めての実戦任務だ。
壁の亀裂を背に、俺は右手を握り締めた。指先にはまだ、さっきの異質な霊力の残滓がちりちりと燻っている。計測器が拾わない力。自分でも正体が分からない力。
明日の任務で、それが何を意味するのか——嫌な予感と、抑えきれない期待が、胸の中で絡み合っていた。